「はじまりは気まぐれなような、もしくは」
はじまりは気まぐれなような、もしくは運命のような。
僕が16の時だった。桜の花の落ちた頃、蝕があった。凶事の前触れと言われるそれで寺では大騒ぎで、高位の僧たちは内裏へ、残りもほとんどは比叡で何日も前から祈祷を続けていた。寺の戸という戸は閉められてしまい、僕のような不真面目な者たちも、隙間から覗くことはおろか、庭から眺めることすら禁じられていた。
けれど僕は見たい気持ちを抑えきれなくて、山を降りた。
山は恐ろしい。特に夜は、通い慣れた道でも姿を変える。蝕など起きればなおさらだ。梟の声が幾重に低く響いていた。獣たちも凶事を感じとっているのか落ち着きがなかった。
それでも食われないという妙な自信が僕にはあった。普段はそんなもの持ち合わせていないのに……勤勉な僧でもなく、ましてや生まれた家の神気を欠片とも持ち合わせてなどいなかった僕だけれど珍しく、神託のような確信があった。ただ好奇心が抑えきれなかっただけ、かもしれない。これを見られないなら命などなくても構わないとも思っていたのかもしれない。
僕の心も獣の気配と同じようにざわめいていた。遠く遠ざかっていく読経の声が更に僕を駆りたてていた。
月はどんどんと消えていった。赤い影を残しながら。禁じられるのも分かるほどに禍々しくて。僕の足も、まるで潮が月に引かれるかのように早まっていった。
麓には思っていたよりもたくさんの人がいた。主に酒飲みと、僕のような物好きだけだったけれど、気が狂ったように戻れと叫ぶ陰陽師もいて、都はまさに狂乱だった。
(もっと静かなところに行きたい……川がいいかな)
僕は更に進んで、僕の隠れ家の近くまで行く事にした。
少し前に見つけた小さくてぼろい庵のような家。持ち主は名も知らぬ人だったけれど、偶然、その方が流行り病で道端に倒れていたところに通りかかり、僕の渡した薬のかわりに(彼の死後に、という約束で、そして僕の力及ばず残念ならがその方もすぐに亡くなってしまったけれど)家をくれた。
それ以来、窮屈な寺から逃げ出して、専らそこにばかり籠り、薬師の真似事などはじめていた。
はじめて僕が手に入れた僕の場所だった。そして、そこならばきっと、ゆっくり蝕を見れるかもしれない、と、僕は川沿いを急いだ。
(欠けきる前に、欠けきる前に)
けれど、やはり考えることは皆同じなのか、五条河原にも結構な人数が集まっていた。それでも、山のふもとのように酔客はいなくて静かだったから、僕は小屋ではなく橋の上で見ることにした。
息を整えながら、僕はようやくゆっくりと月を見ることができた。その場にいた誰も彼もが同じ方向を一様に見上げていた。けれどなかなか蝕は進まず、僕は焦れた。首も痛くなってきたので、しばらく欄干にもたれかかりあたりを見回す事にした。
すると、見覚えのある子供がいた。
(誰だっけ)
橙の髪を高く結い上げた育ちのよさそうな子供だった。なのに衣は泥で汚れ、ところどころ裂けていた。
(なんだか、ろくでもないところで会ったような気がする)
連れられて祈祷に行った時にでも会ったのだろうか。なんて記憶を辿っていたら、向こうが月から僕に視線を移して、
「あ」
と指差した。
「お前……比叡の!!」
「……行儀が悪い子供ですね」
子供は僕の言葉などお構いなしにずんずんと向かってきた。それで思い出した。
(あ、この無鉄砲は鞍馬の預かりの)
ろくでもないところ、という推測は当たっていた。夜の街で何度も見えていた相手だった。ただ、向こうもこちらも徒党を組んでいたし、僕も、そしてきっと向こうもそれなりに中心的な人物だったから、直接やりあったことはあっただろうか、なかっただろうか。
などと、僕が一応思い出している間に彼は更に言った。
「この前はよくもやってくれたな! 刀を抜け!」
そして腰に差していた刀をいきなり抜いた。視線がざわっと集まった。それでも構わず僕に怒りをぶつける彼に反して、僕は無関心になっていた。
「興味ありません」
「なっ!!!貴様逃げるのか!」
「逃げる? そんなことを言っていると君の師の名に傷がつきますよ、遮那王」
遮那王、とその頃は呼ばれていた子供は更に感情をあらわにして僕に駆け寄ってきた。けれど。
「なんでおれの名を……それより!先生は関係っ!!」
あまりに激昂していたのか、言いながら、転んだ。今思えばあの遮那王…九郎が、俊敏な彼が転ぶなんてよほど頭に血が昇っていたんだろうな、なんて思えるけど、当時の彼を知らない僕は、
(一人でさわがしい子供)
と、更に関心を失いつつも、あまりに彼が見事につんのめったものだから、手を差し出した。
「僕たちは今、蝕を見に来ています。皆さんもそうです。なのにこんなところで刀を抜くなど、無粋でしかないでしょう? だから黙っていてください」
意外にも遮那王は黙った。黙って、妙にまじまじと僕の手を見て、けれど掴みはせずに一人で立ちあがって、刀も収め、黙ったまま僕の隣に並んで立った。
(変なの)
なんて思いながら僕も黙ってその一部始終を見ていた。そのうち遮那王が空に視線を戻したので、僕も再び空を見上げた。少しは欠けたのだろうか。この頃は目が悪いわけではなかったけれど、僕には分からなかった。
いくらもしないうちに遮那王が口を開いた。
「これはそんなに珍しいことなのか?」
「ええ。……君はそれも知らないでここにきたのですか?」
「寺のみんなが凶事だって閉じこもったから中に入れなくなったんだ」
(それで暇になったからって凶事を見に来るなんて)
度胸があるのか、それとも馬鹿のか。両方か。少し興を引かれた僕に遮那王は今度は笑った。
「だがお前に会えたのは幸運だった」
「どうしてですか」
さっき刀を向けようとした相手に会えて幸運? 面白い、思ったけれど、
「これで再戦の約束を取り決められる!」
帰ってきた言葉はまさにそれで、しかも生き生きとしていて、僕は今度こそ呆れた。
「またそれですか」
「ああ。この前おれたちが負けたのはお前が卑怯な手を使ったからだと聞いた。だから今度は正々堂々と戦いたいんだ」
話しているうちに思い出してきた。この少し前、鞍馬の僧兵たちをのした事があったのだけれど、その時に彼は一際叫んで僕を罵っていたのだった。
「でも、策だって立派な戦術です」
「それが卑怯なんだ」
「策でぶつかりあうのが駄目なら、どうやって僕と戦うと言うんですか」
遮那王はきょとんと目を丸くして僕を見上げた。
「どうって?」
「何をするんですか」
「受けてくれるのか!?」
「ただ聞いているだけです」
けれど場合によっては受けてもいいかな、と思った。そうしないと後々にまで付きまとわれそうだから、早めにつぶしておけばいいかもと。
遮那王は即答した。
「そんなの決まってる。一騎打ちだ。一対一で、この橋の上で」
そしてそれは思いのほか僕の心を揺さぶった。
「一対一。面白いですね」
僕はけして強くはない。背は低いし、腕も細い。やはり武を生業とするものには敵わないだろうと思う。それでもさすがにこんな頭ひとつはゆうに小さい子供相手に負ける気はしなかった。
彼は動きも早いし、太刀筋もいい。鬼を師とすると噂の源氏の御曹司。でもだからなんだと言うのだ。
なのに遮那王はやはり驚いて。
「いいのか?」
「君が言いだしたんでしょう?」
「だが」
と、躊躇っていたけれど、ふいに周囲がどよめきはじめて、僕らは会話を止めた。空を見ると、ついに月が消えかけていた。
「月が!」
「完全になくなる訳じゃないんだ」
蝕、月が闇に侵食される刻。だからもっと黒く、朔の夜の時のように闇に覆われるのかと思っていた。
けれど空に現れたのは赤い月。光りもしないし、紅のような鮮やかな赤でもない、言うなれば。
「血の色みたいだ」
嫌悪を隠さずに遮那王は言った。まさにその色だった。
「不吉って言ってたの分かった気がする」
と、一歩引いた。けど僕は対称的に嬉々として空を見上げていた。
「あんなに白い月がこんな色をするなんて」
食われたというよりは染められたような。遮那王に倣って素直に言ったのに、彼はどこか子供らしからぬ顔で眉をひそめた。
「お前これを見てそれしか思わないのか?」
「君みたいに怖くはないです」
「……そ、そうか。だったらおれも怖くなんかない!」
「無理するものでもないと思いますが」
「無理などしてない!」
そして、彼は何故かすごいぞーとか大きな声で言いだした。そして周りの注目を浴びてしまったものだから、僕は慌てて抱きかかえるように彼の口をふさいだ。
「なにを…もごっ」
「だから君は少し煩いです。それに、そんなふうに主張するとますます怖がっているように見えます」
「……」
図星だった遮那王は黙った。昔も今も彼は素直だ。
「そんなに怖いなら帰ればいいのではないでしょうか。それとも、帰り路が怖いですか?」
「だから怖くなど!!」
笑顔で逆なですると、遮那王も毛を逆立てるように言い返した。けど、すぐにしゅんと俯いて。
「…………それに、帰れない」
と零してそういえば寺から締め出されたとか言ってたなと思いだした。
(どうしようかな)
僕が彼の心配をする義理などなかっただろう。けれど丁度、僕の小屋には南側に明かりとりの窓があったなと気付いてしまった。
どちらかといえば、運命というものがあるならこの、小屋を譲り受けてしまったという方だったのかもしれない。
(視界のないところでずっと見ていたかったけど、)
「仕方ないですね。泊っていきますか?」
首も痛かったし、というのは隠して、僕が言うと、彼は不思議そうに首をかしげた。
「どうして?」
「どうしても何も、帰れないのでしょう?」
問い返したいのはこちらの方だった。まさか何故と返されるとは思ていなかった。
「帰れないが、でもお前のところに泊まる理由にはならんと思う」
「眠そうですけれど?」
「その辺で寝る」
「不吉な月の下で?」
「だからって、お前のところで寝るのか?」
「あ、分かりました、僕に殺されるんじゃないかって思っているんですね」
勿論そんなつもりないけどにやりと笑って言ってみるとやっと遮那王の表情が変わった。
「……! そういう魂胆だったのか!?」
そしてざっと一歩引きさがって、
「よし、だったら受けて立つ。おれは寝てても殺気で目をさますことができるんだからな! おれの首、とれるものならとってみよ!」
なんだか本気っぽく意気揚々と宣言した。
(そういう理由にしておきたいのかな。敵に情けはかけてほしくないのかも)
(つくづく変な子供)
「僕は寝ますよ」
「俺も寝るぞ!」
「意味が分からない」
(御曹司ってそういうものなのかな。僕の家も変な人が多かったから、そういうものなのかも)
何をやけになっているのかと呆れながらも話しているだけ無駄な感じがして(それはすごく正しかった)、僕は遮那王を伴って橋を降り、庵に戻った。
中に入り、灯りをつけた。
「その辺にあるものを適当につかってください」
「わかった」
遮那王は僕の言うとおりにその辺にある布や藁やらを適当にかきあつめて布団のようにしてしまった。
そしてきっちりと正座してとまっすぐ目を見て言った。
「ありがとう恩に着る」
「いえ」
「なにかおかしいのか?」
「いいえ」
まさかこの粗雑な子からこんなに丁寧に礼を言われるとは思わなかった。と思ったけど言わなかったのは、遮那王がなにやらなんともいえない顔で僕を見上げていたからだ。
「どうしました?」
「お前の髪、ちゃんと見ると綺麗な色なんだな」
言うなり、何故か慌ただしく遮那王は藁に潜り込んだ。
照れるくらいなら言わなければいいのに。思ったけど言わなかった。
僕も火を消して、寝転がり、窓から月を見上げた。
(花は散ったとはいえまだ寒い)
月はまた少しずつ弓のような光を取り戻していた。
藁を引き寄せながらそれがゆっくりと太くなってゆくのをみているうちに、気付いたら眠っていて、気付いたら朝になっていて、そして遮那王はいなくなっていた。
「……なんだったのかな」
僕は呟いて、大きく伸びをして息を吸い込んだ。
この年の桜は狂ったような乱れ咲きだった。
街と木を白に染め、そして視界を覆い尽くすほどに一気に落ちた。
その中で一人の子供が花びらを断っていた。
彼の徒党が、そして僕の与した徒党がまわりでつば競り合いをしていても構いもせずに、橙の髪をゆらゆらと躍らせながら、舞うように刀を振っていた。
淡い色の衣が翻る。断たれて白が増えてゆく。姿が霞む。その中できらめく刃の銀。
「遮那王は相変わらずだな」
誰かが嘲りを込めながら言った。
(ああ、あれが噂の源氏の御曹司)
鬼の秘術を学ぶと噂された子供。名を聞いてしまうとまるで禍々しい儀式のようにさえ見えた。
それほどに、目の前にいるのに距離を隔てた……譲くんが言うところの別の次元にいる、だったか、そのように、触れようとしても透けて通り抜けてしまうような幽玄なものに感じていたものだった。
それがあの蝕の日に遭遇する前までの、僕の中での遮那王の記憶だった。かなり強いとか、父の面影を残しているものの、彼の父は彼の生まれる数年前に亡きものになっていたのでは、とか、そんな噂ばかり先行して聞いていたから、まるで妖のような印象を助長させていたのだと思う。
けれどそれがすべて僕の行きすぎた想像で……、
確かに、別に次元にいた、のは間違いない、けれど物理的にではなく、
彼はただ、人と争うよりどれだけ花を断てるかに夢中になっていただけ、空気の読めない子供だっただけだったということはすぐにわかったことなのだけど。
年表見てたら皆既月食って乗ってたからここからはじめちゃえって安易に使った (12.08.01)