九郎とのそれは、至ってなんでもない会話だった。なのにどうして言葉を詰まらせるほどに弁慶は動揺してしまったのか。
それはもしかしたら九郎の『目が離せない』という台詞が実際に的を得ていたからかもしれなかった。
彼には秘密裏にしていたが、九郎がここ一年、源氏の将として、鎌倉殿の名代として京でさまざまに追われている間、弁慶は薬師の用だと偽って……それこそ昔さながらに暗躍していた。
どうしても清盛を叩きたかった。しかも、できるだけ被害を押さえて。それには源氏に頼るわけにはいかず……本当は熊野水軍を頼れれば一番良かった。あの機動力が欲しかった。けれど兄は完全に隠居しているし、代替わりした別当は弁慶の事を嫌っている。あまりにも無理なことは最初から分かっていた。
ならば、この身を裂くしかない。自分の名を出せば、清盛を釣ることなど、きっと簡単なのだから。そう思い、平家に裏切る算段を立てていた。
けれど。
その翌日は、本当ならば八葉皆で紅葉を見に行く予定だった。
きっかけは望美が京の紅葉を見てみたい、というささやかな呟き。ほんの日常会話の一幕でしかなかった言葉。けれど彼女を愛してやまない八葉からすれば、それは神託に等しくて、どこへ行こうか、いつ行こうか、などの具体的な計画は瞬く間に組み上がってしまった。
それに合わせて九郎も景時も調整をしていたし、おそらく将臣が今帰ってきたのもそういう理由だったのだろう。
勿論弁慶も、彼女のお伴として晩秋の景色を楽しむつもりだった。けれど……それは叶わない。昨日も一昨日も来なかった待ち人を、今日も一人待たねばならない。
ゆえに早朝、まだ皆が寝静まっているような頃合いに弁慶は屋敷を後にした。九郎にも言わず、途中梶原の家によって伝言は残してきたが、具体的な用件は告げずに京と福原の境界へ向かった。
結果として、弁慶の放った間者が来ることはなかった。
ただ……正午を回る少し前だろうか、見知らぬ男が一人、近づいてきた。
「……どうかされましたか?」
源氏の手のものではない様子、ならば患者だろうか? 薬師を装って柔らかに弁慶は問う。すると男はずい、と書状を突然差し出してきた。反射的に薙刀を掴み後ろに飛びのくも、男は言った。
「余計な血を流すことは還内府殿の望みではない」
還内府。その名に弁慶は目を見張る。
「……」
無言で探る、けれど相手も黙ったままだったので、仕方なく弁慶は書状を受け取り、開いた。
一体何が、思ったけれど、中身は拍子抜けするほど短かった。
『思惑はなんとなく理解するが、和議を反古にされた今、最早手を組むつもりはない。それにこちらは頼朝だけでなく九郎義経の首も狙っている。残念ながらお前とは相容れない』
昨日九郎がしたためていたものの半分にも満たない、形式もない中身。だというのにそれはあまりにも……あまりにも、弁慶の思惑を砕くには十分すぎて、かつ、なにより的確で。
「そうですか」
ああ。万策尽きた。衝動的に、ぐしゃりとそれを握りつぶした。
その後、弁慶は何をしていたか、自分でも定かではない。ただ、気付いたら桂川のほとりで寝ころんでいた。闇が落ちて何も見えなくなったことで我に返った。
それでもなお帰りたい気分ではなかったが、ここにいてもどうにもならないし、冷えてきたから火が欲しい、と、単純に思って、弁慶はよろよろと立ちあがった。
だから、六条堀川に辿りついた時にはすっかりと夜になっていた。寝静まるには早い時間ではあったけれど、人の歩く時刻ではない。闇と静寂の中、黒の衣にすっぽりと包まれた弁慶は、とぼとぼと門をくぐり、しずしずと自室へ向かって行った。
部屋の中は当然に寒く、その上暗くて何も見えない。いつもの習慣だけで燭台近くに腰を降ろし、火打石に手を伸ばす、その矢先、
「遅かったな」
闇の中から声がして、驚いてがたりと石を落としてしまった。
「九郎」
「……なんでそんなに驚く? お前ならこれくらい気付くだろう」
顔は見えないし姿も未だ捕えられないが、多分彼は廊下の方にいて、呆れているような気配がした。その上当然のような言葉に……確かにこれが九郎でなかったら問題だったかもしれないが、弁慶はむっとする。
「君ここんな暗いところでどうしたんですか?」
「お前を待ちながら星を見てただけだ」
「僕を?」
「朝早くから出かけたんだろう? 一体どうしたんだ、こっちは大変なことがあったのに」
「大変というと?」
「怨霊を生み出していたのは平惟盛だったんだ……と、それはいい、先にお前の話を聞きたい。随分こそこそと出ていったと聞いたぞ」
「なんでも」
ないです、と拒絶しようとした言葉は、九郎の直線めいた言葉に阻まれる。
「そういう言い方はないだろう」
「……そうですね、すみませんでした。でもなんてことはなく、ちょっと平家に放っていたものに会いに行ってきたんですよ」
「ああ……そうか」
言いなおしたと同じように、改めて火打石を打つ。ぼう、と油に火が灯り、部屋の中が明るくなった。
これで九郎の顔も見える。と、振り返ったら、九郎は立ち上がっていた。
「……なにか、もっと大事な用でもあったのかと思ったが、邪魔したな」
待っていた、と言った割にあっさりと、九郎は何事もなく告げると、そのまま部屋を出ていこうとした……けれど、
「九郎」
何故か、それを呼びとめてしまった。
一切の用はなかった。むしろ、今日の弁慶の行動を考えれば、話が長引くほど弁慶にとって全くいいことがないというのに。
そんな弁慶に、九郎は無言で振り返った。いつもの顔だ。ここ最近よく見る、弁慶が厳しいことを言った時の顔。
それを見たらますます言葉に詰まった。
「用があるんじゃないのか?」
「ええ。……望美さんはどうしていましたか?」
「残念そうにしてたが、そういう用なら分かってくれるだろう。明日ちゃんと説明しておけ」
「そうですね」
過ぎてしまった事だし、弁慶にできることといえば、それくらいしかないのだが……九郎ごしに庭を見れば、紅葉は刻一刻と終わりに近づいている。あと何日持つだろう。
「……申しわけないことをしましたね」
ふと、零した。
「源氏の用だ。だったら、俺も悪い」
「そうでした。忘れてください」
九郎は静かに返すから、弁慶も力なく笑った。
けれどそう、いつもだったら割り切れるのに、罪悪感を感じるのは源氏ではなく、自分ひとりの身勝手な用件だったからかもしれない。考えが全くまとまらない。けれど今度こそ弁慶はにこりと微笑んで、
「引きとめてすみませんでした。今度こそお休みなさい、九郎」
そんな彼を、九郎は少し複雑に弁慶を眺めていたが、
「……ああ」
困惑しながらも、再びくるりと踵を返し、廊下に足を踏み出した。
というのに、くるりと三度、長い髪を翻し、弁慶の前へ戻ってきた。
「九郎、もう僕は」
意識が更に揺れる、これ以上、まともに話せる自信がない弁慶は拒絶の言葉を強めに紡ぐ。けれどそんな彼などお構いなしに、九郎は唐突に、とんでもなく神妙な面持ちで言った。
「紅葉を見よう」
それはあまりに真剣で、だからこそ、弁慶は聞き返してしまった。
「……は?」
「いいから」
なのにこちらの言う事は聞かず、九郎は弁慶の手を掴んでぐいぐいと引っ張る。
「外までは行けないが、ここならいいだろう」
やってきたのは濡れ縁だった。円座が敷いてあるから、多分さっきまで彼はここにいたんだろう。九郎は床に腰を降ろすとやはり、強引に弁慶の手も下に引く。仕方ないから、弁慶も並ぶように円座の上に足を投げ出し座る。
「……望美さんが楽しみにしてるんでしょう? 譲くんも、敦盛くんも。なのに僕たちだけで見るのも」
「それはそうだが、明日はヒノエがいない。明後日は景時だ。そのうちまた俺も用ができるだろう。八葉揃って見るのは、おそらく叶わん」
だったら今のうちに二人で、とでもいうのだろうか? 隣の九郎はそれ以降黙ってただ庭木を見上げていた。仕方なく、弁慶もそれに倣う。
夜闇に楓の赤は深く沈む。下弦の月はまだ昇らず、星の瞬きだけでは庭を照らしきれない。桜と違って、夜見るものではない。そもそも、そういう気分ですらなかった。
黙っていると、どんどんと気が滅入ってゆく。昼間と同じだ、一体なにをしているのか分からなくなってきて、溜息さえ落としそうになったところで、
「望美が」
けれど、唐突に九郎が言った。
「昨日、言ったんだろう? 謝るなら早くしろと」
「……ええ」
突然の言葉に、ささやかに驚きながら弁慶は視線を彼へ移す。九郎は紅葉を見たまま何か考えているような顔をしていたが、問いかけた。
「なにか僕に謝ることでもしたんですか?」
「していない。だが、どうにも謝らなければならん気がした」
「……」
九郎は少し困っているようだが、そんな事を言われたら弁慶はもっと困る。困って、沈む。気持ちが落ちて、視線も落ちる。けれど、
「分からないのに謝られても迷惑です」
「ということは、やはり俺がお前を苛立たせていたのか?」
「……?」
「なにか気落ちしているように見える」
それには驚いて、弁慶は目を見開いた。見上げると、九郎は真摯な目でこちらをみていた。それは九郎にしたらごくありふれた、よく見る表情だったというのに、
「別に僕は……」
そういう姿を向けられて気付くのだ。
「…………」
九郎は結局のところ呑気で、弁慶が何を言ってもすぐ騙されて鵜呑みにして、あっさりと信じる癖に、
なのに同時に九郎の目はいつだってまっすぐで綺麗で、時として鋭いものだから。
……悟られない方が都合がよかった筈なのに、
なのに、それが寂しかったんだ、自分は。
「……ああ」
「?」
弁慶はくすくすと笑った。
そうか、自分も混ざりたかったんだ。
本来ならば、弁慶はもうすぐ平家へ行ってしまう予定だったのだから、九郎が望美や譲、敦盛に兄のように接しているのは弁慶からしたら喜ばしいはずの事だった。なのに兄弟子のような彼を見ていて弁慶は確かに苛立っていた。九郎をそう変えた望美のように、優しい言葉を告げて、もっと、いっそ彼を甘やかしてしまいたいとすら思っていた。
……というのは、本心のほんの一面でしかなかった、ということか。
「なんだか、肩の荷が下りたんでしょうね」
声を零し笑わずにはいられなかった。当然分からぬ九郎は首をかしげる。
「いきなり何を言ってるんだ?」
「ふふっ、色々あったんですよ……色々」
けれど彼にはそれだけ返し、ごろんと膝を投げだしたまま、弁慶は寝転がった。
いつかの空を思い出した。白き雲たなびく空。すべては慈悲深き龍神様のお導き、というものなのだろうか。
困ったな、と、改めて思った。
全く。平家の内側から壊す策が見破られた程度で、本来なら諦めてる場合じゃないのだろうに、今はもう、そんな事がどうでもいいくらい、弁慶はおかしくて仕方がない。
そもそも最初に気付くべきだったんだ。優しいことを言いたい、なんて思う事自体、それはとうに何かずれていたんだと。
結局。
弁慶は九郎を甘やかしたかったんじゃない、甘えたかったんだ。
望美が九郎に、ではなく、九郎が望美や八葉にばかり優しいからちょっと妬いていた。自分の企みが上手くいかなくて落ち込んでいても、気付きもしてくれないし、そもそも、企み自体に感づきもしない。多分、そんな彼に、少し苛立っていたのだろう。ついでに、自分の策も上手くいかなくて、更に不愉快上乗せだったのだろう。だから少しきつめの言葉も出てしまった……今までずっと九郎に対してそうしてきた弁慶でさえ、反省してしまう程に強い言葉が。
ゆえに今、こんな風に九郎が気にかけ、心配してくれたことがとんでもなく嬉しい。
とはいえ。
「お前の話は意味が分からないが、楽しそうならよかったな」
さっきから眉間にしわ寄せっぱなしの九郎を、弁慶は改めて見上げる。
「ええ、楽しいです、でもちょっと困ってます」
「やはりふさぎこんでいたのか」
「そうですね、君の言う通りなんですよ」
「?」
むしろ問題はこれからだった。本当、全部九郎のせいだ。
だって、ひどい。あまりにひどい。まさか今更、今までただの九郎だと思っていた彼に、年下で自分が厳しいことを言わないと不安だと思っていた九郎に、こんな風に思ってしまうなんて。
「僕はちょっと、君に謝って欲しい、というか、責任とって欲しいです」
「……わかった」
つい糾弾するかのような口調で言ってしまうと、口調だけは神妙に九郎は言った。でも絶対何も分かってない。だからわざと頬を膨らませ、睨み返す。
「無責任」
「そんなことはない!」
「責任とるって言葉の意味分かってるんですか?」
「勿論だ」
「じゃあ」
当然、怒ったふりなど誘導だ、目を細め、悪戯に微笑む弁慶を見、九郎がぎくり、としたけれど今更だ。もはや晴々を通りこして潔いまでにご機嫌で、本領発揮な弁慶は、口を挟む隙さえ与えず、弁慶は起き上がり、下からずい、と顔を近づけた後、問答無用で九郎の唇をさらりと奪った。
「!?」
驚いた九郎は今度こそ後退り、言葉を失い口を覆っていた。
「な、な、な、なんなんだ突然」
「ああ、すみません九郎、だけど僕、事前にちゃんと聞きましたよ? それに」
そんな彼に、微笑んで、形だけの謝罪をした後、
「誰かを待つのは、もう飽きました」
慌てる様などお構いなしに、逃げた彼の片膝を奪い、頭を乗せて陣取った。
「お前は……」
「ふふっ」
「…………」
困ったような、呆れたような声を受けながら、そのまま勝手に庭を眺める。
闇の中、かすかな灯りを受けて、柿の葉がひらり一葉、舞い落ちる。積み重なる。庭が九郎色に染まってゆく。それすら楽しくて笑ってしまうと、頭上で九郎がもはや我慢ならんと言いたげに静寂を裂いた。
「……だから俺は言った」
「何を?」
「だからお前からは目が離せないと言った!」
言う彼の顔さえも、きっと楓のように赤いのだろう。見なくても分かるようで、くすくすと笑った。
龍脈の話はできるだけ出したくないなあと思いつつ絡んでしまったけどちょっとだからいいことにした
ここに書いてもあれなんですが、佐々木殿は適当にとってきた名前で史実とかはよく分かってないです
弁慶さんを困らせてみた企画(4):色々上手くいかなくて困りへこみ弁慶
(29/01/2010)