「平泉って知ってるか?」
鞍馬山を家出してきた頃は僕の庵に入り浸っている事の多かった遮那王だったけれど、いつからかいなくなる時間が増えた。
どうやら『先生』にもきちんと事情を話して、そして『お前が決めたならそうしなさい』と、許しを得たみたいだったので、また稽古を再開していたのだろう、と僕は勝手に推測していた。
どのみち大体夜になると彼は庵に戻ってきた。そしてその日の事を話したり、話さなかったりした。話している事は、後から思えば本当に他愛のない事だけだった。
だから僕はそれ以上考えもしなかったし。
だから僕は何も知らなくて。
秋も深まったある日、柿を布包みにたくさん抱えた遮那王が帰ってくるなり唐突に言った。
「平泉って知ってるか?」
唐突すぎた。僕は小さく首をかしげた。
「平泉……奥州のですか?」
「うんそれだ。前にお前が言ってただろ? おれは京からいなくなったほうがいいと。だから、あれからあてを探してた。そしたら、平泉に行くといいと言ってくれた人がいた」
「平泉、ですか」
黄金の都。京などよりもよほど豊かな武家の支配する土地。しかも、余所者も受け入れてくれるらしい、
と、噂程度には耳にしたことがあった。成程、と思った。
「いいかもしれないですね。でも、本当に大丈夫なのでしょうか」
「おれみたいな邪魔ものは受け入れてくれないってことか? それなら大丈夫だ。それに、どのみちここにいたらいけないんだろう?」
「そうですが、でも大丈夫って君が言うのは、少し不審です」
「今回は本当に平気なんだ! だからおれは行く! 行くぞ!」
僕が訝しんでも聞く耳持たず。遮那王はすっかりとその気になっていた。挙句、話は終わりとばかりに抱えてきた柿を頬張りはじめた。
「おまえも食え」
「僕は柿は嫌いです」
「美味いのに」
(味くらい僕だって知ってる)
「健康にもいいんだぞ。お前、薬師なのに知らないのか?」
「知ってます」
(患者さんに出してるの、九郎だって見てるのに)
「だったら食え。ほら」
「結構です」
柿。どうも硬いのか柔らかいのか判別つかない食感が嫌いだった。なんて、どちらかといえば遮那王が言いそうなことだけど。
それにしても、と、セキレイの囀りで心を落ち着けつつ僕は改めて遮那王が抱えてきた柿を見渡した。
(何日分あるんだろう)
山でもいできたのかもしれない、けれど、その割に随分傷が少なかったし、そもそもこんなにたくさんの果実を彼が持って帰ってきた事なんてなかった。
「その柿、そんなにどこから貰ってきたんですか」
「……」
僕の質問に彼は答えず一心不乱に柿を頬張っていた。そんなに美味しいのか。でも僕の心は揺らぎはしなかった。
かわりに告げた。
「……僕も少し情報を集めてみます。平泉について」
「だから、それは大丈夫だと言った」
遮那王は重ねて言った。
「どうして言い切るのですか?」
「……………………大丈夫だからだ」
「理由を教えてくれなければ分からないでしょう」
「うるさい! だったら勝手にしろ!」
僕の言葉に遮那王は再び短気を起こして柿をいっそうがむしゃらに食べ続けた。それを眺めて、はたと思いだした。
(そういえば、似たような事がいつだかあった)
あれは、橋の上で戦った夜。その時も、別に変な事を言っているわけではないのに不自然な反応を遮那王はしていた。
ということは。僕はなんとなく見当がついてしまった。
「……ごめんなさい。君は約束したんですね、その方と。その方に聞いたという事は話さないと。それを頑なに守る遮那王は偉いですね」
「……武士なんだから当然だ」
怒っていたくせに、かまをかけてみたらあっさり彼はかかった。しかも謀られたことに気付いていなかった。
「きっと、その方もそんな君の事を誇らしく思っているのでしょうね」
「そ、そうか……? ふん、そんなの、おれは父上の子なのだから当然だ」
(……分かりやすい)
人の不幸は蜜の味。それは相手が誰であろうと例外ではなく、と、この頃の僕はまだ思っていたはずだったけれど。
(『武士とはそういうものなのだと母上が教えてくれた』、だったっけ)
あまり会う事を許されていないという遮那王の母君。
そして、武士にならぬことを条件に命を見逃された、との噂もある遮那王。
(もしかして、彼を京から逃がした、と知れれば母君に危害が及ぶかもしれない……、なのかな)
それまで散々に彼は刀を振り回していた、としても。
そうなれば、僕の好奇心や加虐心を満たすためだけに、彼から無理やり『約束の相手』を聞きだしてやろうとはできない程度には最早、僕も鬼ではなかった。
(それでも、何も調べずに行くのはさすがに無謀だと思うけどなあ)
遮那王はなおもがむしゃらに柿を食べていた。
「でしたら、食べ散らかした分はちゃんと片付けてくださいね、御曹司殿」
「なっ、ひきょうだ!」
「卑怯ではないですよ。君に武士の心得を教えてくださった方にも、同じことが言えますか」
「それはっ……ますますずるいぞ!」
武士とは程遠い遮那王の姿に、僕は笑った。
呼応するように、彼の声の紡いだ平泉、という単語が僕の心の中で踊っていた。
(08.11.2012)