「……振り返らない」
不意に、聞きなじんだ声音が頭に響いた。
『お前……たまには少しは片づけたらどうだ?』
なんとなく、そんな言葉に動かされて……夜半もとうに過ぎている夜中だというのに、目が冴えてしまっているわけでもないのに、片付けなどはじめてしまった。
『どうせお前のことだからまた散らかしているんだろ?』
収集が趣味な僕は、それ用の部屋を持っていた。けれどそこだけでなく、診察室の脇にまで物がうず高く積み上げられているのは……小言めいたことを九郎に言われるのも当然なのかもしれなかった。
本当なら、どうせ整頓をはじめるならば、きっちり完全にやりきりたい、そう思っていた僕だったのに、ぽつぽつと、使えなさそうな薬草を処分してみたり、出しっぱなしにしていた書物を棚に戻したり、紐がほどけかかっている巻物の紐を結んだりしているうちに、どんどんと、あああれもこれも、と、手を広げていってしまう。
と、色々な物が出てくるもので。
(うわ、この巻物、薬草で色がついてしまってる)
(こっちは比叡から借りたものだから今度返しにいかなければ)
(でも……きっともっと出てくるだろうから、もう少し片付けてからでいいのかもしれない)
(……なんてことを繰り返しているから、物が減らないのかもしれないけれど)
(ん、それより、この巻物も誰かからお借りしたものだったのに……でも誰だったか記憶にないな)
(こっちは覚えてる。これを手に入れたすぐあとくらいに、僕はこの小屋を譲り受けたんだった)
なんて、思い出が蘇ってくるけれど、感傷に浸ることはなく手を動かし続けていると。
ふと、紙の山の間から小さな布切れが出てきた。
「これは……なんだったかな」
広げてみると、水干の上衣のようだった。かなり小さい。童のものだ。
「でも、僕、こんなの着ていたかな……?」
思わず首をかしげてしまったけれど、すぐに気付いた。
(ああ、違う)
(きっとこれは九郎が着ていたものだ)
はっきり覚えているわけではないけれど、随分なめらかな生地だったからきっと間違いない。
どうしてこんなところにあるのか、それも僕は覚えていないけれど……どうせ、九郎の事だから、まだ鞍馬からここへ通っていた頃に何か零したりして汚して、僕の服を着て帰ったからそのまま忘れていたのだろう。そのまま僕も忘れていたのだろう。
衣は本当に小さくて、九郎がこれを着ていたとは、彼の幼い頃を知っているはずの僕でもすぐには思いだせぬほどの小ささで、
まじまじと見つめてしまった。とはいえ。
「……どうしよう」
今更、使い道のないものだ。子供のいる患者さんに渡すくらいしか思いつかないけれど、なんだかそれも躊躇われる。燃やしてしまうには……それこそ、今の僕には忍びないことだった。
(だったら、これで香袋でも作って、九郎の好きな香でも詰めようか)
彼に香の嗜みなどほとんどなかったけれど、それでもこのごろは少しはそういったものも理解するようになっていた。好き嫌いもあって、僕は聞いていた。
とはいえ、僕だってそうたくさんの香を持ち合わせているわけではなかったから、今度誰かに分けてもらわなければいけないけれど、
ひとまず、思い立ったが吉日だ。
どうせ眠れない、袋だけはさっそく今から作ってしまおうか、と、僕は布を手にしたまま鋏を握り、
しばらくそれを見つめて、
(九郎)
(…………九郎)
見つめてしまう。
(僕は、)
自らの願望のために、彼を置いてここに入り浸っていたのは僕の方。それ自体に後悔はない。京で僕を慕ってくれた患者さんだって心配だった、だから僕はここにいる。
けれど、こんな夜は、九郎のいつものなんでもない笑顔が無性に恋しい。
ぎゅっと布を握りしめれば、指先が布越しに手のひらに食い込む痛みがやけにくっきりと感じられて、そればかりに気が奪われてゆく。
ちりちりと。
じりじりと。
「九郎」
無意識に名を呼んだ。
それはとんでもない禁忌なような気がした。頬か焦げる。呼気がたゆたう。
そして、僕の正気が揺らいだ。
朝になった。
長年の習性というものなのだろうか、前日にどれだけ夜更かししようと、朝日が射せば目が冷めるもので、僕は体を起こし、頭を軽く振り、髪をかきあげた。
酷い徒労感が僕を包んでいた。板間でそのまま眠ってしまったせいもあるかもしれない。昨夜は随分冷えていた。足がひどく冷たい、と思った。
それでもぼんやりと朧なままにあたり見まわすと、昨日投げつけたままにしておいた九郎の服のところで目の焦点があった。
そろそろと手を伸ばし、ゆっくりと摘みあげ、口を噤み服を見つめた。溜息が落ちた。そうしていても仕方ないので、軽く畳んでまた元あったように、書物の上に乗せておいた。
もう一度溜息を落として、左手で顔を覆った。
『どうせまた散らかして』
まるで着物に口でも生えたように、声が過った。
『お前は散らかしてばかりだ』
(そうだね九郎)
(……それでも僕は)
声を振り払うかのようだ、思いつつ、頭を振って、立ち上がる。瓶の水を柄杓で掬う音が響いた。構わず一気に飲みほし、口元を拭う。息は白い。
空気を入れ替えたくて板戸を開ければ、まっすぐに射す光の眩しさに僕は目を細めてしまう。眩暈がした。
それでも。顔を背けることはなく。
「……振り返らない」
選んだのは僕だ。俯いてなどいられない。
(君の友だと、胸を張って誇れるように)
(12.01.2012)