「俺は、お前の友達だから、」
刺すような寒さで目が覚めた。
外はまだ薄暗かった。九郎が朝稽古をしている様子もないので、僕はごそごそと、口元まで衣を被りまだ潜りこんだ。
比叡の冬も寒かった。京も近江も見渡せる高い山にあったあの寺の冬の寒さは格別だと思う。けれど、平泉はそれに勝るとも劣らぬ寒さだった。それを踏まえても、この日の寒さは殊更厳しかった。まだ晦を迎えていないというのに。それこそ、二度寝しようと思っても厳しい程に。
なので四半刻も粘ることなく、僕は諦め、目を擦りながら起き上り火鉢に薪と炭をくべ火をつけた。
炭が熱くなり指のかじかみ程度なら和らいできた頃に、隣の部屋からがたごと音がした。九郎が起きた音。それはすぐさま音は庭へ向かって、と、思ったら。
「雪だ!」
早朝だろうがお構いなしの歓声が僕のところにまで届いた。
(どうりで寒いわけだ)
やはりもう少し寝なければ、と決意した僕が、褥に片足を突っ込んだところで戸が開いた。
「弁慶雪だ! って……あれ? 起きていたのか?」
「はい。あまりに寒くて目が覚めました」
「確かに、今日は寒い」
九郎は扉を閉め僕の隣にすり寄ってきた。
「あれ、今日は朝稽古は中止ですか?」
「…………ここでやる」
「ここで? やるなら君の部屋にしてください」
からかいで問うたのに、まさかとばっちりを食らうなんて。僕は顔をしかめたけれど、九郎は聞く耳持たず。すくりと立ち上がって持ってきていた木刀をいきなり振り始めた。
「信じられません!」
「鍛錬を怠るなと先生の教えだ」
「だったら雪でも断っていればいいんじゃないですか」
「ご! ろく! なな! はち!」
と、嫌がる僕などなんのその。九郎の声はやまなかった。木刀で風切る音でますます寒さが増したし、僕にとってみたらいい迷惑でしかなかったけれど、でも、京にいたころは冬の寒さなどもろともしなかった九郎でも限度というものはあるのだな、と思えば、なかなか面白い気がしたので、仕方なく、僕も火鉢の横に座りなおして読みかけの書を読むことにした。
朝餉をとり終えた後。戸を開けると、雪はやんでいて、雲間からうっすらと陽射しが零れ、きらきらと雪を彩っていた。
「これは、今日中に雪はすべて溶けてしまうかもしれないですね」
「だな。あったかくなってきた」
冬など好きではない僕だったけど、高館からの、あたりの家や田畑を白がうっすら覆う雪景色は綺麗で、少し勿体ないな、と思った。矢先。
「あ!」
九郎が背後で声をあげた。
「どうしました?」
「今日は御館と狩りの約束をしていたのを忘れてた!」
そしてばたばたと自分の部屋に走っていき、準備が一通り終わるとまたばだばたと僕の所まで戻ってきた。
「お前は本当に来ないのか?」
笠をかぶりながら九郎は言ったけど僕は笑顔で返した。
「結構です」
(懐柔されてたまるか)
「暇なんだろ?」
「薬草を採りに行きますから。君こそ、気をつけてくださいね」
(狩りの最中、事故に見せかけて背後から射られぬように)
(いや、それよりだったら適度に痛めつけて投獄でもしておいたほうが役に立つかな。平家とも、源氏とも取引ができる)
「……楽しそうだな」
「そうですか?」
九郎は怪訝な顔をしながらも、最後には笑顔で去って行った。
すっかりと冬の静寂が戻ってきたあたりで、僕は改めて書物を手に取り、また定位置の火鉢の横で読み始めた。けれど次第にうつらうつらとしはじめて、気付いたらまるで猫のように丸くなって眠っていた。
「いつの間に……」
どれくらい経っていたのか分からなかった。火鉢はすっかりと冷たくなっていたから、一刻以上は過ぎていたとは思えた。僕は前髪を撫で払いながらとりあえず起き上った。
「顔を洗いたい……」
水は冷たいだろうけれど、目を覚ましたい僕はしぶしぶ井戸に向かった。雪はまだ溶けていなかった。積っていたわけでもなかったけれど、九郎の足跡がくっきりと残っていた。
草履についた雪をぱたぱたと払っていた矢先。
「弁慶さん!!」
呼ぶ声が聞こえた。必死な声だった。
「はい」
「ああ、いたいた! よかった」
駆けこんできたのは見たことのある町人だった。昔薬を煎じた事があったのか、あるいは、一緒に収穫をしたことがあるような。思い出せなかったけれど、用件は察した。
「どなたか、急に体調を崩されたんですか?」
「はい。娘の熱が昨日から下がらなくて」
「それは心配ですね。伺いましょう」
僕の言葉に町人は二度三度と頷いた。
僕が急ぎ身支度を整えて戻ってきても、緊張した面持ちは崩れなかった。
「お待たせしました」
「いえ、いえ、すみません」
「行きましょうか」
そして彼と共に外へ出た。
京と違い、僕は平泉では薬師として振る舞っていたわけではなかった。けれど、近所の人は僕を頼ってくれるようになった。でも、この人の家はずっと遠かった。伽羅御所より更に東の川の向こう。他に急患がいたりして人出が足りなかったりすると、遠方からでも呼ばれていたので、この日もそうだったのかもしれない。
止んでいた雪はいつの間にかまた降り出していた。娘さんの病状を聞きながら、僕たちは急ぎ足で彼の家へと向かった。
幸いな事に、僕が着いた時には娘さんの熱は落ち着いていた。父親はすみませんお騒がせしてしまいましたと僕に何度も頭を下げた。病状が回復したならそれがなによりです、それに、直接看るのが大事ですから、と僕が伝えてもそれでも恐縮そうにしていたけれど、娘さんがきゅっと彼の手を握った所で、ようやくほっとしたのか、気に病むのをやめた。
薬を置いて、ついでに昼餉をいただいて、見送られながら僕は家を出た。高館まで送っていきます、と彼は申し出てくれたけれど、ちょうど薬草を切らしてしまったところだったので、山に取りにいかなければと、それを断って、僕は更に東へ向かった。
「雪が強くなるかもしれません。お気をつけて」
「はい」
心配そうに見送ってくれた彼に、僕は頭を軽く下げてから出立した。
雪は更に積もっていた。けれど、一寸にも満たない程だったから平気だろう、と僕は判じた。比叡にも雪は降った。
その上、目的の場所はそう遠いわけではなかった。夕暮れには山を降りられるはずで、高館にもそれから半刻もあれば帰れる、そう僕は思っていた。
冬の薬草は貴重だ。雪降り冷たい風が吹きすさぶという平泉ならば更にだ。それにはじめて過ごす平泉の冬で、この先どれだけ寒くなり、薬草が採れなくなるか分からなかったから、ますます早めにとっておかなければいけないし、なにより明日娘さんに使う分が必要だった。
少しずつ、風が冷たくなっていた。蓑をぎゅっと抱き寄せつつ、僕は山に入った。
幸いなことに、山の積雪量は町中とそう変わらない程度だった。
(これなら大丈夫そうだ)
僕は新雪を踏みしめ登っていった。そしてすぐに目的の場所に着いた。薬草もまだ、雪の下からちらりと頭を覗かせていた。
(よかった)
僕は安堵した。
(しかも、他の薬草もたくさんある)
そして、僕はそれらを摘んだ。
夢中で集めた。
指先が冷たく濡れるのも気にならない程にせっせと摘んでしまって、
ゆえに気付いたらあたりはうす暗くなっていた。
(……少しゆっくりしすぎた)
夏ならともかく、冬にこれは危険だ、と、僕は一転、慌て家路を急ぐことにした。
けれど視界は十数歩歩く間にみるみる闇色に染まっていった。と同時に風がとても冷たくなっていることに気がついた。
僕は焦り歩調を速めた。だからといって好転するはずもなかった。むしろ、雪の量が増えて吹きだした。灰色の視界をざらざらと雪が飛んでいた。晴れた日に見る綺麗なそれとはまったく違う、まるで蝗の群れにでも出くわしたように、思考を妨げるもの。
聞こえるセキレイの声さえも、この時ばかりは不気味に感じられて。
「……迂闊でした」
今まで何度も来ていた山だし、雪を知らない訳じゃなかったから、完全に甘く見てた。きっと、そう降っていた訳ではなかったと思う。けれど当時の僕にとっては絶望的だった。
(どうしよう)
迷いつつも、少なくとも今この吹きさらしの中にはいられないだろう、と、僕は足を踏み出し、倒れた木の幹を踏み越えようとした。けれど越えられなかった。幹は雪で凍りついていて、僕は思い切り転倒した。
「っつ」
幸いな事に腰を打ちつけただけで済んだし、立ち上がることも、歩くこともできた。けれど、その間にも闇はいっそう深まった。
(駄目だ、)
僕は改めて状況を確認しようと努めた。
気温は思ったより下がっていた。一寸ほど積もってしまった雪はさくさくと凍りついた音を鳴らしていて、息つく為によりかかった樹も表面が雪に濡れつるりと滑った。休みながら僕はひたすら息で拳を温めた。
(迂闊に歩くとまた転ぶ、もし足を折りでもしたら……終わりだ)
けれど、ここにいるわけにはいかない。一僕は雪をしのげそうな所を探すことにした。
慎重に歩みを進めているうちに雪は止んだ、でも風はますます強さを増していて、頬だけでなく目も痛くて手を翳したけれど、指先も痛かった。髪も袴もすっかり重くなっていた。
混濁する意識の中、そういえば、たしか昔、雨宿りに使った岩場が近くにあるはずだ、と僕はかろうじて思い出した。すぐさま向かって、無事に辿りつくことができた。
けれど、そこは、崖の上に大きな岩がせり出した所。つまり…雨を防ぐには良くても、風を少しも遮ることはできなかった。
(……ここでは駄目だ、意味がない)
ひとつだけ持っていた小さな蝋燭に火をつけて、僕は再び山を横に彷徨った。視界は確保できたものの、雪景色が普段の印象を変えているのと、方向感覚もなくなってきて、僕はいつしか完全に迷っていた。
決断を迫られていた。降りるか、留まるか。火が尽きる前に無事に降りることができれば、どこか民家に助けを乞えるかもしれない。けれどこの状況で降りれる保証もない。
けれど結局答えを出すことはできなかった。その前に冷えきった足指が草履を支えることができなくなってしまった。手頃な木にもたれかかりながら、僕はいよいよ座り込んでしまった。
(この僕が)
ろくでもないことばかりしてきたけれど、これまでで一番、死を感じた、と、僕はほとんど他人事のように思っていた。
(けれど、ああそういえば、九郎とはじめて一騎打ちめいたことをした時も、無事で済むとは思わなかったな)
これが走馬灯というものだろうか、などと思いながら記憶を巡らせた。
(あれから約二年の頃)
懐かしかった。無性に九郎に会いたくなっていた。脳裏に浮かぶのは九郎の事ばかりだった……のは、ここまでの僕の人生を振り返れば他に誰もいなくて当然、なのだけれど、九郎の声が聞こえる気がした。
(ああ、僕は僕が思っていたより九郎の事を好ましく思っていたんだな)
思った。
(もう少し、九郎と話をしてみたかった)
思って。
「……九郎」
呼べば。
声がした。けれどそれは幻聴ではなかった。
「弁慶! 弁慶!!」
ざくざくと足を踏みしめる音が近づいてきて、赤い灯が近づいてきて、見覚えのある橙の髪色が瞳に映った。
「……………………九郎?」
「弁慶!」
本物だった。九郎はずんずん僕に近づいて、そして間近まで来たところで怒鳴った。
「ばか! おまえ、こんなとこで何してるんだ!」
「君こそ」
どうして? と僕は問わずにいられなかった。けれどそんな僕は無視して九郎は僕の手を力いっぱい掴んで引いた。
「おおばかだ!」
そしてぐいぐいと僕を導いた。
「待ってください、九郎先に話を」
「話は後だ!」
九郎は自分のつけてきた足跡を辿り、途中で折れた。すると、なにやら岩穴が見えてきて、躊躇もせずそこに入った。
「普段あんなに偉そうなことばかり言ってるくせに」
中には焚き木の跡があった。それは新しいものではなかったけれど……奥には薪もあって、九郎は勝手知ったる風に火をくべた。
ぱちぱちと目の前で踊る赤い炎。そこでようやく、僕は我に返った、というか、生き延びた、という実感が沸いたのだった。
「……あたたかい」
「当たり前だ。お前、自分がどれだけ冷たいくなってるか分かってるのか!」
「それより、どうして君はここに?」
「話は終わってないぞ!」
九郎は怒りっぱなしだった。けれど、僕は何をこんなに九郎に責められるのか全く理解できていなかった。
「雪を甘く見ていたのは迂闊だと、自分でも反省しました。けれど君だって同じではないですか? こんな雪山をふらふらと」
「同じなもんか!」
言うと、土煙を立てながら九郎が僕の向かいに腰を降ろして真剣に言った。
「心配したんだ!」
「心配?」
「当たり前だ。お前は……お前がいなくなったら……!!」
「ちょっと待ってください。君は、狩りの途中に勝手に抜けだしてきたのではないのですか?」
「抜けだす? なんで?」
「それは、」
君の事だから、連れて行ってもらった狩りが楽しくて一人で残っているうちに吹雪に巻き込まれ、それで偶然僕と出会ったのかと、思っていたと、
紡ぐには、九郎の瞳があまりにも。
「俺は、おまえが山へ行ったって聞いたから探しに来たんだ」
「聞いた?」
「うん。御館たちと別れて家に戻ったら、なんだか昼間におまえに世話になったという人がお前に礼を言いにきてたんだ。娘さんの熱がすっかり下がって元気になったそうだ。でもお前は帰ってきてないって言ったら、まだ山にいるのかな、と言ってたから来たんだ」
千切れそうな目で僕を見ていて。
「……そうだったんですか」
僕は驚いた。それはそれは驚いた。
「まさか、君が僕を心配してくれていたなんて」
そして、こんなに寒い中わざわざ迎えに来てくれたなんて。
(ごめんなさい)
……と思っても、素直に言えた僕ではなかったけれど、
「ありがとうございます。でも、ここは?」
感謝は伝えれば、彼も気が抜けたのか、まるで泣きだしそうに顔を赤らめて、それを誤魔化すように蓑を脱いだ。
「夏に遠乗りしていたときに見つけたんだ」
「へえ」
言われてみれば確かにそれこそ薪が積んであったりして、まるで隠れ家のようだった。
「何度か来てるんですか?」
「お前がいなかった時はよく来てた」
「僕にも教えてくれてもよかったのに」
「お前がいるときは来る意味ないからな」
「どうして」
「家にいればいいから」
「?」
九郎の言いたいことは、たまによく分からない。今でこそそれなりに意味が分かるけれど、この頃はまだまだで、この時も分からぬままに、再びあたりを見回した。
良く来てた、と彼が言った通り、ほのかな生活感のある穴。その一角に見慣れぬものがあって僕は目を止め歩み寄った。
「これは?」
「それは」
うずたかく積まれたそれは木彫りの動物だった。
「君が彫ったのですか?」
「ああ」
意外だった。九郎と言えばとにかくせわしなく野山を駆け回ってる印象が強すぎた。京でも平泉でも、僕の薬作りを手伝ってくれたもののすぐに投げ出していたというのに、そんな趣味があったなんて。
無造作にひとつ手にとった。冷たい指先に木のぬくもりは優しかった。僕はそれをしげしげと見つめた。
「……上手いですね」
「そうか? 自分ではよく分からないが」
「見事です。少し驚きました」
それは確かに本職の職人には劣っていたけれど、少なくとも僕が今手にしているのは鴨だと分かったし、今にもふるふると身を震わせ水を飛ばしそうだった。
「誰かに習ったものなのでしょうか」
「ああ、京にいたときに先生が教えてくれた」
「では向こうにいた時にもやっていたんですね」
今日は随分と知らない九郎の話を聞いてばかりだ。僕は少しの感動とともにもう一度鴨を見た。
「そんなに見ても鳴かないぞ」
「そうでしょうけれど、これ、貰ってもいいですか?」
山積みにしているくらいだ、愛着などないのだろうと思いつつ聞いたら、九郎は薪をくべながら即答した。
「そんなもん欲しいのか?」
「はい。可愛いです」
「だったらもっと……それ、そっちに飾ってある狐のが自信作だ。そっちにしろ」
「いいですよ。僕は鳥が好きですし、こうして最初に手にしたのも何かの巡り合わせかもしれないですからね」
「そういうもんか?」
「そういうものです」
たとえばそれこそ、僕が九郎と平泉まで来てしまったことだって。この先何年もの付き合いになることだって、出会った頃は想像もしていなかった。
「だったら好きにすればいいけど」
「ありがとうございます」
と、薬草を入れるために持っていた麻布に入れたところで、いい加減大人しく九郎に並び火にあたることにした。
かじかんだ指先と体が温まって、血が巡ってゆく感じがした。九郎は薪を追加でくべると、何かを持って外へ行った。
間も無く戻ってきた彼が差し出したのは、これも彼が作ったのだろう、竹でできた器。中には雪が詰まっていた。
「ほら」
「ありがとうございます」
雪はすぐにとけて水になった。なんだかそれがひどく綺麗なものに映った。
(もう少し火のそばに置いてぬるくしてから飲もう)
と、手で包み直したところで、ふと思い出して、九郎に聞いた。
「そういえば、君は一人で来たんですか?」
途端、九郎の表情は一気に曇った。
「九郎?」
「友達だからな!」
そっぽを見てぎこちなく言い切った。口調と仕草だけなら照れ隠しともとれる言葉、でも目が泳いでて、狼狽したまま彼は続けた。
「お前は、俺の友達だから、俺が一人でこなきゃいけないと思ったんだ」
「そうですか」
けれどその言葉は岩穴の中にしんと響いた。幼い頃に聞いた潮騒になんとなく似てる気がした。
やはり、僕は心が弱っていたのだと思う。さっきまでどうすればいいのかも決めかねていたのに、あたたかな炎と、僕にとっても友人と呼べるただ一人の彼が目の前にいて気が緩んでいたんだと思う。だから……彼だって僕同様危険に飛びこんでいたことや、明らかにおかしい態度や言葉に言及することなど置き去りに、ぽつり、と零してしまった。
「親友、ってこういうものなのかな」
それを九郎は聞き逃さなかった。
「親友? なんだそれは」
「大事な友達、です。言いたい事を言って時には悩みを打ち明けあったり、そんな損得抜きで付き合える相手。たとえ離れることがあっても、心は通じ合ったままで、窮地には駆けつける……そんなものでしょうか」
「……弁慶、どこか行くのか? いなくなるのか?」
「そうですね、京とか、また春が来たら出かけますね」
「ああ、そうか、そうだな、うん」
「でも、そんな遠くに行くだけの話じゃなくて、今だってそうでしょう? 遭難しかけてた僕を君は助けにきてくれた」
「そんなの当たり前だ」
「だから、そういう事なのかなって思ったんです」
「そう、なのかな」
九郎は不思議そうにしていたけれど、僕の言葉を噛みしめるように繰り返した。
「親友、か。うん、親友。そうなのかもしれない」
はにかむ姿に、僕はなんだかすっかり嬉しくなっていた。平泉に来た頃なんて、ちっともそんなこと思っていなかったくせに……彼に本気でそう言えるほどになっていた。
「できれば、君とずっとそうあれればいいな」
心の底からの笑みで言えるほどになっていた。そして、九郎も随分真面目な顔で即答してくれた。
「当たり前だ!」
「そうですか? では約束ですよ」
「ははっ、お前こそ、破るなよ」
どちらからともなく、拳を握ってそれをかつんと合わせた。
そしてどちらからともなく笑いだして、僕たちの声が洞窟の中でぐわぐわと繰り返し響いた。
ひとしきり笑った後、僕たちは服を乾かしながらいつものような他愛もない話をして、適当なところで眠った。
九郎がいつも来ていた場所だからだろうか、ごつごつとした床でも普段と変わらないような気がして、安眠できてしまった。
けれど、事件はそれで終わりはしなかった。
朝。しっかり眠っていた僕らだったけれど、何かの気配で飛び起きた。
「なんだ?」
「獣でしょうか?」
外を見た。晴れていた。雪も溶け始めていて、無事に帰れそうだったけれど、
それを妨げかねない足音は、数が多かった。
「人ですね」
「声がする」
ごつごつとした洞穴の岩で身を隠し、僕たちが様子を伺っていると、声は着々と近づいてきたから、僕たちは息を殺した。けれど。
「……せんね」
「でも……がこっちに」
「もっと探せ」
最後の声に聞きおぼえがあった。
「泰衡?」
「九郎!」
九郎は飛び出した。
確かに泰衡殿の声に僕にも聞こえた、でも確証はなかった。彼であると言う確証も、
僕らの敵ではないという確証も。
「九郎!」
だから僕も続いた。そして……予感は当たっていた。
踊り出た先で、九郎は泰衡殿に蹴り飛ばされていた。
「泰衡殿!」
武士団を従えた彼を睨み身構えた僕に、泰衡殿は続けざまに襲いかかってきた。けれど不意打ちじゃなかった僕はかろうじて避け、そのまま飛びかかり地面に押さえつけた。
「離せ」
「お断りします」
けれど、僕ははたと気がついた。
泰衡殿が持っていたのは太刀だ、ただし鞘付きの。そして周りに引き連れた武士団も誰ひとり刀を抜いてはいなかった。むしろ倒された九郎に声をかけつつ駆け寄っている始末。
「これは」
……今だったらやらないと思うけれど、状況が分からないなりに、僕が何か思い違いをしている予感があったので、僕はゆっくり泰衡殿を離した。
すると彼はふんと鼻を鳴らしながら大げさにわざとらしくばさばさと衣をはたいたり腕をまわした後、完全に蔑み目で、雪の上に転がったままの九郎を見下ろし言った。
「どうして一人で出た」
「……」
「なにを目を逸らすことがある。質問に答えろ御曹司」
「それは」
泰衡殿が目配せすると、武士たちが九郎を抱え起こした。それでも顔をそむけたままの九郎をかばうように僕は割って入った。
「それより、僕はあなたに聞きたい。これはどういうことですか。返答次第では、僕は」
「どうもなにも、こいつが馬鹿な事をしたから教えてやっただけだ」
けれど、清々しいほどにぴしゃりと泰衡殿は僕を一蹴した。
泰衡殿というのはどうにもちょっと歪んだところがあって、たまに、こうして誰かを(きちんと彼に正義がある場合)痛めつけてはにやりと笑う、望美さんの言うところのえすっぽい、というものがあるのだけれど、
この時は至って真顔で、
「そもそもの元凶である阿呆はともかく」
僕に吐き捨てた後、再び九郎に向き直って。
「御曹司一人で雪山にのこのこと出ていった所でどうにかできると思ったのか」
「どうにかなったじゃないか!」
「たまたま、だろ? どうやらここにお前の別邸でもあったようだが、だったら、この山じゃなかったらどうした?」
「それは」
「『ここじゃなかったら来なかった』とでも言い訳するか? してもいいぞ」
冷たい声にも怒りを隠すことなく言った彼に、僕はようやっと把握した。
(もしかして、)
(ああ、泰衡殿は『九郎が一人で僕を探しに来た』事に対して『怒っている』?)
そして同時に、前の夜に一人で来たと言った時の、九郎のささやかな違和感を思い出した僕は。
(……九郎も、何かしら僕にも彼にも言いたくない理由があって、一人で山に来た、ということなのか、これは)
(でもどうしてそんなこと)
疑問は残れど、それどころではなかった。
僕は再び泰衡殿の前に立ちふさがった。
「それより、泰衡殿こそなんの御用ですか。こんな朝から、寒い中、僕らを探しに来たのだからよほどの用件でもあるのでしょう?」
僕はごくごく素直を装って、慎重に泰衡殿に問いかけた。大事な局面だと思っていた。なにせ、朝からこんなに大勢で九郎を探しに来るんだ、それなりの名目を聞かせてもらえるに違いない。その機会を逃すまい。できればはっきり言わせたかった。
(ついに、平泉の思惑を計れる)
(『人質をこんなところで失うわけにはいかない』って、言ってしまえ泰衡)
僕はゆっくりと瞬きながら見つめた。
なのに、泰衡殿は眉間に皺寄せて心底嫌そうな顔を……まるきり、僕を馬鹿にしている表情を返した。
「用件?」
「たしかに、どうしてこんなところに、こんなに大勢でどうしたんだ? もしかして御館になにかあったのか!?」
九郎も僕の後ろで…僕とは対称的に心底心配そうに顔をのぞかせた、それを見て、泰衡殿は完全に愕然とした。
「貴様らは本気で言ってるのか?」
「分からないから聞いてるんだろう」
と同時に。
泰衡殿が高らかに何かを言うたびに周りの武家たちが困惑していた。
それは主に対してだろうと思っていた、ゆえに僕は畳みかけるつもりだった、
けれど、違った。
「京からお越しの御曹司様がお帰りにならないから迎えに来たに決まってるだろ」
彼らは、僕たちに対して困惑していたのだった。
「だから、どうしてわざわざ泰衡殿が」
「お前たちは人質だからな」
九郎の顔が引きつった。けれど泰衡殿はすぐさま吐き捨てるかの如く続けて、
「……と言えれば簡単なんだがな」
「泰衡?」
「もしかして……、」
その極めて不満そうに歪む顔を見て僕は、
気がついてしまった。
(まさか、まさか)
信じられなかったけれど……認めがたかったけれど、
「もしかして……泰衡殿は、ただ僕らを心配して迎えに来てくれたのですか?」
言うと、泰衡殿の顔はますます不満げに歪んで。
「……」
「なんだ? どういう事だ泰衡?」
「………………まさか、ここまでお前たちが愚かだとは思わなんだ」
(……本気なのか)
否定したかった。けれど、この時の僕には否定しきれなかった。
まず、泰衡殿は嘘をつくときに笑う人間に見えた。相手がすんなり騙される事を楽しむ……この頃の僕のように。
そしてなにより。
「貴様ら、最初に父上が何と言ったか覚えているか?」
「最初に……?」
「『儂のことを、』」
「『父と思え』……か?」
「そうだ。だから……そういうことだ!」
「つまり……それはつまり、俺にとって泰衡殿は、弟ということか?」
「どうみても逆だろう!」
彼は嘘を好んで吐く人間だ、だからといって、彼ほどに高慢な人間は嘘の為に……このような気恥ずかしい台詞を、しかも赤面しながら言わないのだ、けして。
「そもそもそういう問題ではないだろうが」
「そうか? そうなのか? すまない、少しよく分かっていない」
僕は茫然と二人のやりとりを見ていた。すると今度はまわりの武士たちが声をあげて笑いだした。
「何がおかしい」
「いえいえ、泰衡様もよき友を得られたのだなと思って」
「友、ではないだろう? 御弟殿だろう?」
「でしたら弁慶殿は兄ですかな。そりゃあいい」
「これで泰衡殿も少しは丸くなられるかもしれませんな」
「ははっ、それはそれで面白うないかもしれませぬ」
「煩いぞ黙れ、無礼者どもが」
はっはっはっ、と、恰幅よく笑う彼らに泰衡はますます皺を深め、九郎はますますきょろきょとしていた。
「分かったか御曹司」
「いや、」
「つまり、もっと泰衡様や御館の事を頼って欲しいと、泰衡さまは言っているのですよ、九郎殿」
「頼る……?」
「中途半端な遠慮はするな。それができないならとっととここを去れ」
そんな煮え切らぬ九郎に付き合いきれない、とばかりの泰衡殿は言い捨てて、ひとりで黒き衣を翻し山を降りはじめてしまったので、郎党たちも後を追いだした。
「そういうことですよ、九郎殿。もっと肩の力を抜けばいいんです。もちろん、弁慶殿もね」
最後に言ったのは彼の側近。
「では、参りますか御曹司」
「支度などもあるでしょう、先に降りてますからな、すぐ来られますよう」
「はい、分かりました」
そうしてにぎやかな彼らの姿が見えなくなるまで、つい僕らは立ちすくみ見送ってしまった。
「……なんだったんだ」
「さあ、僕にも」
状況についていけないのは、九郎よりも僕の方だった、と思う。
彼らを疑っていたかった。その方が楽だった……けれど、
(もう……今までほどに僕は彼らを疑えない)
途端、まるで丁度良く飛んできた怒声。
「御曹司早くしろ! お前の馬が待ちわびてるぞ、阿呆!」
「わ! わかった!」
僕たちも慌てて後を追った。
家に着くまで九郎は一貫して先程の出来事を理解できないと言った風に、黙りこくっていた。
ぱかりぱかり、と九郎の馬に相乗りしている間、九郎はきっと、僕になにか言って欲しかったんだと思う。でも僕も何を言えばいいのか決めかねていた。
「……」
けれど、この沈黙に嫌気がして、肩越しに僕は問うた。
「聞きたいことがあるのですが、いいでしょうか」
「……なんだ?」
「君が僕を一人で探しにきたのは……御館たちに貸しにされて、無茶な要求をされると思っていたからですか?」
ぴくり、九郎の肩が揺れたかと思うと、彼はすぐに否定した。
「それはない」
「冗談ですよ」
「……おまえはどこまで本気か分からない」
思いの他重い声だったけれど告げた九郎に、僕もまたすぐに返して、また僕らは黙った。
馬の歩みは僕らの心の迷いのように遅かった。ゆっくりと馬は、帰路を惜しむように冬道を進んでいった。
前日の雪が嘘のように穏やかな日だった。
こうしていればやはり白い町も山も綺麗だと僕は揺られながら思った。
北上川まで戻ってきたところで、ついに九郎が語り始めた。
「すまなかった」
「なにがですか?」
「一人で来たことだ」
「そうですね。僕のせいで君が命を落とすところだった……けれど、僕は嬉しかったです。だから君が謝ることではないと思いますよ」
素直に返すと九郎はまた暫く沈黙した。
それでもゆっくりと紡ぎだした。
「……俺は、お前を探しに行く時、お前が診たおじさん以外には誰にも言わないで来た」
まるで川風に飛ばされてしまいそうな呟き。聞きもらすまいと、九郎の背をぎゅっと抱えて僕は続きを促した。
「でもその時に既に……危ないかもしれない、って思ってたんだ。もし弁慶がここにいなかったら、もっと雪が降ってたりしたら、俺はお前を助けられないかもしれないと思った。でも、御館や泰衡殿には言えなかった……きっと手を貸してくれるから、そういうのはいけないって思ったから言えなかった。でも……違っていたんだな。あいつも、」
『あいつも友だった』
川音にかき消されながらも僕に届いた言葉に、僕はいささか躊躇った。
けれど……背に頬を寄せながら言ってみた。
「そうですね。……僕たちは、偏屈になりすぎていたのかもしれない」
仮に、九郎に出会えたことが龍の神の思し召しだとしても、
だからといって、良き出会いはそれで終いだと、その他の全ての出会いが凡俗であることにはならないのに。
(だからと言って、すぐに素直になんて、きっと僕はなれないけれど)
それでも僕なりに、少しの反省をしていた矢先。
「……よし!」
と、九郎が気合いを入れるかのように叫んだ。手綱も引いたからか馬が嘶いた。
「九郎!?」
「負けてられない!」
驚き振り落とされぬよう必死にしがみついた僕に構わず、九郎は加速した。
雪道は人だけじゃなく馬だって滑るもの。それを夏のような速さで駆けてく九郎は無茶苦茶だった。
なのに、僕も微かな清々しさを感じていた。
(僕がこんな風に思うなんて)
前の晩とは打って変わって、痛みを伴う程の早朝の風が心地よかった。
但し。
戻った僕らを待ち構えていたのは御館で、僕と九郎はしっかりきっちりと怒られた。罰として三日間柳之御所に閉じ込められて主に掃除などの雑用をさせられた。
それは……まるで比叡に入って間もない頃のような厳しさで、解放された時、僕はもちろん、九郎ですらぼろぼろで、僕らはさらに三日間家に引きこもる羽目になった。
いくら山をなめるな!っていったってたぶんこの時分の平泉じゃこんなことにはならないだろう
それよりこんな17さいと14さい二人ちょっとやだ
(08.30.2012)