home >> text >> contents
「忘れ去られてしまった町」

 君は今頃僕を恨んでいるかもしれない、
それでもたまに聞きたくなってしまうことがある。
(ねえ九郎、僕と出会った事は君にとって本当に幸福だったのか)



「何か考え事ですか?」
 まるで船のような三日月を眺めながら僕の隣で女人がにこりと微笑んだ。
 綺麗な笑みで、そして綺麗な姿の人だった。
「ええ、少し」
 膝の上で盃を弄びながら僕は微笑みを返した。
「ふふ、どこかのいい人の事を考えてらしたのですね?」
「まさか。あなたのように美しい方を目の前に、他の女性のことなど考えるはずないですよ」
「どうかしら。弁慶殿はいつもそうやって誤魔化されてばかり」
「信じてもらえないですか。悲しいですね。今は僕の友人の事を少し、考えていたんです」
「まあ、ご友人? ほんとうに?」
「ええ。剣を振り回すのが好きな奴で」
「まあ。素敵ですわ」
 ゆったりと微笑む姿を見ていればなるほどきっとこの人の母はこの美しさゆえにこの家に貰われてきたのだろうな、と僕は思った。
 実際そういう噂だったし。

 僕は相変わらずに平家の屋敷に気軽に出入りを繰り返していた。
 平家の栄華はなおも変わらず。福原に遷都も間近という話だったり、後白河院ももはや平家を抑えきれずにいて、むしろなおも勢いを増していると言っても過言ではなかっただろう。他の武家も、九郎の父君の支配していた東国さえも最早すっかりと平家に屈していた頃。
 そんな平家の強さの一因は、一門の絆の強さだと言われていた。けれど……綻びはいくつかあって、そんな趣味の悪い話も含め、都での色々な事を聞くのは魅惑的だった。
 僕を満たすは知識欲。
 内容もだけれど、それをただただ僕の中に蓄積していく事こそが本質で本義。
 玉石混合、嘘も真も無法に飛び交うそれを集め繋ぎ合わせて、真実を僕なりに見出すことができればさらに、だ。
 その悦を得るために、京へ忍び込み、こうして睦言めいた言の葉を乗せてくるくると回るのは実に愉快だった。

「その方も平家に縁をお持ちなのかしら。私の知り合いでしたらいいのに」
「まさか。そのようなやんごとなき友など、僕にはとても。武家とはいっても落ちぶれた家の、しかも縁のある程度の者ですよ」
「そうなのですか? でしたらなにか心配事でも?」
「心配、ではないですね。ただこのところ、こうして旅をしている合間に久しぶりに会うと、雰囲気が変わっていて驚かされてばかりで」
「まあ。それは楽しみですね」
「楽しみ、ですか?」
「ええ。違いますの? きっとそれはその方、恋をされているんだわ。恋は人を変えますもの」
「恋、ですか」
 他愛のない言葉を積んでいたつもりだった。けれど、その一言に、僕の言葉は思いがけずに止まってしまった。
(それは……どうなのかな)
(考えたことなかった)
 言葉がすとんと深みに落ちて、首をかしげてしまった僕の手に、その人の指がふわりと伸びた。
「ええ。私など、弁慶殿と出会ってから、すっかり変わったと周りにも言われていますの」
 そして、僕の手にしていた盃をゆっくりと取り上げながら微笑んだ。
「ねえ、今日はもう少し、ゆっくりされていかれますの?」
「あ……いいえ、今日は僕は薬草を煎じなければなりませんから、戻ります」
「そう……残念だわ。折角あなたの好きな香をご用意しておりましたのに」
「そうでしたか。ありがとうございます、優しい方。ですが、どうか僕にそのようなお気づかいはなさらないでください。僕は一介の薬師でしかないのですから」
「あなたの薬はよく聞きますから、そのお礼ですわ」
「それは、あなたほどに美しい方を目の前にすれば、とっておきの物をお出ししたくなってしまいます」
 手を握り間近で微笑めば、彼女は一瞬目を揺らしたけれど、すぐに綺麗に微笑みを浮かべた。
「そうやって、あちこちで言ってらっしゃるんでしょう? 聞きました。ひどいひと」
「噂、ですか? そんな不確かなものより、目の前の僕をどうか信じてくださいませんか?」
「本当に上手くていらっしゃるのね。でも、それでもいいわ。また来てくださる?」
「はい。また京に寄る時には、お邪魔させていただきます……それでは、姫君」
「約束ですよ」
「はい」
 ささやいて、指先にくちづけて、僕は静かに立ち上がり、頭を下げて退出した。

 僕はこの人が好きだった。口が軽いし、しつこくもない。周りに使える侍従たちが更に噂好きで、僕が顔を出せばあることない事なんでも教えてくれる、可愛らしい人たち。
 自らの持つ情報の価値も分からないまま戯れに放り投げ、僕を誘う。それで満足して更に色々と話をしてくれる、飽いている人たち。こんな人が、この頃の僕には何人もいた。




 五条河原への帰り道は、烏の声を聞きながらよく月を見上げて九郎の事を思い出していた。
 京で僕がどれだけ話を聞いても、話題に上るは平家、藤原家、後白河院。源氏など存在すらなかったかのように忘れ去られてしまった町。
(……九郎は元気にしてるかな)
 あの白銀を思い出して、寒さが増したような気がして、僕は真新しい衣を引き寄せた。
 六波羅のある家で、薬と交換で商人から譲り受けた品だった。
 体を、頭まですっぽりと覆ってくれる大きな黒い外套。
 一目惚れだった。珍しく大きな買い物をした。この髪も僕の存在さえも封じ込めて、まるで闇に溶け込み影として歩けるのではないか、なんて錯覚できそうなそれ。手に入れた帰り道は一人、遊んでいるかのように無邪気にくるくると翻したものだ。
(これで戻ったら九郎がまた、知らない人みたいだ、とか言うんだろうな)
 さらさら流れる鴨川の水を聞きながら、僕は想いを馳せていた。




なんとなく黒いあれ着はじめたのは罪とか言い出した頃なのかなって気がしてるのだけど
(10.26.2012)


home >> text >> contents >> pageTop
サソ