「時間はのどかに過ぎていった」
春が来た。平泉の二度目の春。待ちわびた春だった。平泉の冬は長かった。僕が山から帰れなくなった日のような吹雪が毎日続いたわけではなかったのは良かったけれど、長い、とただただ思った。奥州の春は遅い、と昨年既に知っていたのに、本当に来るのだろうかとつい危ぶんでしまったほどに。けれど、次第に寒さが和らぎ、道に花が咲き始め畑仕事をする人を見かける度合いが増えたら僕の気持ちも綻んできて、庭の桜が咲くのが待ち遠しかった。
花が咲いたら九郎と花見をすると決めていたからますますかもしれなかった。
やがて福寿草や沈丁花、桃、梅、と次々花開き、白に覆われた町が息を吹き返したかのように華やかに染まった頃、庭の蕾も膨らみはじめ、そして咲いた。
それだけで、もう花見をしてしまいたい気もしたけれど、でもしっかりと八分咲きくらいまで待とうと約束していたので、僕はその時を待ち構えて、そして、もういいだろうと思ったその日、しっかりと瓶子を抱えて家に戻った。
九郎はまだ戻っていなかった。たしか、伽羅御所で泰衡殿と剣術の指南を受けるとか言っていたけれど、
(……あの泰衡殿が九郎と肩を並べて鍛錬している姿は、)
不思議、というか、これは貴重な光景ですね、なんて笑顔でかわかう事も躊躇われるような有様で、少なくともその場に居合わせたいとは今でも思わない。
そんな風に僕が想いを馳せていたら、庭からわんと声がした。
金だった。
金と出会ったのはこの半月程前。九郎が拾って、その後泰衡殿のところで飼われていた。とても賢い犬で、一匹で街中を行儀よく散歩しつつ僕たちのところに遊びに来、夜には素直に先導する九郎に従って泰衡殿の所まで戻っていた。
僕は庭に下りて金の頭を撫でた。
「金、よく来ましたね。ですが九郎はもう少し帰ってこないんです。しばらく僕と遊んでくれますか?」
「わん」
「ありがとうございます」
とりあえず、引き続き頭を撫でふかふかとした毛並みを十分に堪能した頃、九郎が帰ってきた。
「弁慶帰ってたのか。それに金も!」
「おかえりなさい」
「わん!」
まっすぐに駆けていく金を視線で追うように九郎を見れば、彼が桶を手にしていたのに気がついた。
「九郎、それは?」
「ああ、御館が今日はいい花見日和だからとこれをくれた」
近づいた彼が中身を僕に見せてくれた。酒だった。
「奇遇ですね。僕も」
と、縁におきっぱなしの瓶子を指さした。
「明日も花見ができそうだな!」
「明後日も平気かも」
僕たちがそう笑うと、金もまるで混ぜてくれと言うかのようにわんと鳴いた。
そしてすぐさま僕たちは花見をはじめた。
空にはぼんやりと霞かかっていたけれど、遠い山々、岩手山まで見えた景色もおざなりに、僕たちは手元の酒にすっかり夢中になって。
「君と二人きりで盃をかわすのは、そういえばはじめてですね」
「ああ、そういえばそうかも」
互いに酒をつぎ、くい、と飲んだ。思ったより辛くて、僕はむせた。もしかしたら、飲むためではなく、治療に用いるためのものをよこしたのかもしれない、と思ったけれど、
「この酒美味いな!」
と九郎は喜んで、次々に飲み干していった。
「そんなに飲んで。僕、知りませんよ」
「お前に世話してもらうようなことになるわけないだろ。お前こそ飲みすぎるなよ」
「さあ、どうでしょうね」
これではそんなに飲めないかな、とも思ったけど、言うと、九郎は嫌そうな顔をしつつ、
「でも、せっかくの花見だから無礼講だな!」
と、結局勝手にそう結論付けてぐいぐいと飲み進めた。
金は桜の下で遊んでいた。あんなこと言ったけど、僕も九郎に酌をした。咲いたばかりの桜は落ちる気配もなく、九郎も断てそうになかった。
「あったかいな」
「そうですね。風も無くて、眠くなる」
まだ日が沈みにはかかる時間なのに、酒だって九郎の半分も飲んでいなかったのに、なんだか満足してしまった僕は九郎の肩に頭を乗せた。
「いくらなんでも情けなさすぎじゃないか?」
「春ですから、仕方ないです」
「春のせいにするな」
「わん!」
「ほら、金もそう言ってるぞ」
「僕に同意してくれたんですよ」
近づいてきた金を手招きして、僕の膝に乗せた。ふかふかして暖かかった。
「お前も食うか?」
九郎が金の頭を撫でながら、つまみにしていた干し肉を差し出すと、わん、とそれを美味しそうに食べた。
「金はいい子ですね。九郎とは大違いです」
「お前とも大違いだな」
「へえ、じゃあ、僕がこんなに素直になったら君は僕の頭でも撫でてくれるんですか?」
「なんでそうなる」
「僕は、君の頭を撫でてさしあげてもいいですよ、ほら」
「子供扱いするな!」
僕が伸ばした手をぴしゃりと払った九郎に笑った。
「でも、僕より三つも年下だし」
とはいえ、今年で九郎も15だし、実際僕も子供だと思ってるわけじゃないけど、こういうと九郎がむきになるのがおかしくて、僕はついからかってしまう。
「そのうち背だけは追い抜いてやる」
「そうですか。楽しみにしてます」
「ああ、楽しみにしてろ! その時に謝っても遅いからな!」
花も見ていた。春を喜ぶように桜に遊ぶメジロが可愛らしかった。霞んだままの山々に花の色はよく映えて綺麗だった。けれどそれよりもくるくると僕に言葉を返してくる九郎を見ている方が飽きなくて、時間はのどかに過ぎていった。
そして、いつしか空を見つめる九郎のまなざしは強いものになっていた。
「早く大人になりたいな」
けして大きな声ではなかった。でも心が通り、
「早く大人になって、俺は源氏の悲願を果たすんだ」
まるでこの空の果てまで届くように。
僕は隣でそんな彼の声を肴に静かに酒を口にした。
(10.01.2012)