「一切信じていなかった」
この頃の僕は気付く予兆さえなかった、
けれど、九郎が誰かに恋をすればいい、と思った理由のひとつはきっと、
恋というものを僕は一切信じていなかったからだ。
「ったく、いちいち捻くれたことばっかり言いやがって。お前は誰に似たのかね」
「誰、ですか? そんなの決まっているでしょう?」
「おいおいまさかオレ、とか言いたいんじゃねえだろうな」
「僕は何も言っていませんよ、兄上」
(でも、幼い僕がこのひと以外の誰と言葉をかわしていたっていうんだ)
にっこりと笑みながら酒をつげば、兄はやはり昔よく見たような、子供心にもしたたかに見えた笑みを浮かべてぐいと飲んだ。
「ったく、この調子でろくでもないことしてるんだろどうせ。困った奴だね」
「ろくでもないこと、とは?」
「さあな、てめえの胸に聞いてみな。ったく、源氏の御曹司にくっついてったって言ったから、少しはまともになったって安心したもんなのにな。平泉追い出されても知らねえぞ」
「まさか。そんなへまはもうしませんよ」
「ガキの頃に家出した時とはもう違うってか? そんときと似たような顔してるけどな、お前」
「さあ、そんなことありましたか?」
延々と続く兄のありがたくない小言及び昔話を、僕は澄まし顔で聞き流した、けれど、家出の事は忘れていた訳はなかった。一度や二度ではなかったからだ。それでも、僕はその当時に僕がどんな顔をしていたかなんて知らないし、感情までは覚えていなかったから、実際忘れてるのと変わらないと思っていたけれど。
「だから、そういうところが可愛くねえっていってるんだろうが」
「19の弟に可愛いも可愛くないもないでしょう、兄上」
「へえ、オレのことを兄だと呼んでくれるか弟よ」
「ええ。お呼びしますよ。これから色々と、楽しい話を僕にしてくださる大切な兄上ですから」
「誰がお前なんかに教えるか」
まるで彼の息子のように笑いながら、兄はつまみとして並んでいた魚の切り身をひょいと口にした。
平泉にも夏の気配が近づいてきた頃。
僕は御館から、兄に書状を運ぶ役目をいただいて、熊野へ行った。
もちろん、僕が行かなければいけないものではなかった。それでも僕が任じられたのは、ひとえに御館が僕を故郷に戻してやろうと言う彼らしい……僕にとってはただの傍迷惑でしかなかったけれど、それだけの理由。特段に断る理由も、断りたいだけの事柄もなかったので、日頃のお返しも兼ね、御館の御心遣いを僕は受け取った。
しかも当時、東国も京もすっぽりと雨の季節だったから、本来ならば道中、馬での行き来に苦労しただろう。けれど、この時は御館が船を出してくれたので、すこぶる楽だった。
船は好きか嫌いかと言われれば、どちらでもない。ヒノエあたりに言えば、熊野の男が船を好きじゃないなんてありえないそうやって否定してるけどほんとはあんたも船が恋しくて仕方ないはずだぜ、とでも言われそうだ。僕もそうなのかも、と思ったことがある。けれど、僕にとっては当時から感慨を抱くべき対称ではなかった。楽ではあるけれど、とっさの機転を利かせにくい、その程度。……もし、九郎と一緒に乗っていたのならば別だったのかもしれないけれど。
この時は熊野に数日滞在した。京にも足を運ぼうとも思ったけれど、船を何日も待たせるわけにもいかないから、大人しく兄の相手をするにとどめた。
兄は話題を変えた。
「おい、酒追加だ!持ってこい! ……で、お前今いくつになったっていってたか?」
「聞いていなかったんですか? 19です。年の差は変わらないのですから、ご自分の年を考えれば分かるでしょう?」
「そんなんみみっちく考えるより、目の前にいるんだ、聞いた方が早いだろ。それに自分の年なんてヒノエが生まれた頃にはもう忘れちまったな」
「それはそれは」
僕は更に話を聞き流しに入っていた。
この後に来る話題の見当がついたからだ。
それは、兄が口癖にしている言葉でもあって。
「じゃあお前、そろそろいい加減年貢の納め時だな」
(やっぱり)
酒が入ると兄はいつもとにかくこうだった。それは僕が兄と熊野の水軍を伴い厳島を攻めるまで続いた。
「19だろ? 俺がその頃には一番上の娘がもういたぜ?」
「はいはい」
酒を持ってきた下男に礼を言いつつも続く言葉を、僕はうんざりと聞きながしていた。
「ったく、聞いてんのか? いや、聞いてるな。お前はすべての会話を聞かずにはいられないはずだ」
「伝説の偉人のような事言わないでください。音として耳にいれているだけですよ。……兄上こそ、何度同じ話をすれば気が済むんですか」
「ま、お前が嫁をもらうまでだろうな」
「無駄だって言ってるでしょう。興味ないです」
「秀衡殿に頼んでやるか」
「絶対にやめてください」
「……そういうけどな、そういう相手ができれば、お前は変わるぞ」
「変わらなくても結構です」
大事な何かを聞き逃すことになったとしても、耳をふさぎたい心地だった。
(なんで僕がこうなったか、知っているくせに)
(…………知ってるからこそ、こうしてお節介焼いてくるのは分かっているけれど、でも)
この当時だって、兄には感謝はしていた。けれど、だからって頷けるかというのは、別の話だ。
僕は敢えて視線を合わせて切り返すことにした。
「それより、兄上こそ最近お変わりないですか。なんだか、この前諍いで腕をひどく捻ったとか、来るなり聞きましたけれど」
「ん、そんなのうちの腕のいい薬師のお陰で一発さ。それより、『お変わりない」か聞きたいのは俺じゃねえだろ、熊野のことだろ、お前は」
「これはこれは。兄上から進んで面白い話を聞かせていただけるなんて」
「誰も素直に話すなんて言ってねえよ。ったく、誰に似たんだろうね、こいつは」
いい年して兄はくるくると表情を変える。けれどそのどこまでが本心のものなのか、僕はたまに分からない。
「そもそも、熊野の話なんてどうでもいいことだろ。やめとけやめとけ」
「別当自ら、『どうでもいい』ですか」
「そりゃそうだ。どうなるもなにも、俺が諍いを鎮める未来には変わりないからな」
真剣を装い告げた兄に、僕は朗らかに笑った。
「自信家ですね」
「お前ほどじゃないと思うけどね。……だから、そろそろやめておけ弁慶。熊野の事を気にかける程度なら構わねえ、でも平家は、紛いなりにも時の権力者だぜ」
「権力者だからこそ、僕なんか気にも留められていない、ですよ。それに別に、聞いたからって何もしません。情報は基本。熊野の烏と同じことをしているだけです」
「ったく、可愛くねえの」
兄はおもむろに僕の頭を撫でた。僕はそれでも構いもせずに、促すように兄をにこにこと見上げてみた。
彼は僕に甘い。昔も今も。
「旗揚げでもする気か? ……今お前は平泉に世話になってるんだ、ここや比叡とは違うんだぞ、分かってるのか?」
「だから、何もしませんよ。何も。彼は平泉で毎日健やかに過ごしているだけです。御館の親書にもそう書いてませんでした?」
「……見たのか?」
「まさか」
譲らない僕に、兄は大きく重苦しい溜息を落とした。
「…………その収集癖、も、ここのせいなのかねえ」
「それに関しては感謝してますよ」
「感謝してんじゃねえって言ってんの。だから、騙されたと思って恋でもしちまえって言ってんだよ、俺は」
そして話題は繰り返された。僕も兄よりもっと大きくため息をついて……当時の心境も相俟って、素直に聞き流した方が得策だというのに、僕は跳ね返った。
「何がそんなにいいんですか」
「新たな感覚だな」
そんな僕に兄は目を輝かせ簡単に言い切った。
「自分を見失って、自分以外のものに振り回される。海の上を一人さまようみたいな感覚さ。頼れるものは櫂を握る自分の腕と潮を読む目のみ。どこへ行けばいいのかも曖昧で、一歩間違えばすべて終わり、だけど戻ってきた時、わくわくするだろ? お前みたいな理屈ばっかり言ってる奴には丁度いいさ」
予言みたいで嫌だな、と僕は思った。その心を読んだかのように、
「熊野の神を奉る別当の言うことだ。たまにはきいても罰はあたらねえよ」
付けくわえられて、更に嫌だな、と思った。
「いるんだろ」
その上、にやりと付け加えてきた。
「いませんよ、ってさっきから言っているじゃないですか」
「ははっ、お前が素直に言うわけねえだろうが。ま、いいけどさ。かわりにもうひとつ神託を出してやる。いいか、後ろめたいことはやめときな」
だからこの兄は嫌いだった。
盃の中の酒をぶちまけなかっただけ、僕も大人になったものだと、自らに感心することで僕はそれを聞き流して、今度こそ兄からもっと(僕にとって)有益な話を聞き出すことだけに専念した。兄も満足したのか……ほとんど半数は家族の自慢話だったけれど、熊野三山の今の状況など、色々と話してくれた。
帰りの船の中、ゆらりゆられながら僕は兄と話した言葉を思い出していた。
(『騙されたと思って恋しちまえばいいんだよ』……ね)
恋、というものを、僕は一切信じていなかった。
それは僕にとって、僕のまわりがそうであったように、欲を満たすために用いる手段のひとつでしかなかった。
小さい頃から真っ当に想い想われ慈しみ合う関係などろくに目にしたことが無かった。父は母を強引に浚い、母は帰りたいと北を見てばかりだった。他の親族たちも、僕の血を、外見を厭う人と極端に持ちあげる人で二極化していた。
熊野別当家は神職というその性質故に閉鎖的で鬱屈していて、僕を虐げるものは大抵母や父に気に入られたい者で、僕を庇ってくれる人もまた、多くはやはり、兄の側で父を失墜させたいもの……だと、少なくとも熊野にいた頃の僕にはそう映っていた。父は僕の存在だけでなく、そんな渦巻いた暗部を省みることなどしなかったので、あの家の中、何にも囚われず妻を子供たちを愛しそして弟である僕さえ手を差し伸べ時に突き放していた兄は異端すぎるほどに異端であって。
ゆえに、そんな、どこまでも真っ当な兄が、兄が恋はいいぞ、恋はするものだ、と、物心ついた頃から、また、その後も熊野に行くたびに口にしていたその言葉を、この当時は完全に、僕は相いれないものとして受け入れていなかった。
一番最初に出会った京の街で、僕がどうして九郎を気に入り、自分の庵に出入りさせるようになったのか、なんて、きっと、そういうのとは無縁だったからだ。
結構自分勝手で強情な九郎だけれど、色恋にも、もっと一般的な欲にも縁のなさそうなその性格が好きだった。本当に無欲な訳じゃない、ないけれど、それでも僕の周りにいた誰とも彼は違っていて、
そういう彼と、無意識に、僕は友になってみたいと思ってここまで来たのだろう。この頃の僕はうすらぼんやりと思っていた。
そしてそれゆえに、あの九郎が恋患いなどするならば、
僕の一切関わりないそれを、僕の代わりに九郎が見せてくれるなら。
(知りたい)
やはりそれすらもどこまでも、罪深き僕の知識欲。
愚かな僕は、僕自身も既に恋に囚われていた事にすら気付かずに。
まるで童女が物語を読むかのように空想の先を見てみたくて。
一面の青をかもめが横切っていって。白い姿を僕の目は追っていた。
(11.02.2012)