次の日。
昨日あれから顔を合わせなかった九郎は、六条堀川の屋敷からまっすぐに佐々木殿の邸へ向かうと言って出て行った。
彼が郎党を数人連れて出ていったのを見送ってから、弁慶も一人、忍ぶように屋敷を後にする。
途中、書物や薬の材料を譲って貰いながら、くるくると京の街をめぐりめぐったあと、最後に向かったのは街はずれ。
弁慶は今日もそこで待ち人を待つ。
街道沿いではないとはいえ、どこかへ向かう人の中立ち尽くしていれば随分と目立つが、路地に入ってしまえばそうでもない。おあつらえ向きに転がっていた木箱に腰を降ろし、ぱらぱらと街で手に入れたばかりの書物をめくる。風が通り抜けて、何度か外套がふわりと頭から落ちれば、そのたびかぶりなおした。
その最中、ふと空を見上げれば、家々に切り取られた細長い青をふわふわと通り抜ける白が随分と風流で……それを楽しむ心の余裕はなかったけれど、形を変える姿を見るのは時間潰しには最適だった。
そのまま日が暮れるまで弁慶はそこにいた。
なのに、待ち人はやはり今日も来なかった。
昼間に集めた荷を抱え、弁慶が景時の屋敷へ着いたのは大体昨日と同じ時刻だっただろう、けれど今日は空が高い。遠く、遠く、途方もない空だ。見上げていると気が滅入るようで、やめた。
ついでに昨日の景時の屋敷での諍いを思い出して……追いうちの様に正面から強い風が吹き、ふわりと外套を、紅葉混じりのそれに押され、足取りまで重くなる。けれど今立ち止まってしまったらもうしばらく歩けないような気がしたから、無理矢理歩いて、今日は溜息を落とす間も自らに与えずに、肩に乗った葉を払い落しながら門をくぐった。
「お邪魔します」
と、舎人に挨拶をしながら中へ入り、八葉たちがいつも過ごしているあたりへ向かうと、彼らに交じって、数日ぶりに耳にする声が聞こえてくる。
「こんばんは、望美さん、景時。……それに、将臣くんですか」
「ああ、久しぶりだな。また世話になる、って、あんたに言う言葉じゃねえな」
「そうですね。僕は君の世話はお断りかな。……ところで用事は終わったんですか?」
「いや、小休止ってところだ」
八葉であるはずだけれど、世話になった人の元を離れるわけにはいかない、という将臣は、夏の熊野でそうだったように、今ここ京でもはやり、唐突にふらりと消える事が多い。それが気にかかるらしい譲は、
「もう、兄さんはすぐいなくなる癖、直せよな」
と、責めるように言うが、それで反省する将臣ではない。
「いいだろ、2、3日くらい」
「将臣殿は相変わらずね」
「朔、それこそこんなちょっとの間で将臣くんがまともになっちゃったら、私たちがびっくりしちゃうよ」
「だな」
「自分で言うなよ」
「でも、八葉がそろって私は嬉しい」
「うむ」
昨日は出ていたリズヴァーンもいて、今日はますますにぎやかだ。
そんな、すっかり輪の中心の将臣が、今度は弁慶に問いかけてきた。
「で、あんたは今日は別行動だったのか?」
「ええ、そうですね、僕もこれでも薬師ですから、色々忙しくて」
「薬師ですから、ねえ」
将臣はどこか訝しげだ。気に障ったが、彼に律義に応える義理はない。だから無視して、きょろきょろと姿を探すが……見当たらない。
「弁慶、どうかした? 少し気が乱れてるように思う」
「いえ、なんでもないですよ白龍……景時、九郎は?」
心配してくれた白龍に笑顔も向けずに景時に問うと、
「ん? え〜っとね、九郎なら向こうにいるけど……って弁慶!」
その視線から、九郎は部屋の向こうに置かれた衝立の影にいるようだった。
礼も言わず、ましてや肩を掴まれたが振り切ってそちらに向かう。
「弁慶さん?」
「いやいやいや、ちょっと待った方がいいかもしれ」
「九郎! ……失礼しますよ」
望美までもが驚いた声を上げたが、彼女たちの横を横切り衝立を覗くと、九郎はそこで机に頬杖ついてぼんやりと庭を眺めているようだった。
無表情で。そんな彼を見て、なんだかとても泣きたいような気分になったが、ただばっさりと問うべき言葉を投げかける。
「どうでしたか?」
対する九郎は、そこでようやく、彼にしては億劫に視線を弁慶へ上げたあと、
「……怨霊はいた」
と、感情ない声で言った。
弁慶は更に追及する、
「それで?」
「望美に頼んで封印してもらった」
「佐々木殿は?」
「……佐々木殿は、別人のように憔悴しておられた。悲しみに耐えきれず京へ連れ帰ろうとしたこと、その道中で怨霊化してしかったことを悔いて悔いて、けれど自分では手を下せなくて、追いつめられておられた」
「……だから許すと?」
淡々と問う。
するとそこでようやく、九郎の瞳が揺らめいた。
「……ああ、そうだ。わざわざ騒ぎ立てる方が、源氏にとっては不利益だ」
が、対称的に弁慶の心は冷えるよう。
あまりにも予想通りの展開だったからだ。溜息がこぼれた。ゆらりと揺れた外套を握り、切り返す。
「では、今後同じことが起こることを君は許容するというんですか、そのたびに、身内が怨霊と化してしまった可哀想な御家人を、望美さんに引き合わせるつもりですか、そのたびに封印させるつもりですか」
けれど九郎も、座したままなれど、きっぱりと言った。
「それは違う。その前に、皆に強く言う必要がある。平家も源氏も関係なく怨霊になると、きちんと知らさなければならない」
「それで本当に効果があると?」
「試してもないのに兄上の御家人を疑うのか?」
「ええ、九郎がこんなにも愚かだから、僕が疑うしかないでしょう?」
「弁慶!」
ついに九郎がばん、と卓を両手で打ちながら立ち上がった。突然の音に、朔が短い悲鳴をあげるが構うことなく、
「君は」
なおも紡いだところで、
「弁慶さんもうやめて」
思い切り、それこそ弁慶の言葉ほどに容赦なく腕を引かれた。振り返ると、望美が真剣な顔で見上げていた。それこそ怨霊と対峙する時と同じ見幕で、気押された。
「望美さん」
その隙に、九郎が弁慶たちの横を通り抜け、庭に降りる。
「九郎さん」
「九郎!」
望美が、景時が彼を呼ぶも、振り返ることはなく彼は屋敷の影へと消えていった。
すれ違った時、ちらりと垣間見えたその顔に浮かんでいたのは怒りではなく……落胆だった。途端、さっきまで、あんなに九郎に対して苛立っていた感情が、すうっと消える。
覚める。まるであっさりと、くすぶりすらも残さずに。むしろ、かわりに空虚さえ感じる程に。
「……さすがに、今のは言いすぎじゃないかな〜」
ゆえに、九郎のいなくなったあたりを見ていた景時が、振り返りながら言ったそれは正論で、追い打ちだった。けれど弁慶は腕を組み、首を横に振る。
「そうでしょうか。将としては時に選ばなければならぬこともある、でしょう?」
「でもさ〜」
けれど認めはしても、譲れない。だってあまりにも今更だ……今更、そう昨日だけでなく、宇治川からずっと望美がそうしていたように、九郎の背を押すような優しい言葉をかけるなど、
思っていたら、
いきなり明るい色彩が目に飛び込んできた。否、向けられた。
ぐい、と外套の襟元を横に引かれた。さっきまで弁慶の腕を掴んでいた神子の手が、いつのまにか襟元にあって、
「弁慶さんこそ知らないくせに」
桃の髪をしゃらりと揺らしながら神子姫が鋭く見上げていた。
「九郎さんが私に頼みに来た時の顔、怨霊を封印した時の顔、その後ずっと思い悩んでいたことだって知らないくせに」
纏う色彩とは裏腹な程に、まるで月光の白の如き清冷ささえ感じる目。それに弁慶は言葉を奪われた。望美は続ける。
「それに、お見通しなんだから」
「……なにがですか?」
「弁慶さんがそう言う顔する時、確かに正論なんですけど、だいたい無茶苦茶な正論なんです」
可憐な声は故に切り味も鋭い。あっさりと言い放ち、そして、
「余計なことを背負いこんでる顔なんです」
どん、と弁慶の肩を突き飛ばした。
どうやら神子姫は、本気でご立腹のご様子。
「今すぐ追いかけて、九郎さんに謝ってきてください」
「たとえ君の言う事でも…」
それでも食い下がろうと思ったが、
「いいから行く」
有無を言わせぬ一言で……結局ふう、と息を吐いてしまった。
「……全く、君には敵いませんね」
本当、敵わない。弁慶は苦々しく笑むしかなかった。
九郎だけじゃなく、弁慶の心までもあっさりと流転させてしまう。こんなに真剣に怒られてしまったら……それでも弁慶には、たとえ彼女を傷つけようと、引けないことがたくさんあるだろうけれど、
今は彼女を怒らせるには幾許か、くだらない。
「分かりました。行ってきます」
「はい!」
言うと、満面の笑みで神子は返した。
弁慶も好むその笑顔。けれど同時に、憧憬めいた感情を抱いてしまう。
昨日景時が言っていた通り、入京したころの九郎といえば、緊張と焦りしか持ち合わせていなかったものだから、それはそれは刺々しかった。というのに、いつしか将としても堂に入ってきたし、それこそ八葉からは兄のようにも慕われはじめている。それは見守ってきた形の弁慶とすれば、とても喜ばしいことだったけれど……彼にそんな風に自信を与えたのは、慣れでも、年下の者たちをまとめなければならぬという責任感でも、歴戦を勝ち抜いてきたからでも、ましてや弁慶でもない。
すべては、宇治川に突如舞い降りた天女たる神子姫が彼の背を押し、迷いを消し去り続けてきたためだ。
彼女の言葉は時に厳しいが、それでも優しく、暖かい。その真似は誰にもできない、だからそう……元は友人として、今は軍師として厳しいことばかり言っていた弁慶には今更到底真似できないことだというのに。
人にはそれぞれに役割があると割り切ってきたつもりだったのに。
「僕も九郎のことは言えないな」
羨ましい。言葉は寒さに耐えきれぬ紅橙の葉のように心に落ちた。
それこそ……誰かが自分の代わりに九郎を見守ってくれるなら、まさに願ってもない話だというのに。
それはさておき。
さあ一体どういう顔で彼に会おうか? 望美に言われ景時の所を出たはいいものの、思いは定まらず、なのにこういう時ばかり両邸の距離は近くて、結局決めあぐねている間に、弁慶は六条堀川まで帰ってきてしまった。
丁度夕餉の終わる頃合いで、屋敷の中は賑やかだった。弁慶も誘われたが、笑顔だけ向けてするすると通り抜ける。
九郎もそこにはいなかった。どこにいるのか見当つかなかったが、郎党の一人が部屋にいると言っていたので、そちらに向かうことにした。
さて、一体九郎はどうしているだろう。思いながら、
「九郎、入りますよ」
と、板戸をずらし中に入ると、なんてことなく、九郎はけろりとした顔で小さな机に向かっていた。
「……弁慶? どうした、なにか起きたのか?」
挙句、さっきまでとは裏腹にぽかんとした顔でこちらなど見上げてなどいる。それには弁慶も面食らうしかなかった。
「いえ……言いすぎたかと思って追いかけてきたんですが、落ち込んでないんですね」
「ああ……」
言うと、さすがに九郎も一度、ちらりと気まずそうに視線を反らしはしたが、すぐにごく当たり前の事を言うような顔に戻って、
「……お前の言う事は正論だったからな」
と、さっぱりと言った。
「迷っていたんだが、お前の言葉で決心がついた。やはり、佐々木殿をこのままにしておくのはいけないだろう。……だがその沙汰を俺が下すのは、違うだろう。だから、兄上に書状を書きお伺いを立てる事にした」
「九郎……」
「その、さっきは怒って悪かった。それに、ありがとう。お前にはいつも迷惑をかけてばかりで、不甲斐ない」
その上、謝罪と共に、苦々しくはあれど向けられたのは笑顔。
「……」
そんな風にされてしまえば、返す言葉がない。弁慶は戸惑ったまま、ひとまず彼の隣に腰を降ろした。なるほど、机を見れば書きかけの文が広がっていた。九郎は再び筆を手にし、さらさらと続きを書き始める。
それを無言で見つめる。見つめながら、思う。
……九郎はいつだってそうだ。あんなに酷い言い方で、理不尽でさえあったというのに、あっさりと受け止めてしまう。
そういうところは彼の美徳だし、望美も似たようなところがある。自分も倣うべきかもしれない、と時に思う。僕もすみませんでした、と、さらりと言えばいいのだと。
けれどそんな風に、素直に言葉を紡ぐ術など忘れてしまった。……そんな自分が、九郎に優しい事でも言いたいと思うなど、そもそも最初から無理ということだったんだろう。
(よく頑張りましたね)
浮かんだ言葉も即座に泡と帰す。
それでも……台詞の代わりの溜息を零さなかったのは、九郎があまりにも一心不乱に書いていたからだ。弁慶の事など気にも留めずに紙面に集中し、改めて筆を進めてていて、止めたくなかっただけだ。
かわりに覗きこむ。九郎の文字はまっすぐで、それを見ているのが以前から好きだった。真剣な九郎につられるように、心が落ち着いてゆくのを感じる。
九郎はそのまま一気に書き上げた。そして、筆を置いたところで、思い出したように弁慶を見た。
「しかし、一体どうしたんだ? 正直、お前が追いかけてくるとは思わなかった」
やはり言われ、ああそういえば説明してなかったな、と思いだす。弁慶は苦笑しながら白状した。
「実は望美さんが追いかけるようにって」
「望美が?」
「ええ。君の事を心配していましたよ。全く、望美さんはすっかり君の保護者ですね」
「!」
言えば、九郎は刹那、照れたように言葉を詰まらせたけれど、すぐに
「兄弟子として返す言葉もないな」
と、穏やかに笑う。嬉しそうなそれは、庭で望美たちを見ていた時と同じで…そんな九郎たちを見ていた景時さながらで幸せそうで、
「本当に……君はすっかり、兄弟子ですよ」
何気なく呟いたというのに、思いの他、低く出た。
「弁慶?」
自分でも驚いてしまったけれど、とっさに何事もなかったかのように微笑みを返す。
「ふふ、僕としては、君の保護者が増えて頼もしい限りですよ、景時さんや敦盛くんもいるし。ヒノエにまで言い負かされているのは問題ですが」
そしていつもの九郎だったら、馬鹿にするなと怒るだろう事をからかうように口にした。
なのに九郎は、
「ああ、皆心強い仲間たちだな」
と、実に穏やかな、それこそ兄のような顔をして微笑んだから、弁慶は首をかしげる。
「?」
「なに、これだけおせっかい焼きが周りにいれば、お前も無茶しないだろう」
「僕のことですか?」
「俺より余程無茶するだろう、お前は」
まさか、いきなり自分に話が来るとは思っていなかったから、弁慶は驚いて、……そう、まるで見透かされたのかと驚いて、言葉を失う。
「いつまで昔の話を引きずるんですか」
「いつまでも、だな。だってお前はちっとも変っていないだろう? 突然、突拍子もないことをするからな。全く、目が離せない」
挙句、他愛のない、冗談まじりのような言葉だったというのに、それが随分と心に染みてしまって、今度こそ言い返せない。
「……なんだ、どうした? 具合でも悪いか?」
「いえ、ちょっと、さっき望美さんに掴まれたところがちょっと」
「望美は怒らせると怖いからな。……ん、そろそろ乾いたか?」
笑えば、九郎も笑い、こちらに気付くことなく、文をぱたぱたと仰ぎ、丁寧にたたみ始めた。
そんな事にも真剣な彼を見ていれば、どうしてだろう、胸が痛む。無性にかき乱される。弁慶は黒の衣をぐいと引き寄せ握りしめた。そのまま堪えるように、九郎が綺麗に書状をたたみ終え、最終的にそれを弁慶に手渡すまで、弁慶は彼を見つめるしかできなかった。
受け取った書状は直ぐに雑兵に手渡した。同時に弁慶もそこを離れ、なんだか今日の夕暮れと同じようにゆらゆらと自分の部屋へ戻って眠った。