「隠し事・後編」
あれはいつの事だっただろう。
「弁慶!」
知った声に、庭から屋敷を見上げれば、そこには弁慶と、彼を呼んだ九郎がいた。
「九郎、ああよかった。少し話が……おや、その格好、どうかしたんですか?」
「俺もお前を探していたんだぞ! 兄上の仰せで急に伊豆まで行く事になった。ただ、俺も供の立場でお前は連れては行けんから、留守を預かって貰おうと探していたんだが」
「見つからなかったので、景時に言伝を頼みにきた?」
「そうだ。まさかここで会えるとは思わなかった」
意気揚々言う九郎はまるで戦にでも行くような勇ましさ。実際、身なりも、小手やら脛当てやら装着してて旅装束と言うにはちょっと大げさで、彼の真面目な性格が表れているようだった。
対称的に弁慶はふわりと言った。
「僕も、君を探してここへ来たんですが……奇遇ですね」
「お前も話があったのか?」
「……ええ、そうですね……」
その顔はやや曇りがちで、九郎は不思議そうに首をかしげる。
「急ぎか? だが、今は聞く余裕がない。帰って来てからで構わないか?」
「……そう、ですね、」
「弁慶?」
「いえ……なんでもないです。僕の方でどうにかしておきますから、九郎は気に病むことなく、御役目を果たしてきてください」
「そうか。すまん、では行ってくる!」
「気をつけて」
「ああ!」
結局そう言って、九郎は慌ただしく去っていった。
弁慶はそれをしばらくの間、少し名残惜しそうに見送っていたけれど、やがてゆっくりと、九郎と同じように景時の館から出て行った。
そんなやりとりを偶然盗み見てしまったのは、たしか、丁度一年前の今頃のことだったような気がする。こんな風に梅雨の合間の晴れの日だった。
あの日、弁慶が九郎に何を言いたかったのかは知らない、だけどきっと大切な話をしたかったんじゃないかな、と、景時はその頃から思っている。
九郎を見送った彼の顔は、姿は、それは歯がゆく頼りなく……九郎を追いかけたくて仕方がなかった、そんな風に見えた。
弁慶とはそう親交があったわけじゃないけど、彼が景時に見せる姿は、いつだって、それこそ今さっき九郎に見せていたように綺麗に形作られた笑顔ばかりだったので、ああ、彼もこういう、こちらの胸を打つような、感情的な、もっと言えば苦しい顔も出来るのだなと、見当違いの感想を抱き、なにより見てはいけないものを見てしまった気がしたものだった。
そして、今も。
「引きとめてしまいましたね」
「待て、弁慶お前、」
我ながら、なんでこんなに間が悪い時に九郎を訪ねてしまったのだろう。飛び交う会話を聞きながら、景時は自分の運を恨む。これじゃあまるで間者だ。といっても……それは事実で、そういうことになる、のだけど、だけど望んで覗き見などするつもりはさらさらなかったのに。そもそも去年の方は景時の家での出来事だったのだから、家主である自分が責められる云われはないよね、などと、自分の心に言い訳しても……仕方がない。
とはいえ話の展開的に、今出てくのもすごく、場違いな気がしてしまう。どうしようかな、なんて、いくらか迷ったりしたけれど、結果的に景時に選択権はなかった。
「九郎殿!」
大倉御所から来た兵が九郎を呼ぶ。
「さあ九郎」
「……行ってくる! 帰ってきたらまた聞くからな弁慶!」
会話は唐突に終わり、九郎が去った。そして気配が完全に消え去ると同時に、弁慶が、
「感心しませんね」
と、景時が身を隠していた……隠すことになった部屋に向かって言ったから、観念するしかなかった。しかもなんか、疑われている気がする。
「ぐ、偶然だよ偶然」
「分かってますよ、景時」
しぶしぶ御簾の脇から頭を出すと、弁慶は綺麗な笑顔で笑っていて……本当に怒ってないとは言い切れないけど、それでもなんだかほっとした。
「ごめんね、ほんとに偶然」
とはいえ別に彼らだって聞かれてまずい話をしていた訳じゃないし、景時だって特別なにも聞いていない。
なのにこんなに悪いことをしたつもりになってしまうのは……弁慶が怖いのはある、嘘をつかない九郎に対して悪いことしちゃったなって気持ちもある。
でも多分一番は、弁慶の笑顔の裏に、あの日の、一年前の、随分と悲愴な顔がよぎるからだ。
今もそう。景時は言葉しか聞いていなかったけど……いや、だからこそ辛そうな彼の姿を重ねてしまう。それがなんだか、こう、恋人同士の睦言を聞いてしまったような気まずさを呼び起こすようで、
……と、考えて、内心、本当に内心景時は慌てたけど、
まさかね、
と、結論付けて心の隅に押し込んで、なにもなかったかのようにへらりと続けた。
「弁慶、今日はお休み? 珍しいね、いつもいないから」
「おや、君まで九郎と同じように、僕がどこに行っているのか問い詰めるつもりですか?」
「まっさか〜。偉いな、って思っただけだよ。オレなんて、休みがあれば家に引きこもって干したての布団でごろごろしたり、からくり作って一日過ごしたいからね」
「ふふっ、景時らしいですね」
言葉に、弁慶は笑いを零す。すっかりいつもの彼に見えた。
「僕も似たようなものですよ。むしろ、楽しい休みを過ごすために、日頃から率先して出歩いているだけです」
「というと?」
「薬の材料を持ってきたり、あとは書物などを探したり」
「京や熊野まで?」
「ええ、あちらまで」
「だったら九郎にそう言えばいいんじゃない?」
と、景時が問うと、弁慶は更ににこりと、楽しそうに、とても楽しそうに口元を歪ませた。
「聞いてみたらどうですか?」
「ん、なにがだい?」
「僕が九郎に言いたくない訳、きっと山ほど喋ってくれますから」
「……九郎が? 君が薬師なの知ってるのに、薬を探しに行って怒るの?」
だけど弁慶が笑えば笑うほど、景時は彼から目が離せなくなってしまう。
「そうなんです。不思議ですよね。ですが、九郎に何を言われても、景時まで僕を責めるのはやめてくださいね」
「……なに? なんか、いや〜な予感するんだけど」
「いやだな、きっと君にとっては大したことではないですよ。ふふっ、僕もそろそろ戻ろうかな。薬草を煮ている途中だったんですよ」
そのままに、弁慶は切り上げた。
「あれ、答えはお預けかい?」
「摘んできた草を干す作業、手伝ってくれるんですか?」
「うっ……それは、遠慮しておくよ」
「嫌われちゃいましたね。仕方ないかな……それでは」
「うん、頑張ってね」
そして結局何も教えてくれぬまま、弁慶は楽しそうに髪を揺らしながら去っていった。
いつもの黒衣がゆらゆら揺れる。まるで景時の心にすっかりと積った影のように見えた。
……本当に、掴みどころのない。あっさりとはぐらかされてしまった。とはいえ、最初から教えてくれるとは思ってなかったから、それは構わない。そもそも真相なんて本当のところ、聞きたくない。だけど。
「まったく、弁慶も大変だね〜」
あんな当たり障りのない会話をしながら、繕った笑顔の合間に泣きそうな顔を垣間見せるくらいなら、こんな寂しそうな後ろ姿を見せるくらいなら九郎には話してしまえばいいのに。それができないということは……余程のことをしているのだろう。
それを秘めるのは、あんなにも頑なに感情を消そうとするそれは、強さなのか、それとも、
九郎に仇なすか?
「……親友なんじゃなかったのかい?」
嫌だな、と、思った。つくづく嫌な気分だった。
(19/08/2010)