「帰る場所・前編」
「少し長く出てきます」と言った弁慶がどこかに旅立ってゆうに三月たった。夏の気配は消え、虫の声もまばらになって、月の綺麗な頃合いになった。
そんなある日の宵、寝付けなくて一人、味も分からず月を肴に酒を飲んでいたところで、遠くから、本当に遠くで、なにやらざわり、と騒ぎが起きたような気配がした。それに混じって知った声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない、などと疑うことなく九郎は立ちあがっていた。
十数歩走ったところで、
「九郎殿! 弁慶殿がお戻りです」
と、郎党の一人が息切らし知らせに来た。
勘違いじゃなかった。九郎は逸る心そのままに戸口へ向かって走る。と。
「ただいま九郎。ふふ、待ちわびていてくれたんですか?」
既に草履を脱ぎ上がっていた弁慶が笑顔でそこにいた。
「弁慶!」
それは九郎の見知った弁慶そのままだった。黄銅色の髪を宵闇に揺らす、懐かしい笑顔の弁慶がいた。
「すみません。少し長く出すぎてしまいました。ですがこれからはもう大丈夫ですよ。しばらくゆっくりしていようと思います」
「……弁慶?」
だが、九郎の歓喜は長く続かなかった。荷を抱え、薙刀も抱え、九郎の横をすり抜け自室へ向かう弁慶、それを不審に思わずにはいられなかった。
まず、今まで弁慶が不在を詫びたことはなかった。しばらくはゆっくりしようとか言ったこともなかった。なにより。
「……」
黒衣をすっぽりと頭から被った彼が歩んでゆくのを、九郎は背後からじっと見つめた。そのまま無言でゆっくりと歩く弁慶にあわせてゆっくりとついてゆく。
やがて二人は弁慶の部屋へ入った。御簾の向こうは相変わらずに物が散乱している。
「やはり、ここへ帰ってくると落ちつきますね」
「……」
弁慶は荷を降ろし、薙刀を壁にたてかけ、腰を降ろし、目を細めて懐かしそうに部屋を見回していた。
九郎は何も言わずに弁慶の薙刀を手に取った。
「九郎?」
そしてするすると、刃を覆う布を解いてゆく。
「九郎、人が折角綺麗に結んだものをほどかないでください」
弁慶の声が飛ぶ。口調はさっきまでと一転鋭い。それでも構わず無言でするりと、刃身を晒すと。
「……やはり」
とだけ言って、九郎は薙刀を乱暴に壁に預けて弁慶に向き直った、恐ろしい瞳の強さでこちらを見上げる彼を。だけど構わずに膝つき彼に近づき、片腕をぐい、と、ねじあげた。
「くろ……っ」
途端、怒りに満ちた顔が痛みで歪む。
思った通りだ。ひと目見て分かった。弁慶は繕っていたようだけど、姿勢が崩れていたから腕を痛めているのはお見通しだった。念の為薙刀も確認すれば、刃こぼれしていくらか錆までついている。
九郎は静かに弁慶を見た。
「離してください九郎、人の腕はそんな風に曲がりません」
弁慶はなおも射ぬくように九郎を見上げ、同じ口調で告げる。九郎は無言でそれを離した。弁慶は視線を反らし九郎が掴んだところを痛そうにさする。まるで九郎が悪いかのように。
それでも九郎は黒い頭巾の下の横顔を見る。
「…………」
言いたいことはたくさんあった、山ほどあった、この怪我はなんだと問いつめたかった、薙刀の状態も尋常じゃない、夜盗や武士数人とやりあったくらいじゃこんな状態にはならない、これではまるで戦の後だ、帰ってくるなりしおらしい態度の事だって気になった、なにがすみませんだとか食ってかかりたかった、それにもっと……彼が戻ってきたら話したいことだってたくさんあった。おかえりとか、待っていたぞとか言うつもりだった。源氏の話もしたかった。景時に迷惑かけた話もしたかったし、自分の話もしたかった。彼があんまりにも遅いから、忘れてしまったこともたくさんあるけど、それでも十分に彼に言いたいことがあった。
そんなものが喉元まで出かかった。嬉しいことも、怒りもごちゃまぜで飛びだしそうだった。
だというのに、
「……馬鹿」
黒衣の下から覗く横顔が綺麗だった。久しぶりだからかもしれないけど、こんな風だっただろうかと躊躇うほどに綺麗に見えた。
そうしたら、全ての言葉が消え失せた。
「この大馬鹿が」
消え失せて、感情は嗚咽へ変わった。なんで泣いてるんだ、自分でも思ったが止まらない。
「……もう帰ってこないのかと思った」
そして九郎はへたり、と、座り込んでしまった。
「九郎?」
弁慶の声がこちらを向いた。首をかしげてたのか髪が揺れたのが見えた。たまらなくなって、九郎は顔をあげた。
弁慶は呆然としていた。構わず腕を掴み引き寄せ抱き締めた。ほっとした。彼に触れるのは久しぶりだ、覚えていないほどに久しぶりだ。だけど抱えた暖かさに、首筋に落ちる呼吸に、響く鼓動に九郎はとにかく安堵した。
「そんなに、寂しく思ってくれていたんですか?」
寂しい、それもあった。だけどとにかく……こうなって知るんだ。不安だった。こんなに長くいなかったこともなかったし、風の噂で熊野の別当が代替わりした、とも聞いた。だからこんなにも、こんなにも無事な彼を見ただけで、何かに巻き込まれた風なのにきちんと戻ってきてくれた彼を見ただけで、九郎はもう、胸が詰まって何も言えなくなってしまっていた。
「……心配してくれていたんですか」
「…………そうだ」
「だったら、無理に聞きだせばいいのに。それをしない君は……」
残酷ですね、と、九郎のすぐ耳元で、弁慶がささやく声がした。だけど九郎は首を振る。
「それはしない」
まだ怒るだろうか、とも思いつつ、最早今ここにいてくれるならばなんでも構わない九郎が即答した。そんな彼に、弁慶は意外にも少し拗ねたような声を出す。
「君は冷たい」
「お前こそ、なんでそんなに部下になりたがるんだ? 人の想いを踏みにじって」
やはり間を置かず返すと、腕の中の弁慶がゆっくりとこちらを向いた。
「……君こそ、なんでそんなに、闇雲に、僕を信じるんでしょうね、九郎」
「信じて悪いか」
未だ涙声のまま、彼をぎゅっと抱きしめる。途端、弁慶がふふ、と笑った。
「なんだか、君は僕の事が好きみたいに見える」
「好きだ」
随分と明るい声音だった。だけどやはり、九郎は躊躇わずに頷いた。弁慶はなおも笑う。
「そういう意味じゃなくて、もっと別の意味ですよ、九郎」
「どういう…?」
少しだけ腕を緩め弁慶を見ると、間近で微笑む彼が随分と妖しげに見えて、一瞬身じろいだ。こちらの意志と関係なく吸い込まれ心が絡みとられそうな気がして、慌ててつい身を離すが、
「まんざらでもないですか? だったらそれでもいいかな。そういうことにしましょう」
唐突に、弁慶は九郎に覆いかぶってきた。顔が近づき、九郎は息を飲んだ。眼前で、長い睫毛の奥の瞳が呼ぶように揺れた。さらりと弁慶の髪が鼻先をかすめる。かすかに開いた唇が近づいてきて。
それを九郎は突き飛ばした。
「……それでも、って!」
そのまま押し倒し、逆にのしかかる。
「九郎?」
「……なんでそんな馬鹿なことばかり言うんだ!!」
殴りつけるように叫んだ。
九郎自身、弁慶の事をどう思っているのは未だによく分かっていない。ただ、足りなかった、どうしようもなく足りなかった。夏に入ったあたりから嫌というほど思い知らされた。だけどその感情が恋なのか、と言われれば確証はないままで、なのにとっさに、好きだ、と言ってしまった、そんな自分に彼を罵る資格はないかもしれない。それでも九郎は怒りを抑えられなかった。
だって、全然目が笑っていないんだ、弁慶の目は空虚で、みたことないほど虚ろで、適当で、
「そんなこと言うやつじゃないだろう、お前は」
悔しくて腕が震えた。
唇をわななかせたまま身を起こす。弁慶の手も引き、再び彼をふわりと抱き寄せた。
「……なんでお前がそんなに自棄になってるのか分からないし、なんでこんな怪我をして帰って来たのかも分からない、聞こうともしないし、ついてもいかない、聞きだせもしない。お前が言うとおり、俺は、酷いんだろう」
弁慶も馬鹿だと思ったが、自分のほうがよほど馬鹿で、身勝手だ。それでも、どうしても彼に、彼だけには命じることができない九郎は、
「だけど、だけどずっと、お前を待ってる。変わらずにここにいる。だから……あまり心配させるな」
頼むしかなかった。
「友達だから?」
「…………分からん」
腕が、喉が震えた。触れてはいけないように思えた。もしかしたら本当に、自分で思っていたよりも彼の事が好きなのかもしれない。と、渇望するような心と共に思った。
「……」
弁慶は何も言わなかった。何も言わなかったし、動きもしない。
軽蔑されているのかもしれない。それはすごく苦しいけど、だけど。
「……ふう、本当に君は、つれないですね」
しばらくの後に弁慶は言った。力ない声、だがそれは、穏やかな声で。
「……君がそんなだから、僕は」
そう告げて、ことり、と、頭を九郎の肩に乗せた。
ちらりと垣間見る。彼は九郎じゃない方を見ていたから、表情は分からないけれど、ひどく柔らかな彼の言葉に、九郎もきっと似たような気持ちになって、黙った。
静かに時間は流れて、いつしか気を失うように弁慶は眠っていた。