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「遠い君・前編」


 暑い日が増えると共に、弁慶に会わない日が増えてきた。
 九郎も兄の命で鎌倉の外へ赴く事が多くなったが、弁慶もどこかへ行く回数が増えた。一度にどこかに滞在する日数も増えた。そもそも、ここ最近はすれ違いが当たり前で、たとえどちらかが鎌倉を数日空けることになろうと、出かけてくるという報告すらしあうこともなくなっていた。できなくなっていた。
 それでも弁慶が不在の時には、行き違いのことはあまり気にならなかった。
 弁慶は九郎にとって、京から平泉へ流れた時も兄の挙兵を聞きここ鎌倉へ馳せ参じた時も共にあった大切な、無二の存在だったものの、いつか彼も言った通り、平泉にいた頃から彼は京だの熊野だのと出かけてばかりで、平泉での思い出、といったら泰衡と喧嘩めいた口論をしていた事の方が多い程だったから、共に弁慶を待つ仲間としての金がいないことは寂しく思えど、慣れてしまっていて、最近では彼を待っているのだ、という実感すら分からなくなっていたほどだった。
 だから、彼とのずれを九郎が感じるのは専ら、去りゆく弁慶を見送る時と、なにより彼本人が目の前にいる時分だった。
 一緒にいる時、弁慶は昔と変わらない。相変わらずにこにこしていて、相変わらず他愛のない話をして、いつのまにか九郎が腹をたてていて、弁慶はますます楽しそうに笑う。たまに、旅の途中の話も聞かせてくれる。九郎もあそこへ行った、ここへ行った、などと返す。
 だがそれでも具体的な事を、弁慶が言う事はなかった。
 そう気付くのは常に、ひとしきり話した後、一人床につく時だった。それを何度か繰り返すうちに……確かに弁慶が一人で出かけるのは今に始まった事じゃないが、昔は少なくとも行き先くらいは話してくれた、と、思いあたった。昔は。その事実は九郎に重くのしかかるようで、
すると今度は、いつかの曇り顔がよぎるのだ。九郎が困らせた時に見せた、思い返すだけで胸が千切れそうになるあの姿が。
 そんな弁慶を見たのは何の話をしていた時だったか、九郎はもう思いだせないでいた。忙しい日だったのは記憶にある。話を途中で切り上げて、鎌倉を散々に駆けまわり、帰った時には既に弁慶は鎌倉を離れていて、すっかりと機会を逃してしまったまま……聞けなかった事実と憂う彼しか覚えている。だがそれだけは刻まれて、消えない。離れない。
 こういうのは苦手だ。言いたいことははっきり言って、聞きたいこともはっきり聞くのが九郎の生き方だ。そういうところが弁慶も同じで、だからおそらく、彼と気があったのだと九郎は思っている。
 が、九郎と弁慶で大きく違ったのは、弁慶には言わないと決めたらけして言わないことがいくつか存在する事だった。
 そして今回のこれもそういう事だった。
 だから……分かってるから聞けない。昔はそれでも気になって仕方ない事は問いただして喧嘩をして後から散々泰衡に馬鹿だ無能だと厭味を言われたものだが、もはやそんなことで喧嘩をするわけにもいかない九郎はじっと黙るしかなかった。


 二人揃って鎌倉にいるときは、どちらともなく共に過ごした。同じ家にいるのだから自然にそうなった。そしてその習慣が変わることはなかった。
 ある日。
 二人は隣合わせで書物をめくっていた。九郎は弁慶にすすめられた兵法書を眺めていた。自分は自分の読みたいものを読んでいた。
 最初はそれなりに目を通していた九郎だけど、息が詰まるような時間に、集中力はあっさりと霧散した。彼とゆっくり過ごすのは十数日、いやもっと久しぶりだったから、隣に弁慶がいることが気になって仕方がなかった。弁慶のことが気になって仕方がなかった。
 弁慶の方は、とちらりと盗み見るも、彼はうつぶせに寝転がってすっかりと読みふけっている。いくらいつもの黒い衣を纏っておらず、薄着だからとはいえ、軽く汗ばむ暑さだというのに涼しげで、何食わぬで紙面をめくっている。
 呑気なものだな、と、九郎は思う。あれ以来ずっと自分はこんなに彼のことが気になって仕方ないのに。行き違ってばかりのことも、あの苦しそうな姿も。こちらの気持などお構いなしな弁慶に、次第に九郎は腹立たしさを感じはじめていた。
 とはいえ、だ。一心不乱な弁慶をぼんやり見下ろしながら思う。もし今もう一度、弁慶があんな痛々しい顔を見せたなら、九郎はどうするのだろう。あの日のように慌てる気がするし、困るかもしれない。だがそれでは何の意味もない、またこうしてやきもきする日々を過ごすだけだ。
 そもそも九郎は、彼のそんな姿をもう一度見たいのだろうか……見たいのだろう。あの日の彼に、こんなにも心を揺さぶられている。もう一度確かめなければならないに決まってる。おかしな話だ、親友の悲しい顔を見たいなど、随分酷いことを言うな、と、自分で思った。
 だからとうとう九郎は聞いた。
「……弁慶お前、最近よく出かけてるのは、あれは何かあったからなのか?」
 彼が憂う原因は知らない。見当もつかない。だからとりあえず、九郎が知らないことを聞いてみようと思った。
 弁慶は一拍間をおいてからこちらを見た。さっきまでの無邪気な面は消え、いつものようにはっきりと嫌悪を浮かべていた。
「何か、と言うと?」
「これは、例えばだが……熊野の身内になにかあったとか、京で世話になった人に呼び出されているとか、もしくはお前の事だから、どこかで余計な喧嘩を買ってきたとか」
「喧嘩、ですか。よりによって随分な事を言いますね」
 乱暴に返される言葉に、九郎もむっとする。
「だがお前は平泉でしょっちゅうそんなことしてたじゃないか」
「君ほどではないです。それに、昔の話です」
 弁慶は不愉快そうな顔のまま、身を起こしながら続けた。
「言ったでしょう? 不利益は生まないと」
「そういうことを聞いてるんじゃない。お前が何か面倒な事になってるんじゃないかって話をしてるんだ」
「君には関係ないでしょう? そんな言い方されるいわれはないです」
「俺の方こそ、こんなにもぶっきらぼうに返されるいわれはない!」
 気付けば九郎は叫んでいた……こういう会話をしたかったわけじゃなくて、もっと、違うつもりだったのに、時既に遅い。
「なんだってそんなに口うるさく言いますか」
「親友だからな」
「親友だから言えないこともあります」
「俺に迷惑でもかけるとか言い出すつもりか?」
 なおも苛立ったまま弁慶は続けるけど、今だってこんなに気が気でない。逆効果だ。なのに弁慶は呆れたように言う。
「相変わらず君は呑気ですね。昔とは違うんですよ、僕らも」
「何も違わない」
「それは君が馬鹿だからそう思うだけです」
 冷たく視線で九郎を突き刺す。
「馬鹿はお前だ」
 間髪いれずに九郎も返した。それに弁慶は愉快そうに笑った。
「そもそも君ごときが、僕が色々策略を張り巡らせている、それの手助けをできると思っているんですか? 笑わせる」
「そんなの…分からないだろう」
「口だけならなんとでも言えますからね、九郎。それに……だったら、そんなに聞きたいなら命令すればいいんですよ。ここでは僕は君の軍師。請われれば、いくらでも語りましょう」
 と、正面からこちらを見据え、笑みを浮かべたまま弁慶は告げた。途端、九郎の心が一気に冷える。腹の底にいやな感情が一瞬で満ちる。
「……お前」
 それだけは許せない言葉だった。口論の勢いだとしても許せない言葉だった。
 弁慶と二人鎌倉へ来て以降、鎌倉殿の身内である自分と一緒にいる弁慶を誰もが郎党扱いした。供だと思い、軽んじる。だが九郎はそう言われることを厭んだ。彼は大切な友人だ、と、その度に彼らに言い続けてきたのに、それを知ってる筈なのに!
「俺を侮辱しているのか? そんなことするはずないだろうが」
「だったら君の覚悟もその程度ということですよ九郎」
「覚悟?」
 なのに、なおも弁慶は笑む。
「君が、鎌倉殿の為に身をつくし平和な世を作るという理想のことですよ」
「それとこれとは話が違うだろう」
「同じです、少なくとも、僕にとってはね」
「どういう」
「それも、お話しますよ、命令してくれるなら」
 なんで、なんで弁慶がそんなことを言う。ずっと一緒にいて、九郎がどれだけ兄を、源氏を思っているか知っている癖に!
 全身がわなわなと震えた、暑さなど気にならないほどに。
 対する弁慶は相変わらずに涼しげに、長い髪を揺らして笑った。
「ほら、だから君は卑怯なんだ」
 挑発は続く。だが拳を握り九郎は耐えた。ここで彼に命じれば、自分の矜持が折れる。
「どれだけお前が言おうとも、俺は命令なんてしない」
 彼を友だと思った事を、彼に否定されてたまるか。
 すると、弁慶はわざとらしく肩をすくめた。
「本当、君も言いだしたら頑固ですね」
 にこりと、すっかりといつもの笑顔で、
それはもう、弁慶の中で納得して話を終わらせたという合図。昔からいつだってそうだ。九郎が納得していなくても、意味を理解できていなくても、弁慶は勝手に話を切り上げ終わらせてしまう。
「まだ話は終わってない」
 九郎は切り返す。だけど弁慶はそれに乗ることはなく、
「終わりですよ、だって、命令しないでしょう?」
「当たり前だ」
「では、僕から話すことは何もないです」
と、なんにもなかったかのような振る舞いで、さっきまでしていたようにごろりとうつぶせに寝転がり、
「僕らはいい友人です。それでいいでしょう? 九郎」
と、まとめ、書物に目を落とし始めてしまった。
「……勝手だ」
「そうですね」
「開き直るな」
「事実ですから」
 既に話を聞く耳すら持ってない。いよいよ九郎は腹を立てた。彼が読んでいる本をひったくってやりたかった。
 だけど、耐えた。それは……短気だと評される自分が、また今のように感情のままに口を開いたら、うっかりと、この名をもって命じるような事をやってしまうのではないかと、そう怖れたから、仕方なく無理矢理口を閉ざし、読みかけていた書物を再び膝の上に置く。
「…………勝手だ」
 本当のところ。しつこく言えなかったのは、もうひとつ理由があった。友人、と、彼が言った言葉が驚くほどに胸に刺さっていたからだ。
 弁慶はかけがえのない友人で、九郎にとってもっとも気のおける人間だ。友と言うのはそういうものだろう。
 だが、この前からなんとなく思っていたのだが……、今は、どうにも友と言う言葉が枷になっているようにしか思えない。軍師としてなら話せるのに、友だと駄目だと彼は言う。それはまるで、友人という関係を言い訳にした拒絶のように九郎には感じた。
 それとも、そういうものなんだろうか。自分が……好奇心旺盛で知らないことにすぐ首をつっこみたがる弁慶のように、ただ過剰に知りたがっているだけなのだろうか。自分はそうじゃないと思っていたのに。
「全然進んでないですよ、九郎」
 横からしれっと声が飛んで、ぎくりとした。誰のせいだ。言いかけたけど、先に遮られる。
「君はそういう人間ですからね。今更構いませんけど……ああ、僕、明日からまた出ますから。今度は少し長くなると思います。ふふ、九郎、」
「なんだ」
「聞いておけばよかった、と、言わないでくださいね」
「しつこい」
 一体何がそんなに楽しいのか、弁慶は随分と楽しそうに笑みを浮かべて、また書の世界へ落ちてゆく。明日からはいなくなる。九郎を置き去りにして。
 だが、彼がどこへ行くか口にしないなら、自分もついて行けばいいのだろう。そうすれば簡単だったんだ。共に行ければよかったのに……、
横顔にふとそんな事を思って、今度こそ九郎はぎくりとした。
「俺は何を」
「九郎?」
「いや、なんでも……」
 それは思ってはいけないことだ。それは言葉にしてはいけないことだ。口元を覆い、九郎は飲みこんだ。けれど、
それと共に、
……これは、もしかして、恋なのか?
 思い、再び彼の横顔を見つめた。そこには変哲のない友人の顔がある。静かに書を読む彼はいつもと同じに見えた。違うことといえば、ただ、彼がさっき放った『友人でいましょう』という、その言葉がひどく冷たく心に残って。
 愛おしさなど微塵にも感じない。恋とはこんなに醜いものなのだろうか。痛む心で、九郎は壁に寄りかかり、今度こそ書物に向き直る。最後にちらりと盗み見た弁慶の横顔はやけに美しく映った。




サソ