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「隠し事・前編」


 廊下を足早に歩いていた所で、ふいに呼ばれた。
「九郎」
 声に振り返れば、弁慶が自室からひょっこりと巻物やなにかを抱えたまま顔を出していた。
「弁慶か、どうした?」
「九郎こそどうかしましたか? 随分急いでるみたいですね、足音が随分遠くから聞こえてきましたよ」
「だったら……、」
 呼び止めないでくれ、と思ったものの、確かに行き先はすぐそことはいえ何も言わずに出るのも不義理か、と、九郎は会話を切り上げることをやめ、釣り上げた眉も少し戻してから彼に向き直ることにした。
「……少し出てくる」
「どちらへ? 鎌倉殿が何か?」
「いや、政子さまから使いが来て……」
 だが、再びそこで言葉を濁してしまった。
「九郎?」
 口ごもる九郎を、弁慶は間近で見上げる。静かな目。こちらの思惑などとんと見当もつかない、なんて風に見られれば……己が狭量に思えた。
「……とにかく、兄上のところまで行ってくる」
「そうですか。すぐそこですが、気をつけて」
 にこりと微笑む弁慶はいつもと変わらず穏やかだ。ますます自分ひとりで見当違いな事を考えているような気がして、腹の底が重くなるのを感じる。
 それでも『どちらへ?』と、さらりと問われた言葉は耳に残った。
「九郎、急いでるのではないんですか?」
「あ、ああ……」
 彼の言うとおり行かなければならないのに、急かされたというのに、九郎は歩き出せない。
 聞きたい言葉が浮かんでしまった。
「九郎?」
 だが、今まで何回か、同じ質問をしたことがあって、一度も答えを貰ったことがなかった。だからもう聞かない事にしていた、景時にだってこの前そう言った。
 決めたはずだった。なのに、
「……お前は、普段、どこへ行っているんだ?」
聞いてしまった。堪え性のない、と、自分でも思った。
 そんな九郎に弁慶はふう、と溜息をつく。己の未熟を突きつけられたような気がして、顔が熱くなる。
「言ったでしょう、九郎」
「それは、そうだが」
「……僕は、源氏が勝つために色々と手を打つために、あちこちへ出向いているんです。それは君にも言えない」
「……ああ」
「大丈夫です、君には不利益は生みません」
 弁慶は不機嫌だった。それはそうだ、同じやりとりを何度もしているのだ。
 彼は頻繁に遠出していた。九郎はどこへ行ったんだ、と問うていた。弁慶は教えてくれなかった。九郎はふてくされた。弁慶は嫌な顔をした。そんなやりとりを、何度も、こんな風に。
 余りにも無意味だし、その上、最後には問いかける前より九郎の不満は増すから、その度に九郎はもう行き先を聞くことをやめようと思っていた……なのに今日また繰り返してしまったのは、自分では何も言わないくせに、九郎にはどこへ行くのかと何食わぬ顔で問いかけた彼に少し腹を立ててしまった、そんな器の小ささが原因で、
だから、いつもだったらここで終わるのに、終わらせるのに、つい、
「友人にくらい話していってもいいものだと俺は思うがな」
と口にしてしまってから、しまった、と、思った。案の定、弁慶の眉がさらに釣り上がるのを九郎は目撃した。
「ですから、それも何度も言っているでしょう? 友人だからこそ、言えないこともあるんです、と」
 これもまた、何度も繰り返したやりとりだった。弁慶が更に苛立ちをあらわにする。その理屈じゃ納得できない九郎は言い返す、するとまた弁慶が何か言う。倍返しじゃなく3倍返しの勢いで。
「分かった、もう言わないから、お前ももう黙れ」
「ええ、そうしてください」
 だから、本当は言いたいことなら山ほどあるが、この負けず嫌いに火を一回つけてしまうと厄介だし、それこそ、いつか景時に言ったように、そんな時間があるのなら兄の為に費やすべきだ。素直に折れた。すると弁慶がにこりと笑ったので、この話は今度こそ終わった。
 ほら、煮え切らない気持ちになった。聞かなきゃよかった。と、九郎は自分の短気を珍しく省みながら、大きく息を吐きつつ足を踏み出そうと、片足上げた。
 だけど今日は珍しく、
「そもそも、今更です」
そんな言葉が飛び込んできたから、九郎は再び立ち止まってしまった。
「弁慶?」
 これが小言めいたものだったら九郎は逃げだしていただろう。だが、独り言めいた、ごく小さい呟きだった。だが不安をあおる声音だった。
 首をかしげた九郎に、だけど弁慶はなんでもなく微笑んだ。
「今更だな、って思ったんですよ。僕がどこかへ出かけるのなんて、今にはじまったことじゃないのに」
「それはそうだな」
 多少腑に落ちなかったものの、彼の言う事は実際その通りだったので、とりあえず同意すると、彼は嬉しそうに肩を揺らし笑った。
「ふふっ、ね、だからいつも通りなんですよ、九郎。君が僕のことを気にかけてくれるのは嬉しいですけどね」
「それは当然だろう」
「そうですか?」
「お前だって、今俺がどこに行くか聞いていただろう」
「ああ、そういえばそうだ。それで君は、つまらなさそうにしていたんですね。僕ばかり聞くものだから」
「う、うるさい!」
 弁慶は更に楽しそうに笑った。光を吸いこむような色の外套の下で、それを奪ったかのような色の髪が揺れる。
「そんなに笑うな」
 九郎は再びむっとしながら彼を見た。だが次第に、心が影に覆われる。
 確かに彼の言うとおり、今更だ。出会って10年近い間弁慶はずっとこの調子なのに。
 いつからだろう、こんなに弁慶の行き先が気になるようになったのは。少なくとも鎌倉に来た頃は、違っていた。
「今、源氏にとっては大事な時期ですからね。お役目に追われて少し気が張っているのかもしれないですね、君は」
「そうかもしれない」
「駄目ですよ、僕のことにばかり気をとられては。君は鎌倉殿の弟君で、御家人なんですから」
「……」
 そもそも九郎だって、別に弁慶が何をしているのか知りたいわけではなかった。ただ、九郎は当たり前に行き先を告げ、当たり前に彼のことを気にかけるのに……弁慶からすればそうでもなく、九郎が気落ちしているのを知っていてもなお、何も言ってくれない、というのが、少し、寂しいなどと、
思うのはやはり、最近慌ただしいせいかもしれない。だったら一層励まなければならない。
 言い聞かせて、顔をあげる。けど、
「困ったな、そんな顔しないでください、九郎」
かちあった瞳は唐突で、またも虚をつかれた。
「こんな時、君をどうやってなぐさめていたのか、すっかり忘れてしまったというのに」
 息が止まった。さっきまで一人で上機嫌だった筈の彼の目はいつのまにか憂いを帯びていた、声音は沈んでいた。九郎は止まった。
「……弁慶?」
 そして取り乱す。だってそんな彼を、随分久しく見た記憶が無い。
 そんな顔をさせたつもりはなかった。また己は余計なことを言ったのだろうか、いや、それはいい、それよりも、どうしてそんな苦しそうに、
「どういう意味だ」
「引きとめてしまいましたね」
思えど、全てはほんの刹那だった。ほんの一瞬の後、弁慶の表情はするりと入れ替わり、まるでなにもなかったかのように、いつもの微笑みで軽やかに告げる。全ては九郎の勘違いだったんじゃないかと思うほどに自然な姿、だが九郎は覚えている。
「待て、弁慶お前、」
 思うより先に言葉を紡いだ。掴もうと、闇雲に手を伸ばす、弁慶の目が微かに開いて一歩、後ろへ下がった。衣が影のごとく尾を引き、九郎の手は宙を切る、挙句、まるで見計らったかのように背後で呼ばれた。
「九郎殿、お急ぎください!」
 見ると、門で待たせておいた筈の使者がいた。いつまでも現れない九郎を呼びに来たのだろう……もう少しくらい待っていても構わないだろうに!
「さあ、九郎」
 弁慶は再びいつも通りに笑っていた。忌々しく思いながらも、
「……行ってくる! 帰ってきたらまた聞くからな弁慶!」
と、捨て台詞のように叫んで、待たせていた使者の方へと走り去った。
 一度だけ振り返った。けれどその時には随分と距離があいていたから、既に彼の表情は曖昧で九郎にははっきりと読み取ることはできなかった。




サソ