「これでも感謝しているんです(前)」
だから、僕は更に逃げた。京へ逃げた。
そんな僕の後ろめたさや迷いを感じたのだろうか、いつもはどこまでも見送ってくれる九郎も、この時は高館の館の前までしか来なかった。
眩しそうに陽射しを遮りながら佇む九郎に、ふと過ったのは前回ここへ戻ってきた時の事。雨降りの日。紫陽花咲く庭でかわした言葉、その時の想い。
それがなかったら、もしかしたら僕はこのまま平泉へ帰れなかったかもしれない。
九郎とこれきり離れ離れになっていたかもしれない。
それほどまでに、この頃の僕は苦悩していた。
恋などしたくなかった。けれどそれ以上に、想いを寄せられたくもなかった。相手が九郎ならばなおさらだった。
当時、僕は確かに……そう、誰かにひたむきな想いを向ける九郎を見てみたい、そう思っていた。けれど、それは僕ではいけなかった。仮に僕が九郎を想ってしまったとしても、だ。それらは僕にとって独立した事柄だ。
九郎は変わらないかもしれない、あんな風にまっすぐで健気で潔白なままかもしれない、だとしても、彼の好意がまっすぐに僕に向けられて、行為として襲いかかるならば、と、思えば、
身勝手だ、そう罵られようと、そんな九郎を僕は見たくなかった。京で出会ったそういう輩と同じような目を九郎が寄越したならば僕はもう耐えられないと思っていたはずだった。
(僕を好きだという九郎を、僕は許容できない……)
僕はなんとしてもその心を封じなければならなかった。
(それにしても、一体九郎はいつから僕を)
封じてしまいたかった。
京へ着き、五条河原でひとしきり薬を配った後、僕は珍しく比叡へ向かった。
京の様相がいくらか変われど比叡はあまり変わらない。閉ざされた山門。高みから京を牛耳っていると思いこんでいる僧たち。そして、それを便利に使う僕。
(変わらないな)
そこでも軽く話を聞いて、いくつか文献を借り受けて、その後はいつものように六波羅を巡った。道には人が溢れていた。六波羅、といえば、以前はとんだ僻地だったという。それが今やすっかり平家のお陰で京でも一際人通りが多かった。連なる者、おもねる者、利用される者、様々だ。
そこでも馴染みの人を訪れて、また話を聞いてまわって。九郎の事など完全に棚上げで、僕は歩きまわって。
そうして数日を送った最後に向かったのは、この時に初めて赴いた場所だ。今までそれなりに平家一門や公卿に接してきた中でもかなりの重鎮。
もうすぐ色づく紅葉のように鮮やかな、眩暈がするほどの橙に包まれた夕暮れの街を南に抜けて、法住寺のほど近くへ。そこに今回紹介された人がいた。
屋敷の門を守っていた郎党に挨拶をし、中へ入ると壮年の主が僕を迎えてくれた。
「よく来た。噂は聞いている」
「こちらこそ、はじめまして、武蔵坊弁慶と申します」
屋敷も見事なものだったけれど、通された部屋もまた、豪奢なものだった。……診察するとはいえ、まだ明るいうちからゆるりと降ろされた御簾も武家の家らしくなく、嗅ぎなれない香まで焚いてあって……宋のものなのだろうか、不思議な気分になる香だった。
「なんでも、足が悪いとお聞きしましたが」
「ああ。どうにも最近古傷が痛んでな。左膝だ」
「では、診てみましょう」
失礼して投げ出された足の袴をたくし上げれば、なるほど随分と深い矢傷があった。
「これは……ひどいですね。ですが、今では歩くのに支障はないとお聞きしましたが」
「そうだな」
「それはよほど腕のいい薬師殿が手当てをしたのでしょうね。その人にもお目通りしてみたいものです」
お世辞ではなく本当に見事な処置だった。これは、気に入られるのは厄介かな、と思いつつ、とりあえず布で足を吹き、薬を塗っていった。するとゆるりと主が僕に問いかけた。
「弁慶殿、だったか。薬師にしては随分としっかりした体つきをしているな。何、私も武士の端くれだから分かるぞ、貴殿、それなりに腕がたつのではないのか?」
「そんな。めっそうもない」
「……いや、そなたは薬師にしておくには随分、勝ち気な目をしておる。野心家だろう?」
「ははは。御冗談がすぎますよ」
僕は軽く笑って返すけれど……見抜かれても問題はなかったので、否定はしなかった。
「それより、他に、何か欲しい薬とかはございますか?」
「そうだな、不老不死の薬、とかかな」
「それはよろしいですね。貴方が長く生きられましたら、皆、喜びましょう」
「いや、そんなものがあるなら大殿に献上するさ」
「清盛殿、ですか」
「ああ。あの方こそ、長生きしてもらわねば困る」
「確かに」
僕は清盛と会話をしたことはなかった、けれど、遠目に見たことはあったし、なにより噂も事欠かない。
「今や、この国は清盛殿のお陰で保たれているといっても過言ではないですからね。あの方は潤いを我々に与えてくださいます」
「そうだ。だから不老不死の薬を見つけたらすぐさま持ってこい。報酬は何でもやろう。望みのままだぞ。官位だってくれてやる」
「それは、ただの薬師には過ぎたご褒美ですね」
「ははは、官位など、今の一門には安いものよ」
くくく、と笑う姿は醜悪だった、けれどそれは事実で、僕は顔色も変えずに薬を塗りながら、足に包帯をくるくると巻いた。
……とはいえ、町の現状を見ていれば。
確かに、僕が本当に幼かった頃、比叡に来た頃に比べれば、京の町は格段に潤ったと、比叡の人たちはよく口にしていたし、そうなのだろうと思っていた。
けれど……それは僕が、平泉と言う御館に愛された町を見てしまったからかもしれない、熊野にも訪れるようになったからかもしれない、なんにせよ、僕には京の町は荒廃していると……飢えた人たちが道に溢れている、と、感じるようになっていた。
「時に弁慶殿は、今はどちらの寺にいらっしゃるのかな」
主は話を続けてきた。
「いえ、今はどこにも。あちこち見聞を広げて回っております」
「そうか。寺に籠っているのは窮屈だったか?」
「そういうつもりはなかったんですけれどね。ただ、世の中を見てみたくなったのです」
「はは、それだけかな? その髪では、さぞ厄介だったろうに」
じろり、と、黒衣の隅から零れていた僕の髪をひとつまみしながら、心底同情すると言った風に口にした。
「ええ。目立っていたみたいですね。そのお陰で、随分たくましく育つことができました」
「ほら、やはり弁慶殿は負けん気が強い。……なかなかどうして、勿体ないな」
「勿体ない、ですか?」
「さっき自分で言っておられただろう、薬師ごとき、とな」
「そうですが」
(もしかしてこれは、取り入れる?)
真意は分からず様子を伺う僕の事など見透かされていたのだろう、男は不敵に笑いながらはらりと肩の衣を落とした。
「足はもう終いか? では次は肩を診てくれないか。こっちは太刀傷だ。昔源氏の武者にやられてな」
「源氏、ですか」
その言葉に、僕は目を瞬かせて。
「……久しぶりにその名を聞きました。昔は随分と力を持っていたそうですね。今はどこでどうなっているやら」
「さあ、な。興味もないが、大殿が見逃した嫡男はすっかり腑抜けて東国で隠居生活をしているとか。もう一人、源氏を名乗る童が一時、随分と我らに立てついてきたと聞いたが……はて、最近はとんと噂を聞かぬ。のたれ死んだかもな」
更に目を瞬かせて。
(この噂は、九郎にとっていいものなのか、どうなんだろう。本人が聞いたら怒るに違いないけれど……)
僕は姿勢を直し、男の横側から肩に触れた。
「……平家一門に逆らった者の末路、というものですね。嘆かわしい」
武士らしいがっしりとした腕。けれど。
「そういうことだ。だから、」
古傷などどこにもない、と、気付いた時には遅かった。掴まれたままだった髪をぐいと乱暴に引っ張られたと思ったら。
「そなたも大人しく言う事を聞いておけ。そうしたら我が郎党として、それはそれは大事に扱ってやろうぞ」
にい、と、男が間近で笑んだ。
「何を、……!?」
僕はとっさに離れようとした、けれど。
(しまった)
反応が鈍かった。力は入った、けれど重かった。いつの間にか動悸がして、息があがってしまって自由が効かず。これは。
「……薬師であろうものが、迂闊だったな」
(あの香か!)
指先で口元を覆っただけで体がびくりと震えた。多分、媚薬かなにかの類だった。
「……まさか、平家の重鎮ともあろう方が、このような手を使うなど、思ってもみませんでしたからね」
「重鎮だからこそ、だよ、弁慶殿。ここまでのし上がるのに、私がどれだけの手段を用いたと思う? 着実な方法なら、躊躇いなどしないさ。ふふ、随分と見目のいい薬師が六波羅を出入りしてると前から評判だったからな。どれ、傍においてやろうかと、今日ここに私自ら呼んだのだよ」
「……それはそれは、随分と酔狂なことで」
「そなたにとっては千載一遇だろう? 私の元で仕えられるんだ。有能ならば参謀にしてやってもいい」
男は更に笑みを深くした。でも、それは今まで僕に好奇をしめした輩のように下種なものではなかった。当然だと思っているのだ、彼は、僕や、もっと、他の人間を手中に収めるなど、造作もない事だと思っているんだ。
「……だから、僕を好きにさせろと」
「安いものだろう?」
『(どうせ、今までもそうだったくせに』と、近づいた目が言っていた。
「向上心は恥じることではないぞ、さあ素直になればいい」
「っ!」
頬に伸ばされた手に、それにすら反応した自分の体に、かっとした。すかさず男の足の傷を蹴り飛ばすと、男は呻いた。と同時に僕は床にたたきつけられた。まだ髪を掴まれたままだった。そして間髪入れずに再び力任せに引き上げられそうになって。
(だったら!)
とっさに懐から小刀を出して、切った。
「何!?」
はらり、と、見慣れた色が散らばるのが見えたけれど構いはしなかった。それに相手が怯んだ隙に、必死に息を吸い込みながら床を転がるように逃げた。逃げて、御簾の外へ、
「待て!」
庭の上へ。
文字通り転がり落ちた僕に、高みから男が見下し恫喝まがいの声音で放った。
「……今ならまだ許してやってもいい。この期を逃すのか? 一生後悔するぞ」
許すと言っている人間の言動じゃなかった。あくまでも高圧的なままに近づいてきて、今にも外套を掴みあげられれそうだった。
(たまるか……!)
言葉のかわりに、目の前のあった燭台を薙ぎ倒して、僕は逃げた。必死で立ち上がって、もつれる足で走った。
男はどうやら、庭に下りてはこなかったようだ。郎党を呼ばれるかとも思ったけれど、灯を倒していったことが幸いしたのだろう、門を出て、しばらく六波羅を北へ辿っても追手はこなかったので、僕はようやく安堵して、往来だというのに壁にもたれて座りこんでしまった。
まだ息は上がっていた。喉が渇いて、心拍が煩い。くらくらと目の前がくらんだ。
(血が足りていない)
体が熱くて、疼いて、闇に溶けてしまおうと、僕は必死に外套で体を包んだ。月のない夜でよかった。
(……なんで、こんなことに)
完全に迂闊だった、としか言いようがなかった。夕方に来いと言われて疑うべきだった。油断していた。
(それより、どうしよう)
五条川原の小屋まではまだ距離があって、すぐに帰れそうにはなかった。
薬箱もそのまま置いてきてしまった……貴重なものもあったのに。
けれどどちらも考えるのが億劫で、僕はそのままとにかくやりすごそうとしていた。
どれくらいした時だろうか、赤い火が近づいてきた、と思ったら、頭上から声をかけられた。
「弁慶殿?」
柔らかい声音に顔をあげた。そこにいたのは敦盛くんの家で何度か会ったかの家の郎党だった。
彼に拾われ、僕は敦盛くんの母君のところでしばし休ませてもらうことになった。
いつも通される部屋の片隅で、礼儀など構わずうずくまっていたら、かの人がやってきて、呆れた顔で僕を見下した。
「……随分な姿ね、薬師殿。昨日お会いした時は、いつも通りだったようだけれど」
「…………こんな夜分に、すみません、…かりました」
「何? もしかして迫られて逃げてらしたの?」
それが冗談だったのかは分からない、けれどどちらにしても僕は沈黙するしかできなくて。
「ふふっ、普段あんなに浮ついた事ばかり言っているくせに。まだまだ子供ですね」
と、それこそ本当に子供にするかのように、下女から濡れた手拭いを受け取ると僕の額に乗せてくれた。
「……いえ、もう少し、たら帰りますから、そこまで…は」
好意は嬉しかった、けれど、これ以上の貸しは不要だった。
なのに僕がやんわりと拒絶しても、かの人は僕の言葉など聞いてなどいないような口ぶりで続けた。
「うちは夫も息子たちも出世に意欲がなくてね。そこが好きなのだけれど、でも、だからあなたの分かりやすい向上心が可愛らしくてね、そうまでして成りあがりたいならと思って私も協力していたのに」
それは……それこそいつしか、……まるで僕の兄が僕に語るような口調になって。
「でも、それしきの覚悟しかなくて我が一門に取り入ろうなど、笑止千万」
ぴしゃりと言ってのけた。
(それしきの、って)
揺らぐ視界で、それでも訴えかけるように見上げれば、なおも上から彼女は言った。
「もうおやめなさい」
今にして思えば、それは忠告だった。けれど、僕には皮肉や嘲りにしか聞こえなかった。
「それは、っ、」
(僕だって!)
(あんな不意打ちを食らいさえしなければ、だったら)
容易く喋れたならば言い返していただろう、けれど、薬のせいで上ずった声しか出せなくて、
「僕、は」
その間にも憐みの手は勝手に束ねられた僕の髪を撫でた。
「いたわしい。綺麗な色だったのに」
でも、これで懲りたでしょう?
そして目はそう告げていた。
「……」
言い返せない僕を見下ろす視線は冷たかった。
(ああ、この人もやはり、平家だったんだ)
こんな状況で、否、だからこそ僕は悟りのような感情を想起させられた。
そのままあっさりと彼女は離れていって、
残された僕は、荒い呼吸を隠しもしないで逆上せる頭で一人考えた。
(『それしきの覚悟も無くて』)
(それは……、その通りだ)
知識を集めるのは好きだった。
と、同時に、どこまで平家に近づけるか、上れるか、確信に迫れるのか、試してみたいと思っていたところもあった。
その限界が見えていた。
否、限界はもっと遠く。それこそ、不意を打たれたことなど構わずあの男に膝を折っていたならばもう少し先まで行けただろう。たったそれだけで、今までよりも容易く。
僕はゆっくりと起き上った。なおも視界も揺れていた。それでも、五条の河原へ帰りたくて、力の入らない足で無理に立ち上がり、控えていてくれた下女に礼を言って、邸を出た。
歩きながら僕の脳裏を巡っていたのは同じ言葉だった。
(僕は何をしてきたっていうんだろう)
(それこそ、今までだって似た事をしてきているじゃないか)
(なのに今更)
(なにを今更)
瞬く星が視界にめいいっぱい溢れているように見えた。
夜とは思えぬ眩さに見えた。
(僕だって……僕だって、九郎に似たような事をしたいと思ってるくせに、)
(だから躊躇うことなんて何もないじゃないか)
熱に浮かされた身には、それはいよいよ他愛のないことのように思えた。
(僕だって……、)
自信はあった。確信ともいえた。
(……………………九郎、僕は)
(僕は、どうしてここにいる?)
分岐点だ。うなされながらも感じた。
4話くらい後で補足してあるんだけど、
弁慶はあっつんのお父さんとは仲良しじゃない設定なので、
ここで出てきたモブ様はあっつんのお父様よりも偉い人とかそういうわけではないつもり
(11.10.2012)