「これじゃ駄目なのかもしれない」
「それじゃあ、また明後日に伺いますよ」
「はい。お待ちしてます」
おばあさんは僕に丁寧に頭を下げ、ゆっくりと立ち上がろうとする、
「おれにつかまるといい」
と、遮那王が横から手を差し出した。
「いつもすまないね」
「これしき気にするな。ほら!」
ぶっきらぼうに返しながら、ぐいぐいと手を引く遮那王。
「遮那王、そんなに急がないでください」
「平気ですよ。たまにはわたしも頑張って歩かないと」
「と言っている。お前はとっとと次の準備をしろ」
それは彼女の気遣いというものでしょう、と思いつつも、おばあさんの顔がなんだか楽しそうなので、僕は言いあぐねいてしまった。
二人が外に出て、僕があたりを軽く片付けたところで遮那王の、偉そうな割にどこか人懐っこい声が入口から聞こえた。
「次は誰だ」
「あ、はい!」
僕と遮那王の間あたりで元気な声がして、子供がこちらにやってきた。
「どうぞ」
僕が促すと、彼は僕の前に座った。ついでに遮那王も座った。
何度か来たことのある子だ。子供とはいえ、遮那王とはそう年も変わらないかもしれなかった。
「お父上の様子はどうですか」
「はい。弁慶先生のおかげで今日は熱も下がって歩けるようになってきました」
「そうですか。無事、薬が効いたのかな、よかったです。ではおとといと同じ薬を出しておきますね」
「ありがとうございます」
僕は立ちあがって、近くの棚に収まっている薬の包みをいくつかとり出し、改めて彼の前に座って手渡した。
「昨日までと同じように服用してください」
「はい! それで、あの、少ないですけど」
少年は言いつつ、僕に籠を差し出した。中にはいくらかの野菜が入っていた。おとといも貰ったけれど、美味しい。僕はそれを遮那王に渡しながら微笑んだ。
「いつもありがとうございます」
「じゃあ、これ父ちゃんに飲ませたいから! また来ます!」
「はい。気をつけてくださいね」
そして立ちあがった少年が出ていくのを見送るのは遮那王だ。
「あんまり急いで転ぶなよ!」
「はい!」
彼はそうしてしばらく遠ざかる子を見ていたようだったけれど、しばらくの後、僕の所に戻ってきた。
「とりあえず誰もいなくなった」
「そうですか」
かあかあと烏の鳴く声がして、遮那王の背から差し込む日もうっすらと赤かった。夕暮れ。
「今日も一日終わりましたね」
「相変わらずたくさん人が来たな」
「そうですね」
僕はてきぱきと片づけを進め、遮那王もそれに倣って、一日の業務は終了。
遮那王はすっかりと僕のところで寝泊まりするようになっていた。
僕はそれなりに比叡でも過ごしていたから、この頃は彼の方がよほど僕の庵にいる時間が長かったかもしれない。
そしていつしか彼は、毎日必ず、というわけではなかったけれど、暇な時には僕の診療所を手伝ってくれたものだった。
「君はもういいですよ」
「そうか」
言うと、遮那王は奥へ消えて、僕は薬の調合を始める、それもいつもの日課。
そのうち遮那王が僕を呼んだ。
「飯だぞ」
夕餉はたいてい彼が作っていた。……というか、最初は僕が作っていたものだけれど、お前の作る料理は口に合わないとか生意気な事を言ったので、彼が作ることになったのだ。おいしかったし、僕としても時間がとれてありがたかったけど。
「いただきます」
僕たちは並んで手を合わせて、箸をとった。
「これは先程いただいた蓮ですか?」
「ああ。煮てみた」
「おいしいですね」
御曹司の割に、遮那王は昔から結構、自分の身の回りのことができた、のは、彼の手先が器用だったのもあるけれど、彼がよく山に行っていたからなのだろう、と僕は判じた。
僕たちは比較的、言葉をかわすのが好きだったけれど、食事の時は二人きりだと黙って食べることが多かった。
けれど、この日はふと遮那王が口を開いた。
「そういえば」
「はい」
「お前、なんでこんなところでこんなことしてるんだ?」
僕は首をかしげた。
「なんでって、前に話さなかったでしょうか」
深い意味なく、記憶を確認したかった僕が問うと、遮那王は即答した。
「山にいても息苦しいから降りてきてる、ってのは聞いた。でも、それだったら薬師の真似事なんてしなくてもいいんじゃないか?」
「そうですか?」
「ああ。寺があるお前は食うには困らないんだから、ここで書物でも読んでればいいじゃないか」
なるほど、と僕は思った。
「ああ……そんなこと、考えたことなかった、けど」
「けど?」
「君が、山で剣を振っていたのと似てるんではないでしょうか」
「意味がわからん」
「前に、君は先生に偶然会って、そして武芸を教えてもらえるように頼んだ、と言っていたでしょう? 僕もそうでした。元々、なんでも知りたがりで、薬のこともそのうちのひとつで、偶然、山から降りてきた時に、足を挫いてしまった商人の方がいらしたので、手当の真似事のようなことをしたんです。それで、ああ、これもいいのかな、と思って」
ああ、僕でもなにか出来ることがあるのだな、と、偶然譲り受けた五条の河原で、診療所を開いた。
「それで、変えられると思ったのかもしれない」
僕の中の何かを。
熊野にいられなくなって、比叡からも遠ざかって、何かできるかもしれないと思って開いた。
仮に、遮那王と一緒に京の街を出ることになるとしても、そこでも見聞を広げながら今と変わらず薬師の真似事をしていくのだろうな、と、漠然と思っていた。
けれど。ふと。
「でも……これじゃ駄目なのかもしれない」
それは、無意識に零れた言葉だった。ぽろりと、僕自身も思っていなかった言葉で、目を見張り言葉を失った。
「なんでだ?」
それにも関らず気易く遮那王は聞いてきた。
「なあ、どうしてだ?」
けれど、目も口調も真剣そのものだった。
「……」
「弁慶!」
それはただ、僕が思わせぶりな事を言ったから続きを促しているだけなのかもしれなかった。
あるいは、自分の事を重ねて躍起になっているのかもしれなかった。剣を振ってみても、武士として生きられるわけじゃないっていう現実を突き付けられた彼の境遇を。
けれど僕は答えなかった。
「言いたいことははっきり言え! 気に入らない」
自分でも分からない、と言えば良かった。けれど、そんな、自分を量り切れてないという事実を口にするのが悔しかった。
だから、僕は身を乗り出し今にもこちらに掴みかかってきそうな遮那王にぴしゃりと返した。
「たまには自分で考えたらどうですか。君はいつも僕に聞いてばかりです」
と、以前よく口にしていたように言うと、彼もぴたりと止め、
「……悪かった」
と、うなだれながら、元いたところで食事をかきこみはじめたので、僕も、静かに食事の続きを再開した。
もはや味も分からなかった。きっと遮那王もそうだったと思う。そのまま黙って二人でとっとと切り上げて、彼は片づけを、僕も散らかしたままの薬箱を片づけ、しまって、その日は二人で口裏を合わせたかのようにとっとと布団を敷いてしまって横になった。
眠れるわけはなかった。
(何をしてるんだろう)
僕の心はくすぶりを増していた。
(これじゃ遮那王と変わらない)
思いながらも、諦めて、僕は布団から抜けだし、適当に上着を羽織り、薙刀を手にした。
ことり、と小さな音を立ててしまった。すると背後で遮那王も起き上った気配がして。
「俺も行く」
彼が簡単に身支度し、刀を握って出て来るのを待って、僕らは夜の街に繰り出した。
気付かぬうちに霧雨が降っていた。それでも構わず僕らは駆けた。
後半はともかく、前半はなんかもっと弁慶せんせいと九郎助手のドキドキ診療所にようこそ
みたいなきらめき路線になるはずだったのにー (08.09.2012)