[ 8/22 03:00 ] 腕にはめた時計をちらり、と見ると、深夜三時になったところだった。丑三つ時。草木も眠る、と言われている時間。 今までそこそこ耐えてきたつもりだけど、さすがの九郎でもやはり少し、いやかなり眠くなってきた。睡魔はなかなかに手ごわい相手だ。かつて戦場ではこんなことなかったのに。衰えたか、うつつを抜かしているのか、九郎はいささか自分の気合いの足りなさに眉を顰めながら、目の前に用意しておいたコーヒーを手にした。 眠い時にはコーヒーだといつだか譲が言っていた。ひたすらコーヒーを飲むんですと切実すぎる顔で言っていた。一体何にそんなに必死で徹夜しようとしていたのか九郎は詳しいことは知らないが、今自分だってこんなことで必死になっているんだ。譲にだって一度や二度、こんな経験があったんだろう。 ……と、眼鏡の彼のことを思い出しながらコーヒーを口に含んだ、途端、吹いた。 「ぶっ」 そんな九郎に弁慶は冷ややかな目を向ける。 「九郎」 「いやだってこれ!」 「君が何を言いたいのか知りませんが、だからといって、吹きだしていい理由にはなりません」 「……すまなかった!」 ふてぶてしい、と思いつつも事実、汚いことには変わりないので、九郎は悲惨なことになってしまった机の上をひととおり拭くと、改めて彼に向き直って、真っ正面から言った。 「で、お前は一体何をした」 そんな九郎に弁慶も向き合ってきっぱり言った。 「君が眠そうにしていたので」 「だからといってこれ……何を入れたんだ」 「いやだな、ちゃんと食べられるものですよ、唐辛子ですから」 さらっと弁慶が言う言葉に、九郎はまた口直しに飲んでいた水を吹きそうになった。危ない。 「お前なあ…」 睨まずにはいられなかった。けど弁慶は、今度は大きな目でじっと九郎を見つめて、 「九郎、僕を一人にしないでください」 などと言う。そんな風に言われると九郎は弱い。多分確信犯なんだろうと思うけど、弱いものは弱い。だから、 「お前も一人だと怖いのか」 「違います、寂しいんですよ、君と一緒にしないでください」 などと散々に言われても、結局九郎は、む、と、口を横一文字にするだけで、それにとやかく言う事はできなかった。ただし。 「……だが、どうにも耐えきれなくなってきた」 弁慶の暴言と、自分の眠気は別だった。九郎が素直に辛いと訴えると、弁慶は、少し考えた後、 「うーん、どうすれば君の目を覚ますことができるか……、ああ、そうだ」 と、笑顔で言って、ごそごそと携帯電話を取り出した。 「君に僕のとっておきのコレクションをお見せしましょうか」 「? またなにかどこかの怪しげな曼荼羅とかじゃないだろうな」 「ふふっ、今日は違いますよ……これです」 と、弁慶が嬉々として見せた、その携帯の画面に映し出されていたのは、 「俺か!?」 「ええ。どうぞ、次々と見ていってください」 そこには九郎が、部屋のソファで昼寝をしている写真があった。いつの間に。思いつつ、次の写真を見る。その次も、次も、見れども見れども、似たようなものばかりで、 「な……なんだこれは」 「見ての通り、君の寝顔を集めてみたものです」 「なっ!!!!!」 九郎は絶句した。 「しっ、静かに」 「これが落ち着いていられるか!」 だって、一枚二枚じゃない、少なくとも今10枚は見てきたと思う。九郎は必死にボタンを押し続けた、けれどもいつまでも続く彼のコレクションに、抑えるのに必死だった怒りが徐々に、呆れに変わり、最後には、なんだかとてつもなく気恥ずかしくなって、九郎は結局、全てを確認することも、また、手渡しすることすらできずに、おずおずと机の上に彼の携帯電話を置いた。 弁慶は変わらぬ笑顔で言った。 「こちらの世界は便利ですね」 「お前もどこへ行っても変わらないな」 「君ほどではないと思いますよ」 そんな彼にまだ言いたいことがあるような気もしたが、とりあえず目は覚めたから、その点では感謝せざるを得ないな、と、九郎は思った。 |
[ 8/22 03:50 ] 弁慶のお陰で九郎の目はすっかり覚めたが、今度は入れ替わりで弁慶が眠くなってきたようだった。本人は口にしないが、コーヒーを飲むペースが上がっていることに九郎でも気付いていた。 「そこまで無理する必要もないんじゃないか?」 「いえ、」 弁慶はすっかりと寝ぼけているように、九郎には見えた。ぼんやりとしている。けれどあいにく、可愛い、と思えることはない。殺気立っていたからだ。 「ここまで来て、寝るわけには」 九郎を睨みながら弁慶は言うと、とんでもないものを手にしたから、慌てて九郎は止めた。 「待て!!」 「止めないでください」 しかし掴んだ腕は振り払われて、弁慶は自分のコーヒーにまで唐辛子を入れた。そして飲んだ。 「……うわ」 「……さっきの君の反応を見た限り、もう少し効き目があると思っていたんですが、そうでもないですね」 「もう止めないから寝てくれ弁慶」 「僕の場合は、どちらかというと、薬師をしていた過程で、味覚が壊れたんだと、思いますよ」 にこりと作り笑顔で弁慶は言う、けれど目は据わったままだ。色々と九郎は困ってしまった。とりあえずこのコーヒーを飲めてしまうのは眠気のせいであるほうが幾分ましだと冷静に思ってしまった。 さっきは取り残されるのは辛い、と思っていたが、あとせいぜい1時間か、2時間か。それくらいなら九郎一人でも耐えられるし、慣れたし、なにより今の弁慶を見ている方がよほどはらはらする気がした。そんな九郎の前で、弁慶は少し拗ねたような顔をする。 「それにしても、どうして君はそんなに元気なんですかね」 「さあ」 聞かれても分からないし、そもそも眠い九郎は曖昧に答えると、弁慶は続ける。 「蕎麦の力ですかね、あれは健康食だと聞きます」 「どっちかといえば、年のせいじゃないか?」 けれど、その言葉には、弁慶は拗ねたような顔のまま、口を閉ざした。 「どうした? 何か変なこと言ったか?」 「いえ、別に僕は普段年の事を気にすることはないですが、たまに、こう、なんだか無性に聞き逃せなくなるな、と思って」 「事実だ、仕方ない」 九郎は言うも、弁慶はなおもその話を続けた。 「たまに思うんです。もし、僕が九郎よりも3つ年下だったらどうだったのかなって」 「どうでもいいだろう、そんなこと」 と言いつつも、九郎はふと、年下の弁慶、とやらを想像してしまった。 九郎が弁慶に最初に会ったのは、12、3の頃だったか。ということは、弁慶は10を過ぎたくらいか、だとしたら、まだ幼子じゃないか。九郎が実際に弁慶に出会った時、彼は既に口が達者で言いくるめられてばかりだったが、10くらいなら、素直で可愛らしかったのではないだろうか、と思えば。九郎は素直に胸の高鳴りを感じた。 たしかに、それはそれでよかったのかも。そしてそのままそんな弁慶と年月を重ねていくことができたのかも。 けれど、九郎は、再び想像してしまった。仮に、弁慶が九郎より3つ年下だとしたら、今は20だ。20歳の時の彼を思い出す。あの頃は、平泉で……。 「……どうでもいいな」 「そうですか?」 不服そうな問いに、九郎はしっかり頷いた。 だって当時の弁慶ときたら。 「どうせ今と大して変わらない」 だったら今のままでいい、と、九郎はきっぱり結論付けた。 |
[ 8/22 04:15 ] さっきまで頬杖つき目を閉じながらも会話を続けていた弁慶だったが、次第にその姿勢は崩れてゆき、ついに机に頬を付けてしまったかと思ったら、言葉も途切れはじめ、とうとう眠ってしまったようだった。 「弁慶?」 九郎が話かけても返事はない。かわりに上がるのは寝息ばかり。もしかしたら寝たふりをしているのではないか、と、最初、九郎は疑っていたが、その寝顔があまりにも、崩れていたので、ああ本当に眠ってしまったんだな、と判断し、椅子に深く座り直して、曖昧に笑みながら彼を見つめた。 「ようやく寝たか」 弁慶は普段こそ、まるで眠っているのか分からないほど整った顔で睡眠をとっているが、稀に、ひどく疲れた時なのか、とんでもない表情で眠ることがある。それを見て九郎はああ、疲れているのか、程度にしかずっと思ってこなかったが、いつだったか、望美がはじめてそれを目にした時、弁慶さんがこんな顔するなんてありえない、と、ものすごく落胆していたことがあって……、しかも望美だけならまだしも、譲や敦盛もたいそう驚いていたものだから、きっとそれほどに珍しい、弁慶らしくない寝顔だったのだろう、と、九郎でもおぼろげに想像はついたものの、だからといって、やはり特異性を感じたことはなかった。 でも、今はどうしてか……知らない世界に来たからだろうか、そもそも、稀にしかこの顔をみなくなったからだろうか、なんとなく、こんな歪んだ寝顔は弁慶からは想像できない、という気持ちが、本当になんとなくだけど分かるような気がした。 懐かしいな、と、思う。そういや、九郎と弁慶が特別親しいと望美にバレたのもその時だった。最初は顎が外れそうなほどに望美が唖然としていて、一体何をそんなに驚かれなければならないんだ、と、九郎からすれば不服だったものだけど、こっちに来てなんとなく、その意味も分かったような気がした。 あれからたったの一年もたってないのに、ひどく遠くに感じる。まるで今日見た花火のような、刹那で、一瞬の日々。失ったものも多い。……それだけではないと、分かっているのだけれど。 弁慶は相変わらずに眠っている。九郎はなんでもなく携帯を取り出して、カメラモードを起動して構えた。 当たり前のように弁慶は気付く気配はない。きっとシャッター音がしても、起きはしないだろう。けれど九郎は、撮影ボタンを押さなかった。 携帯を再びポケットに収めながら、外を見る。まだ星空だ、だけど今は夏、きっともうすぐ夜が明ける。 |