「転機はあっけなく訪れた」
それから更に三月ほど後、夏の暑さが落ち着いた頃に、転機はあっけなく訪れた。
遮那王が人を殺めたからだ。
いつものように彼や僕が徒党を組んでやりあっていた中でのことだった。夜な夜な暴れまわり随分な事をしてきた僕たちだったけれど、人死にが出ることは多くはなかった。皆、散々酷いふるまいをしていた中でも、加減をしていたということだったのだろう。
けれど遮那王は、五条の橋の上の決闘……の真似事で、手加減なく僕に刃を向けていた…僕を殺しかねなかったのと同じように、容赦なく相手の、南都の僧の腕を斬った。あの日にそうだったように、雷鳴の速さで。
僕もそこにいた。血脈を裂かれた僧は血飛沫あげて倒れた。遮那王は顔色を変えることなく踵を返し、次の敵を探しているかのように鋭くあたりを睨んだ。
けれど他には誰も動いていなかった。蒼白な顔で、皆動けなかった。僕もそうだった。丸い月を背にした遮那王の呼吸の音だけがふわふわとたゆたっていた。
その日はそのまま、皆逃げるように散っていった。その混乱の中で僕も目の前にいたはずの遮那王を見失ってしまった。ので、仕方なく僕も戻った。
彼と再会したのは朔の頃。遮那王が僕の庵へやってきた。正確には、いた。僕が戻ってきたら、庵の閉ざされた扉の前でうずくまり眠っていた。
いつからいたのかは分からなかった。僕も、彼の起こした騒動のせいでずっと山に足止めされていて、久しぶりの京だった。
すぐ近くでスズメが草をついばんでいても、草を踏む音も隠さず近づいても、怖がったスズメが飛んでいっても遮那王は動かなかった。
(いつもなら、気配だけで振り返るのに)
「遮那王」
名を呼んだらようやくのろのろのと顔をあげた。その顔はやつれ、気力も何もなかった。
勝手に飛び出してきたのか。はたまた追放か。
「いつからいたんですか」
「おととい」
「何も食べてないのですか?」
「……」
僕は彼にいささか同情していた。だからとりあえず中に入るように促した。丁度、薬草のお礼に握り飯をいただいたところだったから、それを渡した。けれど彼は首を振って食べようとしなかった。挙句、僕に押し返そうとした。
「死にますよ」
僕は返した。
「それでいいんですか。悔しくないんですか」
すると遮那王の目にいくらか炎が戻った。ぐい、と僕が更に押しつけると、ようやく僕の手ごと掴んでがつがつと食らいついた。
そしてぽつり、と説明した。
「刀を取り上げると言ってきた。だから家出してきた」
(予想通りだ)
僧兵たちが徒党を組み、戦の真似事をしていく中で人が死ぬことは多くはなかった。相手にもよるけれど、命を奪ってしまった事が上に露見したら面倒な事になるからだ。
けれど、人が死ぬことは少なくもなかった。罰せられたり追放されたりした者も、当時の僕はそれなりに知っていた。
ただし、それはどこの出かも分からない、姓も無いような輩の場合。源氏の御曹司である遮那王とは訳が違う、という話で、
元々遮那王が剣を振り回すことに反対していたという寺の面々がここぞとばかりに言い出すのも、僕からすれば当然の話だと思えた。
遮那王はやはりぽつりと続けた。
「…………頼みたいことがあるんだ。おれをしばらくここに置いてくれないか」
答えは大体分かっていたけれど、僕は敢えて問いで返した。
「君の『先生』はなんて?」
「……言ってない」
「どうして」
「…………言えない」
情けなくて。と、彼の顔には書いてある。
(やっぱり)
腹を減らしていたのだからきっとそうだろうと思った。彼は本来なら、山で果物や動物をとって食べることができるし、仮のねぐらだって作ることができるのだろうから、鞍馬の山に籠っていればよかったんだ。けれど先生には会いたくないから、ここに来た訳で。
僕はしばらく悩むふりをしてから返した。
「構いませんけれど、いつまでもここにいるのは駄目だと思います」
「やっぱり、そうだよな」
遮那王はしょげた。それに意地悪く僕は笑みを浮かべた。
「違います。……僕のところとかではなくて、君はもう、きっと京を離れた方がいいんです」
すると今までとは打って変わって、遮那王はいきなり声を張り上げた。
「なんで!!おれはここで兄上をお待ちするんだ!!」
「無理です。君には無理です」
けれど言うと……彼だってうすうすわかっていたのだろう、唇かみしめて押し殺すように言った。
「刀は、刀は武士の心だ。それを抜くときは、武士としての矜持を持たなくてはならない。刀を抜くときは相手を傷つけ、命を奪う時だ。その覚悟も無しに刀を抜いても、持ってもいけない。武士とはそういうものなのだと母上が教えてくれた。おれはそれを守っていただけだ。なのにどうして!どうして!!」
僕は彼に同情していた。
僕は見ていたから。遮那王が殺した相手は、運悪く通りかかってしまった商人の荷を刃でもって略奪しようとしていたのだ。遮那王はそれを止めようとしただけ。
人を殺める覚悟を持って、刃を振りかざした相手に斬りかかった。それだけ。
ただ、遮那王の太刀筋はあまりにも遠慮に欠けていた。それだけだ。それこそ僕と切り結んだあの日と同様に。
……それでも、今までだって、もう一年近くも彼は街に降りて来ていたというのに、少なくとも夜の街で誰かを殺したことはなかったことも、僕は知っていた。
「でしたらなおさら諦めなさい」
だから、遮那王に茶を出しながら僕は続けた。
「僕にもあてなどありません。けれど、京を離れなさい。一人で不安なら、僕も一緒に行きますから」
「お前が? どうして」
遮那王は僕は思っていたよりも驚かなかった。ぱちぱちと瞬いただけだった。
「興味本位、でしょうか」
「お前は比叡で名をあげるつもりなのではないのか? とても優秀なんだと聞き及んだぞ」
「そうですね。そう思っていた時期もありましたけど、元々熱心でもなかったですし、今だって御覧の通り、山になどほとんど寄りつかないですし、ただの手段でしかなかったから」
行くあてのない僕が、生きるためにしがみついていた場所。この頃にはこんな風に勝手ができる程度の身にはなれたけれど。
聞いた遮那王は、暫く考え込んだ。
「『刀は、刀は武士の心だ。それを抜くときは、武士としての矜持を持たなくてはならない』なのでしょう? でしたら君も、きちんと結果と現実に向き合わないと駄目じゃないでしょうか」
「……うん」
僕は追い打ちをかけたけれど……きっと遮那王だって分かっていただろう。
「ゆっくり考えればいいです。ただ、『先生』にはここにいること、早くご報告にあがるんですよ」
「……ああ」
一通り吐きだして、冷静になったのだろう、遮那王の目はだんだんと悔恨に染まっていった。
(やっぱり根は真面目なんだろうな)
沈む彼とは対称的に、僕は彼の様子で安心してきたので、冗談めいた口調で最後に言った。
「あ、ですがここにいる間は刃物禁止ですからね」
「なんで!」
「ここは薬師の僕の診療所ですから」
やっと声と顔をあげた遮那王に、僕は笑顔で返したのに、遮那王は神妙な顔で頷いた。
(でも、やっぱり相変わらず分かりやすそうでよく分からない)
僕は思った。この頃からそういうところが好きだった。
今回はちょっと妄想がすぎるのかもしれない、と、今年の大河見てからちょっと思ってる (08.07.2012)