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「これでも感謝しているんです(後)」


 朝。歩きながら、僕は比叡にいた頃を思い出していた。
 逃げ回って、逆手にとって、相手を罠にはめて優越にひたっていたあの頃。

 僕の生まれた熊野別当家も大概だったけれど、比叡は更にそれ以上だった。
 徳を高め世を清めようとする思慮深く志高き慎ましき僧侶もいた。たくさんいた。けれどそうではないものが僕の眼には映りすぎていた。名誉欲金銭欲性欲支配欲。そんなものが渦巻き、停滞し、酷い事になっていた。……かくいう僕も、今も昔も知識欲にすっかりとまみれていたので、人の事を言えたものでは全くなかったけれど。
 そんな者達の腹の探り合いのようなものばかりが続くあの場所も、仏に帰依する者の住まいであったわけで、鬼のようだと言われた僕の外見は大層人目を引いた。怯え蔑むものがほとんどだったけれど、この髪に興を引かれ、あるいは恐怖を克服するために僕を陥れようとか嬲ってやろうという輩も多かった。最初は10になった頃だったか、夜中に一人呼び出され、当時男同士でまぐあう姿を目にしたことはあった僕でもまさか自分が、とは思っていなかったので、素直に出向いたら太い腕で強引に腕を掴まれ口に布を詰め込まれた。何をされると分からずともそれが真っ当じゃないことくらい分かった僕は、その場は思いきり顎を蹴飛ばし逃げた。僕が薙刀の鍛錬を熱心にはじめるようになったのはそれからだ。あのような下種な輩の餌食になどなっていられないと思った。徒党を組んで山を下りるようになったのもその延長だ。ただ単に、戦の真似事を楽しんでいたこともあるけれど、そうして繋がりを、味方を作ることが重要だと知った。
 勿論、それですべてから解放されたわけではなかった。一対一では勝てないから集団で待ち構えられたこともあった。そうしているうち気がついた。やられる前にやればいい。だから一転、僕は僕に好奇の目を向ける輩を逆に罠にかけた。わざと隙を見せ誘い込むふりをして逆に弱みを握ったり虐げてやった。数度繰り返すうちに、ほとんど止んだ。残りは高僧くらいだった。そちらはのらりくらりとかわしながら取り入った。真剣に僕の事が好きだと言われた事もあった。それが一番辛かった。嫌気がしたけれど、そんな素振りは見せずに丁重にお断りした。二度と勘違いを起こされないように。
 そんな風に僕は比叡で過ごした。今までの人生で一番長い時を過ごしたのがかの地だ、もちろん他のこともたくさんあった。貴重な教えも授かったし、薬の事だって他のどの寺よりもきっと知ることができた。尊敬できる師だって今なおいる。今となってはその全てが懐かしい。そして、感謝している。
 僕の性格が悪くなった半分はきっとかの山のお陰だ。僕が僕の生を駆け抜けることができたのは、間違いなくかの場所で培った気概のお陰だ。
 だからこそ。
(そう、誇れるのなら)


 紅葉もばらばらと色づいてきた、初秋の澄んだ気で呼吸しながら六波羅を南下した僕は、先に、敦盛くんの母君のところへ寄った。
 丁重に礼を言うと、詳しいことは何も言っていないのによかったねと笑顔をくれた。それに更に礼を重ね、僕は邸を後にした。
 そしてそのまま、昨日の男の元へと向かった。

 邸に着いたのは巳の刻の頃、幸いにも主はいて、そして僕に驚いた。
「おはようございます」
「……貴様、また来たのか?」
「はい。昨日、仕事道具を置いていってしまいましたから、それを返していただきに」
 僕は軒先から部屋の中に立つ男を見上げた。男は昨日とは一転、侮蔑の目で僕を見下ろしていた。
「ただで返してもらえると思うのか?」
「思います。あなたはそこまで卑劣な方ではないでしょう」
「……昨日のことがあってもなお、まだ言うか」
 そしてようやく体を僕に向けて笑んだ。
「貴殿はどうやら、思っていたよりも世の理をご存じないようだ。そもそも、自分の立場を分かっているのか、薬師殿。本来ならばこの邸に足を踏み入れるのはおろか、私と口を聞くことすら許されぬ身分なのだぞ」
「はい。ですから僕は、貴方の寛大さにただただ額づくことしかできません」
「そうか。……では、寄れ。あがれ。まさかそこまで愚鈍でもあるまい、今日は腹を括ってきた、ということだろう」
「……いえ、それは、できかねます」
 日の光の下だというにも関わらず品のない笑みを浮かべていた男がぴくり、と眉を揺らした。
 男に僕は膝をつき続けた。
「昨日、貴方にも言われました。僕は……負けず嫌いなんです。それでここまで生きて来た。だから、それを失ってはいけないと思うのです」
(もしも負けるならそれはただ一人だけだ)
 僕の言葉に、男は更にいきり立った。
「斬られたいか? 罪を着せて河原に晒してやるか?」
「生憎……昨日逃げ帰った折、優しい方に庇護していただきまして。ですから、そのような事になったら、その方を悲しませてしまうかもしれない。だから、それはご勘弁願います」
「……ほう、そなた、摂関家にでも縁があるのか? つまり、あちらに従属するから俺の屈辱を受け入れるわけにはいかない、と言いたいのか? くくっ、どうりで馬鹿な訳だ。あの家にまだ力があると思っ」
「まさか。私は、京の町人以外は、平家によくしてもらっていますから」
「………………誰だ、言え」
「誰、と名を出せば迷惑をかけてしまいますから。それは、言えません」
「何、悪いようにはしない。平家一門、身内で争う事は断じてなかれと大殿のお達しだ」
「でしたら、追及などせずともよいではありませんか、貴方程のお方が、こんな些末にこだわるなど、そんな時間もございませんでしょうに」
 ぐい、と、前髪を掴まれ顔を上にあげられても、僕はもう揺るがなかった。
(きっと考えている。僕の後ろ盾の一門のものを考えている)
(この男は確かに大物だ、でも上はまだ、いる)
 とはいえあの人には、既にこの台詞だけで迷惑をかけているだろう……けれどきっと、許してくれるだろう、と、僕は思っていた。図々しい。僕は九郎の友で、源氏に与する者で、戦で見えたならば、平気でかの人や敦盛くんだって薙ぎ払っていただろうに。
 それでも構わずに。
「そういうことですから、どうか、昨日の僕の忘れものを返していただけないでしょうか」
「自分で取りに行けばどうだ? 奥の間にあるぞ」
「まさか。それこそ、僕もそこまでは愚かではないです。僕は一介の薬師、囲まれてしまえば、無力です」
 にこり、と微笑む僕を、男は苦々しく見降ろした。
「強情だな」
「勝ち気だと、僕を評してくださったじゃないですか……だからこそ、貴方は僕が貴方を利用する為に膝を折るに違いないと踏んだのでしょうけれど、ね)
(そうさせて悪趣味な愉悦にひたりたかったのだろうけれど)
 僕は続けた。
「これでも、感謝しているんです。あたなは僕に教えてくれた。世の理を、ね」
(そう、僕が何を大事にするのかを、教えてくれたんです)
(だから恨まない。殺さない。もう関わらない)
 めいいっぱいに見上げる僕を、相手もやはりまっすぐに見降ろしていた。
 けれど、前日ほどの眼光の鋭さはなかった。分かっていた、僕を思うようにするには手がかかることを。
 もしかしたら、だからこそ許されないかもしれない、とは思った。賭けだった。でもこの男がそこまでの器ではないと、僕は踏んでいて。
 そしてやはり、しばらくの間を空けた後、
「おい!」
 と、下人を呼び付て、僕の薬箱を持ってくるように指示した。
 僕は表情を変えず、唇で弧を描いたまま身じろぎもせずに待った。
 下人はすぐに戻ってきた。男はそれを受け取り、一歩、二歩と近づいた途端。
 がしゃん、と、僕の横に叩きつけた。跳ねた箱や中身が僕に当たった。
「二度と顔を見せるな!」
 更に吐き捨てた後、男は乱暴に去っていった。
 下人も走り去って、郎党や家人も遠巻きに僕を見ていたり、中には罵ったりする者もあった中、僕は散らばった薬包をしっかりと拾い集めた。
 最後に、切れた頬をぐいとぬぐって、そこを去った。


 僕が平家に取り入ることにした、その最初の切欠に、そもそも平家と縁を作った事に理由はなかった。本当に偶然、僕の話を聞きつけやってきた人が一門に連なる人だった、それだけだ。
 それを、僕は惜しんだ。平家には人も物も溢れていた。そこで根も葉もない噂のような物を集め書き集めることが楽しくて、珍しい書物を見れることもあって、少し隙をつくれば容易くそれを手に入れられるという事実も楽しくて。まだ九郎と出会う前の話だったから、平家の皆が勘違いしていた通りにここを利用して成りあがると思った事もあった、
けれど九郎に出会って以降は、彼と離れ敵対するつもりなど毛頭なかった僕からすれば、取り返しのつかなくなるほどに平家に入りこむ理由はなく、
故にこの頃の僕を突き動かしていたのはもはや知識欲と、あの平家を化かしているという少しの自尊心だけでしかなかった。
 それでも……それも、ここで一時終わりだ。
 かの男の卑劣さが相容れない、という思いはあった。それでもこれより一年ほど若い頃の僕だったら、むしろいつか逆襲してやろうと相手の誘いに乗っていたかも、しれない。
 でも過ってしまった。
 平泉の景色がぼんやりと過ってしまった。
 紅葉の赤や、田畑の黄金に覆われているのだろう美しい町。それを思えば、内臓の奥の奥が捻じれていくような感覚がした。
(認めなきゃいけないんだ、ここが、この一線を越えられないことが僕の限界なんだ)
 あの町で僕を待ってくれているだろう九郎。綺麗な九郎。鬼子と呼ばれ蔑まれた僕にはかなわなかったもの。だからこそ。
(……この先へ、本当の混沌へ落ちることはできない)
(これ以上、僕は自分に絶望したくない)
(まだ九郎と共にいたいんだ)
 それだけだった。





 その後、僕はまとめておいた荷を持って、すぐに京を出た。
 万が一、追手をつけられ九郎の事が知れたら大変だ。ので、ゆっくりと東国を進みながら戻ったけれど、追跡者はいなかったようだ。後で知ったことだけれど、かの男はこの数日後に西の知行国へ赴任することが決まっていたらしいから、それどころではなかったのだろう。
 そして。
 戻った僕に。
 高館の庭で僕を迎えてくれた九郎は。夕焼け色の頬で。
「好きだ」
 お帰り、とか、遅かったぞ、とか、そんなものをすっ飛ばして、真っ先に言った。
「何が……ですか?」
「お前の事だ」
 鍛錬していたらしい九郎は、木刀を握りしめたまま、僕に一歩二歩、と少しだけ近づいて、もう一度言った。
「戻ってきたら一番に言おうと思ってた。好きだ、弁慶」
 ぼとり、と、僕は持っていた薙刀を落とした。
「それは」
(忘れてた)
 迂闊にも、僕は平泉から逃げたした時の状況を忘れていた。そうだった。九郎は今にも、僕にそんなことを言いそうな雰囲気だったというのに。
(だけど)
 僕の様子がおかしいからだろうか、九郎は彼にしては随分と冷静に続けた。
「別に、言いたかっただけだ。だから気にするな」
「気にするなって」
(っ、でも)
(……僕だって、君が)
 何もなかったかのように、いつもの端正な顔を崩さない九郎。見ていれば、苦しかった。殊の外、殊更で腕を押さえつけた。
「弁慶?」
(それでも、でも)
(……いや、だからこそ、無理)
 僕はようやっと頭を横に振った。
「しばらく、一人にしてください」
「…………うん分かった」
 九郎は納得してくれた。その聞きわけの良さが僕はむしろ恐ろしかった。
 短気なはずの九郎なのに。
(なのに、どうしてこんな風に、照れもせずにすんなりと笑えるんだ)
「言いたかっただけだし、返事とかは、いいから、だからそんなに、青い顔をするな……でも、取り消したりはしないけど」
 そんなに酷い顔をしていたのだろうか、九郎は心配そうに僕を覗きこもうとして、
けれど、結局近づくことも手を伸ばすことも無く、走り去っていった。




なんでも書けばいいってもんじゃないっていういい例で珍しく反省してる
もうすこしちゃんと考えればもう少し何かある話に出来たかもしれないのに
そもそも弁慶19に対して九郎16とかこれ逆だろって思わず自分でつっこみを入れてしまう
(12.02.2012)


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サソ