弁慶にとって、泰衡はとても分かりやすい相手だった。考え方がとても似ているからだ。
さっきの会話ひとつとっても分かる。冷酷な人物ではあったけれど、故に思考は合理的で理論的。たとえば農民が困っている時、郎党たちがもめている時に彼の下す判断は、頷けるかはともかく納得はできることが多かった。
ただし、九郎に関しては彼とたったの一度も意見が合う事はなかった。別に泰衡と慣れ合いたいわけではないのでそれは構わないのだけど、焦らされ続けている弁慶は、同種として淡く期待していたので、これで八方ふさがりだ。
打つ手なさすぎて彼との出会いから一通り振り返ってしまった。そして弁慶はついぼやいた。
「困ったなあ」
「何がだ?」
「ああ……いえ、なんでもないですよ」
視界にいた九郎ににこりと笑顔を向けると、九郎は、
「変な奴だな」
と言ったあと、さっきまでしていたように、また踏み込みながら木刀を振り下ろす練習をはじめた。
彼に付き従うようになって随分と過ぎた。秋に出会い、春に京を発ち、夏の終わりごろまではそれでも日々、なにかしらに九郎の一面を拾い集めていたような気がするけれど、特に二度目の秋と呼べる季節に入ってからは全く進展がない。
仕方がないので最近は、九郎の一見単調で隙のない日常生活に潜むはずの、突破のきっかけを逃すまいと、弁慶はまるで従者の如くにひたすら彼と共に過ぎしていた。
朝起きて、朝餉を食べ、鍛錬をして、金と遊び、昼が過ぎたら町へ下りくるりと廻ったら一日終わり。大体その繰り返し。たまに御館に謁見をし、たまに泰衡に捕まって説教されたり、大人しく兵法の施しなど受けているだけ。
今日も朝から変わることなく、欠くことなく早朝の鍛錬をこなしている。弁慶は建物の中から、鉢にいれた野草を山椒の枝でぐりぐりとすりつぶしつつ、木刀の剣先が上下するのをぼんやり見ていた。
「飽きませんか」
最初こそ、これが自分を負かした剣なのか、と思えば悔しくもあり、何か盗んでやろうと思ったりもしたものだけど、最近は見ていると、懐かしの比叡での修行のことばかり思い出す。うんざりしながら問うと、即答した。
「強くならなければならないからな。もうすぐ冬が来ることを考えると足りないくらいだ」
「たいしたものですね。それ以上強くなってどうするんですか」
「どうもしない」
きっぱりと彼は言うものの、それはどこか、弁慶の思う九郎像からずれていたから尚更だ。
だってあまりにも骨折り損にみえる。弁慶には到底真似できない、というかしたくない。
上限の見えない努力は嫌いだ。誰かと比べて、というなら分かりやすいけど……けれど九郎より強い者は今の平泉にはほとんどいない。弁慶も彼に勝った事が無い。ゆえに、九郎は実力がどこまであがったのかという比較ができなくて、それは本人も多少つまらないようだったけれど、それでもひたすらに高みを目指している。
もっと、たとえば寺への修行のように、境内の掃除、などというなら実益を兼ねているし、平泉中の書物を読みつくすとかなら分かりやすい。薬を処方した患者が快方に向かっていくのを見るのもいい。そうではなくて……たとえば今九郎を知りたいと思う心のように、際限がないと、自分で区切らなければならないから、辛くなる。少し疲れる。
そう、弁慶は行き詰まってもいたし、かなり困っていた。尽きることない知識欲に苛まれているというのに、それが全く満たされないのだ。このままでは飢えてどうにかなってしまいそうだ。
「君はつくづくよく分からないですね」
改めて溜息をつきなおしてしまう。だって源氏を復興させようと思うなら、もっと他にやるべきことはあるだろうに……弁慶にも、九郎がこっそり進めている計画を教えてくれたならもっと、色々できると思うのに、なのに剣にこれ以上こだわる理由が分からない。
それでも、あの出会った夜を思い出せば、何か意味があるのだろうと予感してしまう。そうきっと、剣が重要となる策でも練っているのだろう、自分が薬師を装い平家へでいるしていたのと同じように。
それに、時として……ずたぼろの、鍛錬の時に着る着物で剣を無造作に持っているだけの九郎でさえも、光の下できらきらと輝いているような気さえして、目がくらみそうになる。それは平泉の秋空が高いからだけじゃない。どうすればこんな輝いた笑顔を作れるようになるのだろう。
「俺には余程お前が不思議だ」
つい、ずっと見つめていたら、そんな言葉と同時に木刀がひとつとんできた。
「なんですか、これは」
「見てるだけでは暇だろう」
「まあ、確かに」
受け取り、やや幅広の刀身を一瞥してから、風切った。
「そうですね、久しぶりに手合わせ願いましょうか。でも、やるからには全力ですよ」
「当たり前の事を言うな」
九郎は楽しそうに笑った後、息を吸うと途端に真剣な顔になった。
両手で構える九郎。鏡のように弁慶もならうと、九郎の肩があがった。ゆらりと橙の髪が揺れて彼は地面を蹴る。
「!」
対面すると思い知る、やはり速い。飛び込みながらの突きをとっさに右にかわせば紙一重、でも避けたならこっちのものだ。九郎が起こした風を使って左足を軸に身を翻し、右から袈裟斬りを、
だが、くるり、橙が目の前をよぎった。思った途端、がん、と音より早く両の掌が痛んで空になった。
「あ」
「……」
弁慶よりもはやく逆弧を描いていたらしい九郎が、上から木刀を叩き落としていた。肩越しに目が合って、我に返った。
彼は不愉快そうに言った。
「真面目にやれ」
やってます。と喉まででかかったけれど、悔しいからにっこり笑う。
「さすがですね、毎日鍛錬を続けているだけのことはあります」
同時に思う。
これは多分、彼の事を探る好機だ、ゆえに感情に呑まれるわけにはいかない。
「ああ。武士として、それに源氏の血をひくものとしての責任もあるからな」
さわやかな風に笑う九郎に、似たような笑みを向けた。
「だから、毎日剣の鍛錬を?」
「そうだ。いつか兄上が挙兵されたりした時には、お役に立たねばならないだろう」
九郎はすんなりと頷いた。それは無邪気さながらだったが、弁慶は目を細める。
「……源氏の為、ね」
ああ、そうか。やっと分かった。
九郎は口癖のように源氏の為と言う。その為に強くなると……けれど、
それがきっと、隠れ蓑。
「そういえば、君は全く同じ時間にここにいますね」
本当に彼は剣術を磨いているのだと、不覚にも騙されてしまったじゃないか。
にこりと笑うと、九郎はこちらに向き直りながら首をかしげた。
「そうだな、よく知ってるな」
「見ていましたからね」
「そうか……ん?」
微笑み続ける弁慶に、九郎は大袈裟におののく。
「見てたのか!」
「ええ、毎日」
「……そういえば確かにお前はいつもこの時間、そこでなにか読んだりしていたが」
「はい」
そして口ごもり慌てた風の彼を見、弁慶は微笑み二度、瞬きをする。
ほら、怪しい。
「盗み見とは卑怯だ」
「残念ながら、堂々とここから見てましたから、盗んではないですよ」
「うっ」
言うと、再び九郎の言葉は途切れた。ふふ、と笑みが零れるが、ここからだ。追い打ちをかけるように弁慶は、ずい、と少しだけ低い目線へ近づき、悪戯を装って問いかけた。
「なので、僕には教えてくださいませんか?」
「だからなにを」
「誰を待ってるんですか?」
だってならば辻褄が合う。頑固なまでに同じ時間に、ここで、無駄にしか見えない鍛錬を繰り返していることにだって意味が生まれる。
その上、この慌てよう。これはもう確信だった。ああ、やっと九郎の企みを知ることができる。そこから彼の本当だってきっと知ることができる。眩い笑顔で皆をくらませる、彼の真意を。
なのに九郎は訝しげに、ますます不思議そうな顔をした。
「はあ?」
「ふふ、隠さなくても誰にも言いませんよ、京からのよしみということで」
にこり、と笑うと、九郎は一瞬ひるんだ。いける、思ったのは束の間。
九郎の表情が翻る。泰衡のように、めいいっぱい眉間にしわを寄せ、彼は言った。
「そんなもんあるもんか」
声音は不愉快極まりない。自然、弁慶もそれにつられる。
「そんなこと言っても、お見通しですよ九郎。では、どうしていつも同じ時間に、規則正しくここにいるんですか?」
「そんなの同じ時間にやるから意味があるのだろう、鍛錬とは……っ」
力説するように九郎が拳を握った。けれど唐突に彼は顔をゆがめた。とっさに弁慶は手を伸ばし、腕を掴んで引き寄せた。
「なにをっ……痛っ!」
打ちあった時にちらりと見えて、気になったのだ。改めて見ると、左腕に包帯がくるくると巻いてあった。あまり上手くない、自分でやったのだろうか。けれど、考えられぬほど、それはきつめに巻いてある。
「随分、傷が多いみたいですね」
「それは…」
おそらく、剣を使いすぎて痛めたのだろう。見破られて、九郎はきまり悪そうに弁慶の腕を振り払う。弁慶は更に微笑む。
「そんなにしてまで、毎日鍛錬を、ですか?」
しかも薬師である弁慶に黙ってだ。弾かれた手で、前髪をさらり、と払いながらゆっくりと距離を詰める。すると、
「うう……それを言われると弱い」
九郎は黙ってそっぽをむいた。それはつまり、
……やはり彼は何かを隠していた?
ようやく捉えた事実、勝利に顔が緩みそうになる、けれどここが正念場、必死に繕い、にこにこと、次の言葉を待ちかまえた。
なのに……なのに、九郎は深刻な顔で、伏せ目がちなのに、
「未熟なものだな、お前を打ち負かしたと言っても、その実こんなに怪我が絶えぬのでは」
どこか見当違いの事を言うものだから。
……嫌な予感がした。
「……」
「……なんだ?」
「……本当に、鍛錬だけしてるんですか?」
それが本音とは思えなかった、鵜呑みにはできなかった。
それでも……でも、怪我を知られた彼の表情があまりに真剣で、憂いさえも帯びていて、それも演技だといい切るなど……そこまで弁慶は冷徹にはなりきれず、狼狽する。すると九郎の顔もさっきまでの憮然としたものに戻り、
「だからそうだと言っているが」
言った。
「……」
無愛想な一言、それは弁慶の中の人格、というか、重きをおくものを切り替えるに十分だった。
困惑も好奇心も吹き飛んだ。瞬時に巻き起こるは苛立ちと怒り。
否、これが真実な筈はない、きっと、いつか鬼が師だと言って誤魔化した、あれと同じに違いない。そういうことにすれば弁慶はきっと怒るから……現に怒っているから、それでうやむやにしてしまおうという作戦だろう。ああ、九郎は本当に凄いなあ、突拍子もない冗談を言うのが得意なんだから。
思った、思えど割り切ることはできなかった。たとえば九郎が最初の夜に、あっさりと弁慶を見逃したようにはできなかった。
「どうしてそんな意味ないことするんですか」
「ん?」
笑顔を崩さなかったのは耐えた方だと思う。手を出さなかったのも頑張ったと思う。睨みをきかせてしまうのも仕方ないと思う。でも、
「そんなに痛めてるなら休まないと使い物にならなくなります」
「だが先生は一日休むと三日鈍ると」
「怪我してまでやれと君の師は言うのですか? 言わないでしょう」
「それはそうだが」
そこを突かれているのだとしても、嘘を嘘と思えない。薬師として、許せない。
だというのに、こちらの純粋な心配など気にしない、と言わんばかりに、しかも得意げに、
「だが、戦場で傷を負った時、敵は待ってはくれないだろう? 痛みに耐え剣を握る習慣を持つことも、必要だと俺は思う」
九郎は言った。
一瞬……今度こそ弁慶は何を言っているのか分からなくて呆然とするしかなかった。
だってあまりに非常識な理屈だ。でも数秒を経て理解した後は、愕然とするしかなかった。
「つまり君は……痛みに強くなるように、怪我を負ったままさらに追い打ちをかけていると?」
「そうだな!」
「無茶苦茶です」
「そんなもの承知だ、それでも引けぬのが武士だ」
なのに九郎はきっぱりと言い放つ。
「……あんまりだ」
「弁慶!?」
「知りません」
これ以上話を聞いていたら、笑顔を保てず殴りかかってしまいそうだ。そんな姿は見せるわけにはいかない弁慶は、必死で感情を押さえながら、懸命にそこを後にした。
信じられない。本当に信じられない!
あの後、高館を飛び出した弁慶は、薙刀携えながら平泉の町を南西へと突き進んでいた。
九郎の言う事が本気で理解できなかった。戦場で痛みをこらえなきゃいけないから、毎日鍛錬する? なんだそれは。その為に普段から筋をいためていたら、それこそ何かあったときに困るじゃないか。剣を十分に振るえなくなるじゃないか。
なんという本末転倒。こんなに腹をたてたのは久しぶりだった。
それとも、あの馬鹿げた理屈さえもが真実で、弁慶はまだその高みに辿りつけていないというのか……確かに下に位置する人間は上の技量がどれだけ凄いか、測れない。測れないゆえに勝てないのだから。
目的地まで半分ほどのところで弁慶は一度立ち止まり、空を見上げた。
今日も立派な秋晴れで、きらきらと眩しい太陽から目を隠しながら清涼な空気を吸い込めば、ようやく冷静になった気がした。
そして一人頷いた。
「そういうことでしたか」
やはり、弁慶は彼に乗せられたのだ。
そう、待ち人を待つとは言えないからと、痛みに耐えるために怪我しても鍛錬する、が嘘なんじゃない、そもそもあの怪我そのものが騙し手、偽りだったんだ。しつこく問い詰める弁慶を巻くには、怪我を持ち出して注意をそむけるのが一番、だと思ったんだろう。
やられた、と思わずにはいられなかった。ああもう本当に、これだから九郎のことが気になって仕方ない。まさか先手を打たれたなんて、しかも、あんなに真摯な目で語るから、うっかり信じてしまったじゃないか。けれど改めて、自分はそんな九郎に魅入ったのだと思いだすと、なんだか少しくすぐったくて苦笑いしてしまったし、怪我が嘘なら、それもよかったと安心した。
気持ちが落ちついたところで再び歩き出し、辿りついたのは毛越寺。いつ来ても見事な庭を称えた寺院だった。京のそれとは少し変わった、北の地ならではの佇まいで、趣深さも別格。通りがてら楽しみながら、本堂に入る。
「ごめんください、お邪魔します」
「弁慶殿」
草履を脱ぎ、上がると僧たちが出迎えてくれた。彼らにはとても世話になっている。弁慶が比叡の知識をささやかに、本当にささやかに伝授するかわりに貴重な書物を見せて貰っているのだ。
故に慣れ親しんでいるし、いつも和やかに出迎えてくれるのだけれど、何故か今日は皆、一律にまずい、と顔に出していた。
「前にお願いしていたものを見せていただきにきたのですが……出直しましょうか?」
にこりと問うと、
「いや、構わんお通ししてやれ」
声がして、全てを察した。
「ああ、そういうことでしたか」
にこりと笑い、弁慶は返した。彼をもてなしていたというのなら無理はないだろう。身分的にもそうあるべきだし、一般的に、どうしてか、彼と自分の仲が良くないとされているのだから。
現れた泰衡は、手に書を持っていた。
「あ、それ」
「お目当てのものはそれだろ? 出してあったからな」
「ありがとうございます」
珍しい気遣いだ。さらりと笑って受け取るが、それでも泰衡は去らなかった。ああ、こっちが本題だったのか。
「なんでしょう? この期に及んで僕に喧嘩をふっかけられるほどお暇ですか泰衡殿」
とっとと帰ってほしいから話を振ると、
「そうだな、薬師殿が随分と不愉快そうな顔をしているからな」
くっ、と笑って彼は続ける。
「どうした? ようやく御曹司殿が馬鹿だと分かったか?」
「九郎はただの九郎ではありません」
即答していた。するとますます泰衡は笑う。
「まだ気付かないのか、あれは馬鹿だ、期待するだけ無駄だ……もっとも、だからこそ操るに容易い、こちらとしては好都合だな」
「酷い人ですね」
「あれの為だ。せいぜい平泉で安穏と生きられるように飼いならしてやる」
「平泉で」
なんて歪んでいるのだろう。思ったが、言葉にはできなかった。けれど心を読んだのだろうか泰衡は言った。
「お前も同類のくせに」
「……同類?」
ここでそれを、どういう意味で? 今更めいた言葉は妙に引っかかったけど、反論するだけの材料はなく、また、泰衡もそのまま去っていったから、ここでは首をかしげるしかできなかった。