「龍神の加護・前編」
弁慶は濡れ縁に寝転がって、太陽を遮るように空へと手をかざしていた。
「そんなに眩しいならそんなことろに転がってなければいいだろう」
その姿を見たと同時に、口からそんな言葉が出たが、裏腹に、九郎の口元は緩んでしまった。用が早く済んだから景時の家に寄ってみたのだが、まさか同じくさっさと用を片付けてしまったらしい弁慶が、一人いるなんて思わなかったからだ。
「九郎ですか。お帰りなさい」
「お前の家じゃないだろう」
「では、景時の代わりに、ということで」
弁慶は一度こちらを見、きらきらと微笑んだが、すぐに手をかざすことに夢中になった。
「何してるんだ?」
隣に腰を降ろしながら九郎もそれを見る。柔らかな風貌の割に荒れている弁慶の右の手。九郎もよく見知っている。
だけど、以前と違うところがひとつある。
「僕が八葉、って思って」
と、弁慶が手のひらをくるくりと返しながら光にかざせば、不思議な色の宝玉がきらきらと輝いた。
「あの時は驚いたな」
九郎の脳裏に宇治川の戦いがよぎる。雪積る戦場の真っただ中、突然、朔に連れられてやってきた白龍と望美。途端、腕が熱くなって、後で見たら宝玉がそこにあった。
「お伽噺だと思ってたのに」
「ええ、僕も」
「その割にお前はすんなり認めてたじゃないか」
「そうとしか言えなかったですからね。でも、本当のところ、今でも半信半疑だったりするんですよ」
少し懐かしそうな弁慶の言葉に、少し九郎はむっとした。
「望美はしっかりやっているだろう」
「九郎、怒らないでください。勿論、望美さんが神子なのは、もはや疑いようのない事実です」
「じゃあ何の話だ」
「僕が言っているのは……僕自身の事ですよ」
そして、春には少し早い冷たい空気に、息を白く染めながら弁慶は、
「……僕が八葉で、いいんですね」
まるで、しっかりと確認するように言った。
疑っているというよりは、大事なものを探し当てた、胸をなでおろしたかのような声に、九郎は少し、気をとられる。だというのに同時に、粛とした姿に見惚れてしまって、そんな自分を誤魔化すように、慌てて言葉を紡いだ。
「当たり前だろう」
「そうですね、九郎、君とお揃いですしね」
なのに、弁慶はますます九郎の心が跳ねるような事を、なんでもないように言うから……弁慶がそんな風に、さらりとこちらがどきりとするような事を言うのはいつものことだが、今はまっすぐにこちらに向けて細められた瞳も相まって、
「ずっと一緒だったんだ、今更離れろと言われても、困る」
などと言いつつ目をそらさずにはいられなかった。
そのまま共に空を仰ぐ。眩しい光が飛び込んで来て、九郎も弁慶がしているように手をかざした。
いつかの、弁慶に勢いで好きだと言ってから半年ほどたっただろうか。
あれから弁慶は、頻繁に出かけなくなった。皆無ではなかったが、遠くへ行く時には九郎になにかしら、場所とか用向きとか、そういう事を残して行き、戻ってきた時にもすぐ九郎に顔をみせてくれるようになった。
だけど、それ以外の事は何も……結局彼が何をしていたのか、弁慶は言わなかったし、二人の間柄も今までの友としてのそれとなんら変わらなかった。
ただ……九郎の方は、時としてこんな風に、一方的に彼の口調や仕草にどきりとして、戸惑ってしまう回数が増えたが、だけどにこやかに笑う弁慶が自分にそれを向けてくれる、そんな関係を気に入ってしまっていたから、特に、何か言おうという思いもすっかりと落ちついてしまっていた。
「それにしてもお前も俺も、そんな大層な役割を与えられたなら、この戦、勝てるのかもしれないな」
浮足だってしまいそうな空を見ているうちに、すっかり平静を取り戻した九郎は、ふと続けると、弁慶が声を零して笑った。
「ふふっ、総大将の割に、随分弱気ですね九郎。僕ははじめから勝つつもりですよ」
「俺だってそうだ!」
「冗談ですよ」
からかい混じりの言葉だ、と、分かっていても、つい振り返ると、
「……ここで、穢れを浄化することもできるんですね」
意外なことに、弁慶は少し真面目な顔をして空を見上げていた。
「穢れ?」
平家の怨霊を倒したいということだろうか。だったら今も意味が分からず首をかしげるも、弁慶はなおも愛おしそうに空を見上げていた。
「……めらわないって決めたはずだったのに、甘えたくなってしまう」
「おかしな事を言うな、源氏にいることに何の問題もないだろう? お前は俺の……、……、友なんだから」
本気で意味が分からない九郎は、いたって真剣にそう言うしかできないわけだけど、それに何故か弁慶も目を丸くして驚いて、
「ふふっ。そうでしたね九郎、ではお言葉に甘えようかな」
と、本当に甘えるように、九郎を見上げるから、また言葉を詰まらせてしまった。
「……変な奴だな」
「ふふっ、そんな顔で言っても説得力がないですよ九郎」
「そっ、それは、お前が!」
けれど、言いかけたところで、
「ねえ、九郎」
体を起こしながら弁慶が言った。
「もし、僕がいつか君に頼みごとをする日が来たら、叶えてくれますか?」
「?」
唐突な問いに、九郎は一瞬、留まった。何の話だ? と、思ったものの。
「俺にできることならいくらでも構わん」
きっぱりと、ゆるぎない気持ちで九郎は言った。すると弁慶の指が九郎の手の甲に伸びる。
「君が言うと、本当に……どうにかなりそうな気がしてしまいますね」
「他ならぬお前の頼みだからな」
「約束ですよ?」
「ああ、当たり前だ」
上目遣いの弁慶は、言うと微笑んだ。その笑みはまるでこれから訪れる季節のようで。
「約束だ、弁慶」
九郎も微笑んで、もう一度、しっかりと頷いた。