「まだ話は終わってない!」
蝕の日から十日。僕たちは、約束通りに小屋すぐ側の橋の上で向かい合っていた。
「来ないかと思ったぞ!」
「それは僕の方です。君はなんだかとても単純そうでしたので忘れていそうだと思いました」
「なんだと!」
「図星ですか?」
僕が橋の欄干に松明をくくりつけ、笑みながら言うと、遮那王はまるで湯が沸いたかのように怒った。けど、
「お前こそ、逃げるなら今のうちだからな!」
すぐに勝ち気に口角をあげる。生意気、という表現が一番似合いだった。
無鉄砲な子供。御曹司という自覚も無い。改めて、叩き潰したらどうしてくれようと心が躍った。もちろん、用心だっていていたけれど。
「その前に」
遮那王の声は良く通った。
「そういえばお前の名はなんというんだ?」
知らないのか、と僕は思った。それは思い上がりではなくて。
「武蔵坊弁慶と申します。以前は鬼若と呼ばれてました」
「鬼?」
「はい。見た目が鬼のようでしょう?」
散々に言われてきた事だ。『一度見たら忘れられない』と。
『華奢な顔に心を許せば身も心も踏みにじられる、まさに鬼だ』と。
けれど遮那王は困った風に首をかしげた。それは肯定しているのとはわけが違うようで。
「……そうか?」
と、他意もなく言われ、僕はいささか眉を寄せた。
「そうかもなにも、金の髪と白い肌を持つのでしょう、鬼は」
「だが、先生と比べればお前は普通だと思うぞ。先生はすごいんだ! もっと背も高いし、力も強い。それに、すばらしいんだ」
つまりそれは自分は背も低くたいしたことなく素晴らしくないと言われているのだろう、と、当時の僕は思った。でも、
正確には……気付いていなかったけれど、認めたくなかったのだろうと思う。鬼のようだと呼ばれ、蔑まれ、怖れられてきた。ようやくそれを受け入れ逆に利用してやろうと思っていたところだったのだ、こんな簡単に否定されてたまるかと僕は内心思っていたのだろう。
「そもそも、お前がほんとうに鬼ならあんな卑怯な真似しなくてもおれのことなど簡単に倒せるはずだ」
そして僕は口にしていた。
「でしたら、僕が勝ったらその先生に会わせてください」
「先生か…先生はあまりいらっしゃらないから、大丈夫か分からないけど、聞いてみる」
「君が勝ったらどうしますか?」
なんて言うんだろう、と楽しみにしていた僕だったけれど、彼の答えはそっけなく。
「謝ってもらう」
「それだけ?」
「それだけって、武士はむやみにあたまをさげてはいけないんだぞ!」
自分で言っておきながら、何故かしまったと遮那王は顔をした。そしてさっきまでの無邪気な様とは一転して暗い黒い顔をして。
「それ誰が言ったんですか」
「…………うるさい」
「聞かれて困ることなんですね?」
「うるさいったらうるさい!」
豹変に、僕の心は惹かれた。人の弱みというものは蜜の味だ。聞いてみたいと思った。内容にも興味はあったけれど、そもそもきっと口にもしたくないことなのだろうから、それを割らせてみたいとも思った。どうするのだろう、許してと懇願するだろうか。それこそ、頭をさげてはいけないのに?
けれど、それよりも、この勝負の方がよほど僕の気をひくものだった。それこそ、剣で負かすのだって魅力的。鬼にも会いたい。そして。
心躍っていた。さして薙刀の腕もない僕だというのに、こんなにも無鉄砲に勝負を挑まれたのは久しぶり。
「全力でお相手しましょう」
「当然だ!」
薙刀を構えると、遮那王もすらりと刀を抜いた。
いい刀だった。遠目でも分かった。平らで、よく研がれ磨かれていた。彼の師だという鬼、がとても強いというのも嘘じゃないと思った。
そして彼の顔から笑顔が消えた。真剣だ。僕は微笑んだ。面白い。
それに待つのは好きじゃない、と、
風に煽られ、ごうっと炎が揺らいだ音を合図に僕は動いた。弾かれたように遮那王も橋板を蹴った。と同時に刀を水平に構えすごい速さでまっすぐに直進し。
(突き!?)
頬に痛みが走った。を裂かれた、と思った、けれどそれは風圧だった。紙一重。本当の紙一重で僕はかわしていた。
遮那王が僕を見た。感情がなかった。ふわりと浮いた彼の髪が下降に転じて、嫌な汗が僕の背をつたった。目を見開くこともできない僅かの間だったのに、妙に滞留していた瞬間だった。
すぐさま我に返り、僕は斜め後方に飛ぶ、と、それすら見越していたかのように遮那王の刃が浅く薙いだ。幸いな事に遮那王の踏み込みがいくらか足りなかったから、今度はそれなりに余裕があったけれど、
間髪いれずに遮那王は打ち込んできた。早かった。早いし、小さいからやりにくかった。それでも体格で勝っている僕は力で押せるはずだった。間合いだって長いのだからせめて拮抗くらいはできるはずだった。
なのにむしろ、この時の僕は力でも押されぐいぐい中に入られていた。遮那王の打ち込みが激しかったからといっても弾けずにただ受け止めるだけで精一杯。油断をすれば腕が飛んでいただろう。
言うなれば僕は、怯んでいた。
彼の太刀筋はまさに獲物を追う隼の如く、だ。後に地の青龍に選ばれるのも頷けるような、雷鳴の如き鋭さと、なにより迷いがなかった。それに僕は完全に飲まれていた。
僕は惑っていた。負けを認めるべきかと思っていた。けれどその間にも遮那王の刃は容赦なく。
(だったら飛ばしてやる!)
上段から薙刀に斬りかかってきた彼を、僕は薙刀で払いのけながら浮かせた。
(隙!)
なのに、すぐさま踵が飛んできた。よけきれず両腕で防いだものの、体制が崩れた所で、くるりと刃が襲いかかって。僕は屈んでかわし足を払った。けれど直前に遮那王は大きく跳躍して後ろに二度三度と跳ね離れた。
彼は完全に僕を圧倒していた。なんというか……僕がどう動くのかを既に知っているような、そんな動き。
……もし本当に彼がそんな力を持ち合わせていたとしても、僕は信じたかもしれない。
鬼に愛された子。
禍々しいもの。
ぞくりとした。鬼とは、こんなにも忌むべき存在だったのか、と。
けれどだからといってここで引けるほど謙虚で素直ではなかった僕は、ようやく開き直った。
「分かりました」
丁度間も開いていた。仕切り直しにはもってこい。
今度は僕から仕掛けた。走った。遮那王も走った。最初に見せた突きが飛んできて……僕は弾いた。一度見た技なら多少の対応は僕にだってできた。
遮那王は驚きもしなかった。それでも隙はできた。がら空きの胴に僕は薙刀の柄をぶちこむ。小さい体は飛んだ。けれどすぐに体制を立て直した様を見て、上手だなと呑気な事を僕は思った。けれど、やっと少し余裕が生まれていた。一撃入れられた。
(これで、楽しめる)
僕が緩く柄を握りなおすと、遮那王はまたまっすぐに突っ込んできた。僕も突く。平行に。けれど薙刀の方が長い。それは彼も分かっていたはず。止まるかな、と思ったけれど止まれなかったのだろう遮那王はそのまま体をひねって僕の刃をかわした。僕は薙刀を捻り回して。
「!」
遮那王を彼の腕ごと絡め取った。背から彼は落ちた。すかさず僕は足で踏みつけに行った。刃で押さえつけるのでは間に合わないと思った。けれどそれでも間に合わなかった。遮那王は背を打った痛みに顔を歪めただけで、やはり僕の行動を読んでいたかのように踏み込んだ足めがけ刀を突き出してきた。
浅く斬られた。脛に痛みをはっきりと感じた。それでも僕は止めず…止められずに遮那王を踏みつけた。でも痛んだ足で踏んだ力などすぐに跳ねのけられた。体勢を崩した。それでも無事な左足でぐっと堪えて改めて柄で押さえつけてやろうと、構えた。
けれど目の前に遮那王はいなかった。彼はいつの間にか僕の横に移動していた。驚いた僕に生じた隙。それは彼にとっては十分な間で。
どん、とひどい音がしたと同時に腕に激痛が走った。薙刀を弾かれたのだ。
しまったと思う間もなく、目の前で何か光り、風裂く音がものすごく間近で鳴って、遮那王が目の前にいた。かすかにたじろいだら首筋に冷たいものが触れた。
最初と似たように、でも今度は致命的にぴったりと、刃が僕の首筋に当てられていた。
「……」
紙一重、というには随分と傲慢な、確信に満ちた刃。
(これは…………運が悪かったら、もしかして)
「……」
遮那王の髪が、白い水引の袖が、視界のどこかで随分とゆっくりと落ちたように見えた。
「……」
「……」
星も見えない闇空の下、遠くで薙刀が川に落ちた音がした。
それでも僕は動けず、息さえ止めてただ遮那王の、ぎらりとした目を見つめていて。
(むりだ)
彼も腕を振るったそのままに僕を見上げていて。
「か……った?」
突如、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「勝った! 勝ったぞ!!」
後は子供のように……年相応にいきなり喜び始めたので、僕の悔しさはいきなり吹き出すように募った。
「……負けました」
強かった。というか、僕では無理だ、と認める前に悟った。素直に零したら遮那王は刀をすらりとおさめて胸を張った。
「ああ、俺の勝ちだ!」
「ごめんなさい」
「なにが?」
「負けたら謝ると言っていたでしょう?」
「ああ、そういえばそうだった……けど、ほんとに謝ると思わなかった」
「約束ですからね」
むしろ約束まで反故にする方が許せそうになかった。のに、遮那王はやはり子供の目で言った。
「約束とは破るものだと思ってた」
普段ならそうである僕だけど……いえ、むしろだからこそそんなこと言われて少し眉をひそめてしまった。
「こんなに言われるのなら忘れたふりをしておけばよかったです」
「! 違うちがう! おれはお前がいいやつだと思っただけだ!」
「どうでしょうかね」
「ほんとうだ!」
冷たい声音で返せば、揺らめく赤い火に照らされながら、怒気を含ませ僕を睨んで。
(結局懐かれてしまうのかな、これは)
それでも僕にはこの時の彼を厭わしいと思った記憶はない。
とはいえ、このまま彼と会話を続けるつもりはなかった僕は、やすやすと隙を見せつつ、とりあえず薙刀を橋の上から探そうとあたりを見回した。当然、見当たらなかった。
「……せっかく手になじんでいたのに」
「おい聞いてるか!」
「聞いてません」
「だからおれはお前を見くびっていたみたいだって言ったんだ!」
聞くのも悔しかった。そんなこと言われても嬉しくない。
(これは少し、明日から僕も心を入れかえたくなってきた)
もしここで勝っていたら遮那王の師である鬼……リズ先生に僕も稽古をつけてもらえたりしたのだろうか。そうしたら九郎の弟弟子だったのだろうか。それはそれで、少しだけ憧れは抱く。でも……僕は九郎や望美さんのように剣術に勤勉ではなかったから、途中で逃げ出していたかに違いないだろうけれど。
「では、おやすみなさい」
結局、騒ぐ遮那王は無視して僕はとっとと庵に戻ることにした。
「待て! まだ話は終わってない!」
遮那王は戸口までついてきて、僕が扉をしめてしまった後もしばらくなにか言い続けていた。覚えてないし、そもそもほとんど聞き流していたから分からない。
けれどあまりに騒ぎ立てるものだから、
そしてなにより、彼が良く通る声で口にしたある言葉に僕は折れて、彼を迎え入れるべく戸を開いた。
すると、あれだけわめいていたというのに、遮那王はぴたりと言葉を止め、蝕の時と同じように心底不思議そうに、どこか頼りなさげに足を踏み入れ、そして勝手に寝床を作って、潜り込んだ。
「恩に着る」
戸惑いながら告げた遮那王はそのあと黙った。眠ってはいないと思ったけれど何も言わなかった。
(今度は、照れてる?)
相変わらずよく分からない。思いながら僕も隣に横になって、灯りを消した。
遮那王はしばらくもぞもぞと動いていた。僕も眠れなかった。
彼が小屋の前で散々わめいていた言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
(あんな戦い方をするくせに)
あまりに驚いてほとんど聞き流してしまったけれど。
(でも聞き間違い、じゃないと思うんだけど)
仲間に、ならともかく、友達になりたい、だなんて僕に言ったのは、後にも先にもこの時だけで、九郎だけだ。
別に橋で戦わなくてもいいじゃないって思いつつそういやちゃんと書いたことなかったので
死闘じゃないけど (08.03.2012)