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「夏の暑さが僕を溶かした」


 この年の夏は暑くて、京とは比べ物にならぬほどに過ごしやすいはずの平泉の地もそれなりに暑くて、僕はもとより、九郎も随分と負けていたようだった。
 そんな僕らはよく遠乗りに出かけた。かなり頻繁に出かけた。風を切って駆ければ涼しくて、山の木陰でのんびり過ごして英気を養った。川で泳げばもっと涼しかった。九郎はよく魚をとって、僕は薬草を探ったりもして、たまに九郎が手伝ってくれて、その隙に僕は木陰で本を読んだりした。
 それでも回避できない暑さはじりじりと僕らの体力を奪っていくので、次第に遠乗りさえ億劫で、九郎も朝晩以外は鍛錬しなくなって、何もしないで高館でごろごろというか、ぐったりとする日々も増えていった。
 水を桶にくんで足をさらしてみたり、貰った瓜を食べてみたり。僕はころころと書を広げて読んでばかり。九郎も昼間は金を腹の上に乗せて寝そべって、暑さをやり過ごしていた。
 そんなある日。
「こんなんじゃ駄目だ!」
 と、唐突に一念発起した九郎に引っ張られる形で、僕たちはかなり遠くまで遠乗りに出かけることにした。平泉の東方に見事な渓谷がある、と泰衡殿がいつだか言っていたのを思い出したのだ。
「そこなら涼しいかもしれないぞ」
 その言葉に僕も乗った。なんなら数日そこで過ごしてもいいかもしれないと思っていた。
 簡単に準備をした後、高館を飛び出して突き抜ける青の下の平原を九郎と駆けた。風切れどあまり涼しくなくとも、気分は開放的になった。
 川辺に出、渓谷の中へ歩みを進め、山を削り取ったかのような流れを馬で渡っていれば尚更に、それまでが嘘のような涼しさが待っていた。清浄な空気、せせらぎの音。陽射しこそあまり遮断されなかったけれど、十分だった。
 九郎はなお先に行きたそうだったけれど、僕も馬も疲れてきたので、岩棚にあがりとりあえず一休みすることにした。
 急に雨が降っても沈まないような高さまで馬と一緒に上がっていくと、流れが見渡せた。とはいえ、川はくねくねと折れていたので、そう遠くまで振り返ることはできなかったけれど。
「結構走ったんだな」
「そうみたいですね。時間も経っていそうです」
 馬を適当に繋ぎ、僕らはごろりと岩棚に転がった。
 丁度、東西へと流れがあるところだったから、陽射しも無く、足元の岩もひんやりしていて涼しくて。
 ついでに草履と足袋も僕は脱いでしまうと、九郎も僕に倣った。
「岩が気持ちいいな」
「切らないように気をつけてくださいね。僕、今日は薬をあまり持ち歩いていませんから」
「そうなのか? 随分大きな荷を持ってるのに?」
「これは……これです」
 笑いながら荷袋を開け取り出すと、九郎が納得したような、呆れたような、そんな顔を見せた。
「こんなところにまで持ってきたのか?」
「最近暑くて読めなかったんですよ」
「まあ、いいけど」
 許可も出たところで、僕は早速書物を読みだした。
 九郎は袴を括り岩棚を降りて川で魚を取ってきた。でもそれに火を通す物がなかったので、今度は器用に岩山を登って、木の枝を数本切り落としてきて短刀で皮を削いだ。
 けれど、生木は薪にするにはまだ水分が多かったようでなかなか着火しなくて。
「しばらく日なたに置いておけばいいかな」
「そうですね。この陽射しなら、改善するかも」
「じゃあそれまで待つか」
 と、取ってきた魚もそのままに、九郎も僕の横にごろりと寝転んだ。
「珍しいですね、さすがの君も疲れましたか?」
「そういうわけじゃないけど、やることないし」
「だったら僕の書物を貸してあげましょう。何冊も持ってきましたから」
「そうか? じゃあ読んでみるかな」
 よほど暇だったのだろう。九郎は珍しく素直に僕の荷から頭を覗かせていた書物に手を伸ばした。
「うーん、これなら……面白そうかも」
 寝転がったまま体を伸ばして引っ張ってきたのは宋から渡ってきた兵法書。九郎らしい選択。
 そしてぱらぱらとめくりはじめたあたりで、僕も僕の書物へ再び没頭していった。

 いつしか九郎が頁をめくる手が止まっていた。
 見れば、やはり読書は肌に合わないのか、あるいは単純に疲れていたのか、うとうとと夢と現の境を行き来しはじめていた。
 安らかで気持ちよさそうで、見つめていれば、せせらぎの合間に届く寝息を耳にすれば、僕もなんだか眠くなってゆくようで…………のんびり過ごすのは柄じゃなくて、何もしない時間なんて勿体ないと思いがちな僕だけれど、無防備な姿を見つめながら夢の淵に落ちてゆくのは、
(至福というべきところなのだろうけれど、)

 僕がどれだけ見つめても、九郎は瞼を閉じたまま規則正しく呼吸をしていた。蝉がけたたましく鳴いても、馬が鼻を鳴らしても目を覚ます気配はなかった。
(刺客でも来たら起きるのかな)
(もしくは、先に僕が気付いてどうにかするって思ってるのかな)
 たゆたう景色。視線だけ横に投げて僕はただ九郎を見ていた。目に刺さる前髪を払う事もせず、落ちる汗すら鬱陶しいほどにただ彼を見ていた。
(九郎はどこへ行くのだろう)
 その背はいつの間にか完全に…とはいえ大きな差ではなかったけれど、僕を抜いてしまった。あどけなさはまだ残っている、けれどすっかりと大人びた九郎。源氏の御曹司。
(そして、僕もどこへ行くのだろう)
 夏の暑さが僕を溶かした。確信してしまった想いが僕を焦らした。
 僕は見ていた。それでもこんなに間近にいる九郎の肌に指先で触れることも、触れようとすることすらしなかった。
 できなかった。
 恋などするものではない。ましてや友人になどなおさらだ。

 あの日以来、僕は変わってしまった。いや……本当は少しずつ変化はあったのだろう、けれど過程を知らなければそれは無いに等しく、少なくとも僕は唐突なものとしか捉える事ができていなかった。まるで別世界だった。
 見ているだけで満たされる、なんて穏やかな気持ちは、この感情に気付いた時から無いに等しかった。
彼を目にすれば心の奥底で何かが渇いた。触れたい、なんてありがちな願望すらも通り過ぎていて閉じ込めてしまいたいとさえ思った。あの九郎を。まっすぐでひたむきで、外がよく似合い、風に髪揺らし笑む九郎を、誰にも開けない、開かせない扉の奥で、僕だけが九郎を知って、僕だけが九郎を愛でる。僕だけが九郎を映す。そんな九郎を僕は丹念に慈しむ。朝も夜もない場所で、その唇に、その身体に余すことなく口づけて、最奥をも貫いて、喘がせ、求めさせて僕だけの九郎にしてしまう。生じ巡った歪んだ願望。
 既に矛盾だった。そんなことをしたら、僕の恋した九郎の全てを殺してしまう。袖をはためかせ夜を駆ける子供。一人で輝きたいと願う月。それが僕にとっての九郎で。
(これでは、このままでは、)
 けれどそれは、まさに僕らしい、むしろ当時の僕ならばごく自然と言える発想でもあって、
ゆえに、絶望。
 そんなものに、九郎を巻き込みたくなんて断じてなかったのだ。
(…………こんな僕を、容認できるか)
 無意識に重々しく溜息を吐くと、それまで大人しく船を漕いでいたのが嘘のように、九郎が浅く覚醒した。
「あつい……」
 そして寝がえりを打った。その折、腕が僕の腹を軽に乗った。途端、九郎はいきなり身を起こし、
「!!」
過剰な振る舞いで腕を引っ込めた。
「九郎?」
 寝起きの体温の高そうな顔で、彼は寝転んだままの僕を見下ろしていた。僕も見上げた。けだるい空気も夏に溶ける九郎の目も火照った顔も全てが目に毒だった。
「ああ、すまない……、いや、」
「別に、大丈夫ですよ」
 歯切れの悪い言葉に、密かに面食らった。
「……ところで、俺はどれくらい眠っていたんだ?」
「さあ、それなりに、でしょうか。僕も書物に夢中でしたし。疲れていたんですか?」
「いや……最近眠れなかったから、それだと思う」
「そうですか、なら、少しでも英気を養えたかな。良かったですね」
 前髪を払いつつ、ぼんやりと息を吐く九郎を見、僕は。
(僕はどうすればいいんだろう)
 思いは呟かれる事はなく、体の底へ沈み、心に沈み、どろりと、どこかで抱いた気持ちが過った。それは、
けれど、形になる前に九郎の手が僕へと伸びてきた。
 おずおずとした指先は、仰向けに寝転がったままの僕の眼前をかすめ、髪に微かに触れた。そのままぎこちなく一度、二度と撫でた。
 目はうつろながらも僕を見ていて、
 音が消えた。弁慶、と、彼の唇が紡いだ気がした。くしゃりと僕の髪をつかんだ手のひらの思いのほか大きな感触に僕は揺れた。身動きもできないのに鼓動だけが早まった。
(それは、)
 息が止まった。その間にも九郎の指がゆっくりと辿った。耳へ、頬へ、そして。
(……それは、駄目だ)
 僕は覚めた。
「九郎、」
 そして彼の腕を振り落とすように身をよじり、起き上った。
(…………駄目だ)
「少し、冷えてきました。戻りましょう。……魚が食べられなかったのは残念ですが」
 せせらぎの音が、風の音が随分大きく鳴っていた気がした。
 そのままゆっくり立ち上がった僕を、下から九郎が呼んだ。
「……待て、その前に弁慶、話がある。俺は、」
 迷いつつも誠実な、九郎らしい声音が僕は好きだった。けれど彼を見ることなく、
「いえ、遠くから雷の音もしてます。ここに長居すべきではないでしょう」
「そう、か? 俺には聞こえないが」
「聞こえますよ。……聞こえます。それに君は寝ていたじゃないですか」
「それはっ! ……そうかもしれないな。うん、そうなんだろう……」
 彼の言葉すらろくに聞かずに、僕はとっとと手綱を手にとってしまった。すると九郎も起き上り、僕に倣った。
「……帰るか」
「ええ」
 九郎は懸命に笑顔を浮かべていた。僕も返した。
(こんな風にしていると、会った頃と変わらないのに)
 陽射しの下に躍り出れば、それは相変わらずに強くて、まっすぐに僕を焼いた。
 邪な感情などこの光で焼き切られてしまえばいい。そんな想いで僕は見上げ、馬に跨り、走らせた。
 一気に川へ降り、振り返らずに流れを辿った。田畑が見えはじめたあたりでようやく平静を取り戻すことができた。
(危なかった)
 手綱をぎゅっと握りしめながら思った。
 多分……あのまま九郎に見つめられていたら、僕は九郎を引き倒し唇を奪ってしまっていただろう。そうしたら後は……どうしていたか分からない。
 何を言っていたかすら分からない。
 だから僕は逃げた。何もかもを置き去りにして、踵を返してしまった。それでもきっと、あの場に留まっていたよりは良かっただろうと今でも僕は思っている。
 じきに、九郎が僕に追いついて、そのまま追い抜き前を駆けていった。言葉をかわすことなく、水を跳ねさせ遠ざかっていった。
 淡い色の狩衣をひらひらとさせながら遠ざかっていく彼を見、僕はふと思った。
(そういえばさっき、九郎が何か言いたいとかいっていたけれど……あれは何だったんだろう)
(『俺は、』……そうだな、『好きだ』、とか? ……まさか、九郎に限って)
 などと、ほんの軽い冗談のつもりで僕は思い、笑い飛ばした、
でも、
(……いや、)
 仮定にすら満たないことだと思っていた。なのにふいにざっと、九郎との思い出がめまぐるしく透過していった。
(…………違う)
 さっきの、暑さにうなだれながらもまっすぐに僕を射抜くように見ていた目。
 金を探しに行ったときだって、あんなに嬉しそうな笑顔を僕に向けて。
 船で熊野から帰ってきた雨の日の事だって、そう思えば腑に落ちる部分もあった。
 それらの時分、僕は一切気付いていなかった。なのに、
こうして振り返れば、ひとつの意図で結ばれたかのように、
川の流れが山から海へ必然に流れるように、
そして僕は奈落に突き落とされて、
(そう、なのか?)
体中の血が沸騰するかのような感覚を覚えた。
(……本当に、そうなのか?)
 彼方から、本当に雷の音が聞こえたような気がした。
 夏の風はもはや僕を冷やさなかった。




最初は高館のおうちで引きこもってだれてたんだけど
遠乗りって単語でも見かけたのでしょう、平泉観光のようなものをしてみたくなって
かなり後から書きなおしてみたんだけど、 遠乗りしたり出かけた意味がなんにもない話なのはそのせいです。渓流の無駄遣い。
(11.14.2012)


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サソ