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「僕は追いかけた」

 塩釜の港を過ぎ、北上川を上りはじめ、半日ほど過ぎたあたりでぽつりぽつりと雨が降ってきた。
 それでも雨量は増えることなく肌を濡らす程度だったから、船頭も船を止めることなく、結局、そのまま無事に御館の柳之御所まで辿りつくことができた。
 けれど、御館へ兄から授かった親書を渡し、労いの言葉を頂戴していたほんの少しの間に本格的に降り出して、僕が草履を履いた時には土砂降りになってしまっていた。
 少し休んでいけばいい、傘を使ってもいい、と御館は言ってくれたけれど、僕はなんだかすっかりと疲れてしまっていたので、どちらも辞して、走って帰ることにした。
 道はぬかるんでいて、何度か足を滑らせそうになった。雨が強く道を打つから、ずぶぬれだというのに泥にもまみれつつ、高館へと辿りついた。
「ただいま戻りました」
 言いながら、僕は纏っていた外套を縁に置き、床を汚すことをも躊躇わずに屋敷にあがった。
 主の返事はなかった。また金のところに行ってるのかもしれない。だったら一緒に雨宿りしてくればよかった、と思いつつ、僕は自室の戸を開けた。
 部屋は相変わらず散らかっていて、僕は出かける前の自分を恨んだ、けれど今更仕方ない。荷の中から夜着を……荷もすっかりと濡れてしまっていたけれど、とりあえず取り出して、着替えた。そして、汚れた衣服は散らかしたままに、手頃な布を部屋の外側から引っ張りだして、その上に荷を広げた。せっかく手に入れた珍しい薬の材料が台無しで、書物も墨が滲んでいて、僕は大きくため息をついた。脱力感からそのまま転がった。視界の端の色とりどりの紫陽花がなんとなく眩しくて目を閉じて、そのままうとうとと、しそうになった頃に、ごとりと隣の部屋から音がした。
「九郎?」
 ゆっくりと身を起せば、視線の先に九郎が立っていた。けれどその姿は灰色の空に透けてしまいそうなまでにぼんやりとしていた。
 いつもならお帰り、と笑顔で声をかけてくれるのに、立ち尽くしたまま動かなかった。
 まるで、雨に誘われ現れた幽霊のように。
 もしくは影のように。
「……九郎?」
 僕は再び呼んだ。九郎は喜怒哀楽が大きくて、よく落ち込んだりしたものだけれど……こういう姿は、記憶にない。
「何かあったんですか?」
 届かないだろうか、思ったけれど、九郎は反応した。首を振った。
「じゃあ、もしかして寂しいとでも思ってくれたんですか?」
 そのまま冗談混じりで僕は聞いた。
「そういうわけじゃない」
 彼が否定することを本当は分かっていた。寂しい、という感情は九郎の顔には映っていなかった。ではどういった感情なのかと言われても、僕には分からなかったけれど、強いて言うなら、
(泣きそうだ)
「では、どうしたんですか?」
「それは……」
 九郎は言い淀んだ。淀んで、そのまま突然雨の中に裸足のままに駆けだした。
「九郎!」
 僕は追いかけた。いつもの僕だったら追わなかったかもしれない。けれど、いつにない様子が気になった。僕も既に濡れていて、今更少しくらい濡れても構わなかったからかもしれない。草鞋をひっかけ追いかけた。
 本来、九郎の足に僕が敵うはずなかった。雨も降ってるから滑りもした。でも、どうしてか追いついた。もしかしたら九郎は僕に追いついて欲しくて手を抜いていたのかもしれないし、僕がそれだけ早く駆けたのかもしれない、けど、追いついて、
「九郎!」
手を掴んだら、ついに僕は足を滑らせて、九郎の背に突っ込んだ。九郎もそのまま足をもつれさせて結局二人で泥の中に倒れた。
「……」
「……ひどい」
 九郎の顔も服も一瞬で泥まみれになった。何より長い髪が無残な事になっていた。そして、更に泣きそうだった。
 雨が僕の視界を覆い、紫陽花を背にした彼の姿が滲み、揺らいだ。
 僕はそんな九郎の頬に、泥をすくって塗り付けた。
「っ!」
 怯んだ九郎に構わずに更に塗った。
「なにするんだ!」
「こんな君の顔なかなか見れないですからね」
 九郎の肌がどんどんと土で埋まった。僕の手が鼻にまでかかった頃に、ついに九郎が僕の手を払った。
「いい加減にしろ!」
 それは結構、痛かったけど、
「やっと怒った」
僕は改めて微笑んだ。
「君は怒ってるくらいじゃないと、調子がでないです」
「弁慶」
 ざあざあと降る雨が九郎の顔の泥を落としはじめて、代わりに衣が一様に土色に染まっていった。そのせいで橙の髪や白い頬が浮き彫りになって。灰や赤や紫や緑の色彩の中でそれは一層顕著に見えて。
「九郎」
 僕は改めて九郎の目を覗きこんだ。雨に濡れた目がどんよりと僕を見返していた。僕は更に微笑んでいた。
「教えてくれませんか? どうしてこんな雨の中、君は走り出したんですか」
「それは、その」
「話してくれますよね、九郎」
「…………お前はほんとに卑怯だ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 九郎は小さく目をそらした。僕は彼の髪を撫でようとしたけれど、汚しそうで躊躇った。そのうち結局先に九郎が目をそらしたまま口を開いた。
「俺にもよく分からん」
「というと?」
 九郎は更に横を、雲の向こうの岩手山でも見ているかのように続けた。
「雨は好きじゃないんだ」
 それは初耳だった。雨が降っても、九郎はいつもそれなりに楽しそうに過ごしていたと、僕は記憶していた。
 けれどそれはある意味、当然で、
「一人で雨の音を聞いていると、嫌な気持ちになる」
僕は、僕がいない時の彼を知らなかったから。
「…………たぶん、お前が戻ってこなかったら俺はどうしたんだろうな、とでも考えていたんだと思う」
 そして僕は、九郎がしょんぼりと呟いた言葉にどきりとした。
 帰らない。その選択はここまでも、そしてこの後も何度も僕にあったものだった。
「どうする、って」
「そのままだ。お前がいなくなったら…………」
「戻らなかったら、」
 それでもこの時の僕はまるで無邪気に反射的に、九郎の手を取り口にしていた。
「そんな時には君なら迎えに来てくれると思っていたのに」
 実際に九郎が僕を探して京になど来たら、ろくでもないことになるのはこの時点でも間違いなかったのにそんな事を言っていた僕は多分、いつかの冬の山の事を思い出していた。
 遭難しかけた時に探しに来てくれた九郎。今では九郎を危険な目に合わせたと反省すべき思い出だ、けれどあの時の手の温かさは忘れ難く。
 そして、それを与えてくれた張本人は心底意外だと言いたげに返した。
「いいのか?」
「どうして? 前にもそんな事があったじゃないですか」
「だけど……でも、本当にいいんだな?」
 念まで押した。それに僕は少し、慎重になった。もちろんですよ、と簡単に言うのは容易い。けれどこの時の僕は、彼に対して誠実でありたいと思っていて、
「悪い理由なんてどこにありますか。親友だと言ったのは僕だったでしょう?」
「弁慶」
(君は清浄だ、だからこそ)
 自分の欲を満たすために歩きまわっている僕をこんなにも慕ってくれて、
僕みたいなのに捕まって。
(馬鹿な九郎)
 瞳を覗きこんだ。きっと微笑むことはできていなかった。九郎がまた滲みそうな瞳をしたから。
「お前はまた、俺の気も知らないで……」
「九郎」
 けれど、彼が俯いたのは刹那。
「でも、でも、それはそうだよな。……俺だってお前の気持ちなんて知らないし、」
 と、言いながらはにかむように上げた顔はあまりにも、
あまりにも九郎らしくない……らしくない表情で。
 ぺちっ、と。
「!?」
 僕はまた泥を投げつけていた。
 それに九郎は声を荒げた。
「お前、いきなり!」
「ふふっ、油断していた君が悪いんですよ!」
「…………やり返してやる!」
 怒りに震える九郎に……すっかり僕の知る顔をした彼に、僕に泥を投げつけたところで、僕らの会話は途切れた。
 雨はまだ降っていた、けれど気にせず僕らは笑いながらしばらく泥を投げ合って塗りたくり合った。九郎の橙の髪も、頬も、僕の着替えたばかりだった夜着もどろどろにして、それでもはしゃぎ続けた。
 仮初めだとしても全てを流そうとするかのように。


 たとえ止まぬ雨に遭ってもせめて君は笑っていられるように。




(11.05.2012)


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サソ