※多分人を選ぶ話です
難しいことは好きか嫌いか。本当はあまり好きじゃない。強すぎる好奇心と知識欲の弊害で、どこまでも知りたくなってしまうからだ。
たとえば今日の天気はどうだろう、からはじまって、平泉の歴史、五行の流れや街の造り、特産、楽しそうな噂話、ここを治める奥州藤原家現当主秀衡について、そして、平泉を防衛するなら……逆に攻め込むなら、なんて物騒なことも。それだけじゃなく薬をもっと楽に作る方法や、呪術、御仏の教え、なんてことにも及ぶから、弁慶の興味は尽きることない。
趣深い人間も好きだった。京にいた頃、五条の橋で待ち伏せしては自分との力量差を試していたのもその一環。切り結び、相手の強さを、思惑を知り、何を見据えているのかを知る。そうしてふるいにかけるように、楽しそうな人間を探してゆく。
とはいえ、そうして戦った相手はたくさんいたし、人並み外れた剣技を持っていたわけでもなかった弁慶はそこそこ負けたりもしたけれど、彼の心を揺らした相手はほんの数人しかいなかった。
そんな彼らの事さえも、今となっては記憶の彼方。一人の少年の登場が、すべてを他愛のないものに染めてしまったからだ。
それほどまでに鮮やかな彼への敗北。
以降、貪欲な好奇心と知識欲はとどまることを忘れてしまった。
目的はただひとつ。牛若と、否、今となっては九郎義経と名乗る少年の本質を捉えたい。
彼に最初に見えたのは、一年前、紅葉落ちる三日月の晩だった。
その晩、僧兵たちと山を下りた弁慶が、いつものようにひとり抜け出しては、誰か来ないかな、勝負をしたいなと五条の橋の片隅で待ちかまえていると、その少年は東方から姿を現した。
こちらに気付いたからだろうか、橋の一町ほど向こうで彼は一度歩みを止める、けれど結局構わずにまっすぐ駆け寄ってきた。
「……子供には興味ないのに」
年は弁慶より、4、5程下だろうか。弱い者いじめは趣味じゃない。五条の荒法師の噂は京では随分広まっているから、噂を思い出して立ち去ってくれればよかったのに、どうやら知らないらしい。どんどん詰まる距離に、弁慶はどうしたものかとかすかに迷った……けれど、彼の腰にあった刀が目についたから、立ちふさがった。
ほんの一瞬、少年の歩みも揺らいだ。けれど彼は止まらなかった。むしろ、足を速めているのは気のせいか。
三日月細い、闇の夜。弁慶の背にある月の光だけじゃ表情までは見えないけれど、少年は叫んだ。
「何用だ」
「この橋をこえたければ僕を倒してゆくことです」
同様に引くことなく、あっさりと図々しくも弁慶は宣言した。
それでも少年は止まらなかった。
「ここはお前の橋じゃないだろう!」
「そうですね、誰が通っても構わない場所ですね、でもだからこそ僕もここで立ち止まっても構わない、とは思いませんか?」
「思わん」
彼は足を全く緩めぬまま、突っ込んでくる。
「愚かな」
弁慶の事を知らないにしても、明らかに敵意を向けた、自分より頭ひとつはゆうに高いだろう年上との対峙を回避しないなど。それとも、狼藉者を倒してやろうと正義でも気取っているのだろうか。
どっちにしても、身の程知らず、なんて自惚れ。
……ならば、切り捨ててしまいましょう。
弁慶は刀を抜き構えた。
それでも少年は止まらない。きらり、彼の腰から光が返った、瞬間、
彼は消えた。否、月光を受けたその刀身の軌跡だけ筋のように残し、弁慶の間横を、
斬り抜ける。
ぼちゃん、と水音がして気付いた。手のなかから刀が抜けていた。
「待て!」
弁慶は間髪いれず振り返りながら叫んだ。けれど、
「もう勝負はついている!」
「だからといって」
振りかえることも止まることなく、少年は長い長い髪を残影のように浮かばせながら言って、橋の向こう、三日月の沈む京の町中へ消えていった。
立ち尽くし、見送りながら思った。切り捨てられたのは自分の方だった。
あまりにも圧倒的な敗北に、弁慶は当然、彼が一体何者だったのかを調べようとした、けれど、なんてことはなく、また数日後に夜の京で、彼とばったり出くわした。
その時は互いに徒党を連れていて、小競り合いのようなものになってしまいまともに話もできなかったし、何故か避けられていた風で剣をかわすこともなかったけれど、そのうち、今度は昼間にもすれ違うようになった。
三度目の再会はきっと偶然、光の元、やはり五条の橋の上。通りかかった彼を、すかさず弁慶は呼びとめた。
「あ!」
少年はすんなりと振り返った。けれどすぐに、しまったという顔をして、くるりと橙の髪を揺らして一目散に逃げようとした。
「待って、逃げないでください」
それでもなおも遠ざかる背に、弁慶は叫ぶ。
「今日は何もしないです、ただ、君と話をしてみたいんです」
するとようやく、少年は足を止め、今度は振り返った。
「お前の言う事は聞いてはいけないと言われている」
明らかに警戒されたままの言葉。弁慶は驚いた。……彼は自分を知っていたのか? 知ってて、飛び込んできたというのか。……だとしたら、ますますここで彼を逃す訳にはいかない。
だって、その事実は、あの夜の出来事を塗りかえる。
逸る心で、弁慶はにこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ここでの僕はただの薬師ですから」
「口がたつとも聞いている」
「そうかもしれないですね。でも、君もそうなんじゃないでしょうか、遮那王」
「どうして俺の名前を」
「さあ、どうしてでしょう」
それは勿論、弁慶が必死に彼を探したから知ることのできた名だったのだけれど、素知らぬふりで、くすくすと笑うと、少年は不思議そうに近づいてきて、弁慶と同じように欄干に背を預け、こちらを見上げた。
「不思議な奴だな」
「よく言われるんです」
「俺もだ!」
するとようやく彼は屈託なく笑った。
その頃には弁慶は、彼に出会ってしまったせいで、五条の橋で待ち伏せることなどどうでもよくなっていたし、また、少年の方も……これは後に聞いた話だったけれど、夜に出歩くこともなくなっていたようなので、もっぱら、二人は昼間にばかり会うようになった。
出会いこそ物騒な彼らだったけれど、昼間なら、弁慶は薬師として振る舞っていたし、少年も剣を抜くことはなく楽しそうに笑ってばかりいたので、はじまりとは裏腹に、彼らは陽の下、五条の橋の欄干に身を預けて言葉をかわすことにばかり夢中になった。
そうして彼を知っていった。
最初はしきたりや教えの微妙な違いなんていう、それぞれの寺の話からはじまった。けれど彼の知識には欠落が多くて不思議に思っていたら、彼は僧でなく武士で、だから実のところ、僧兵同志の諍いにはあまり興味がなく巻き込まれていただけだと聞かされた。
では何故彼は街に下りてきていたのか。それは平家を狙っていたからだと打ち明けられたのは、出会って半年程だった頃、冬の寒さがようやく緩んだ頃だった。誰にも言ったことではなかったけれど、平家の治める京をどうにかできればいい、と思っていた弁慶は、驚きながらも同調した。すると少年は更に、自分は源氏の血をひくものなのだとこっそりと教えてくれた。
そして彼は言った。機が来た時、共に平家を倒さないかと。
唐突な転機。弁慶は息をのんだ。
だって、それはなんという偶然。平家を敵視する同志を得た、しかも源氏の御曹司だった、それだけだって十分凄いことなのに、その上……それがこの遮那王だなんて。
弁慶が彼に興味を持ったきっかけは、本当のところ剣術のせいではない。
あの三日月の夜、彼は弁慶にひるむことなく突っ込んできた。でも明らかに年上の人間が、しかも橋の上で待ち伏せなんて怪しいにも程がある。普通、回避するのが当然なのだ。
なのに彼は躊躇わなかった。それは自惚れだと、剣が重なる前には思った。
敗れた直後、彼は弁慶の腕前を見抜いていたのだと……ゆえに彼の方が技量が上なのだと知り、それに感嘆し、興味を持った。
けれど今。彼が遮那王と呼ばれる鞍馬に縁のもので、また、弁慶のことをあの晩知っていたというなら、更に別の事実が浮かび上がる。
彼がとった方法はこの上なく最善だったのだ。
他に道などなかった。だってもしあの時、彼が逃げていたならば……弁慶は彼を追いはしなかったとはいえ、形としては鞍馬に泥を塗ることになっただろう。逆に、彼が弁慶をもっと痛めつけていたら、比叡が激昂していた……かもしれない。
だったら戦闘を続けられぬようしてしまうのが一番。そう判断して、その上でこちらの力を見切り、駆け抜けた。
その冷静な判断力。それが弁慶の心をいよいよ炊きつけた。
しかも、彼は権力さえも手にしているという。もはや舞い上がらずにはいられない。
だって……そもそも、源氏の血を持つ子供が京にいるなど、薬師としてあちこち潜入して情報を集めまくっていた弁慶でさえ、全く知らなかったのだ。そんな風に身を隠すのが得意で、かつ、あの判断力や冷静さを持った彼のことだ、きっと、今弁慶を誘ったように、他にももう沢山の武士や荒くれ者を、郎党として集めているに違いない。そして、彼の存在同様に、弁慶程度には分からぬように巧みに隠しつづけている。
だったら、もっと凄い秘密もあるに違いない。
実は既に、平家を失墜させる術を持っているとか、彼がのろしをひとつあげれば、京中の彼の郎党が一斉蜂起する用意ができているとか。どっちにしろ、策はいよいよ大詰めなのだろう。だって彼ほどの人間が、弁慶みたいなただの荒法師にうかうかと危険な情報を流す訳がないんだから。
胸躍り、浮ついて仕方ない。ぎゅっと片袖握りながら、弁慶は改めて彼を見た。
少年はきらきらと笑っていた。一見無邪気に見えるそれも、事実を知れば変わって見える。ああ、なんてきれいに笑顔を作るのだろう。弁慶も見習わなければならない、思ってしまった。
既にそんな調子だったので、だから当然『もうすぐ平泉へ行ってみようと思っている』と、彼が唐突に言った時にも、弁慶は迷わず頷いた。
断る理由が全くなかった。
自分の目的への近道だった、彼が何を企んでくれるのか知りたかった。
なにより、この少年自身の事をもっと知りたいと希わずにはいられなかった。
そして数日ののち、二人は京を後にした。
平泉までの道のりは長いものであったけれど、ちっとも退屈を感じなかった。長旅もはじめて、奥州も勿論はじめて、なにより九郎と二人きり。
行く先々で、無邪気を装う九郎は様々に弁慶を驚かせた。
京から出たことがなかったから、という言い訳をつけて、彼は見知らぬ景色や風習を知ると、いちいち目を丸くして驚いた風を装っていて……、
たとえば眼前に海が広がった時には、海だ海だと大騒ぎしては、崖上から波しぶきがきらめき落ちるのを、まだ十分冷たい海風を気にせず眺めていた程で、最初こそ大袈裟な、と思ったものだったけれど、
ああ、きっと彼はそうして下々の者にも親しまれるように振る舞っているのだろう、と気付けばただ、恐れ入ると同時に、彼の一挙一動が気になって、旅の楽しみがひとつ増えた。
中でも一番びっくりしたのは、お喋りな二人でもさすがに口数が減った頃にふと口にした、
「ところで君は本当に剣の腕が見事ですね。僕より年下なのに、どうやってそんなに強くなったのでしょうか?」
そんな質問に対する返答だった。
九郎を真似たわけじゃないけれど、なんでもないふりして呟いたそれは、元々、ずっと疑問に思っていたことだった。
彼本来の血筋にのっとり、きちんと…それこそ、今京を謳歌している平家の如く、一門揃い権力を欲しいがままに育てられてきたならともかく、寺で学べる剣術などたかが知れている筈なのに、どうしてそんなに彼は強いのか、と。
問われた九郎ははっきりと困惑を顔に出した。
「……お前も強いと、噂では聞いたぞ」
「でも君には負けてますから」
しかも、戦う前から僕が弱いと見抜いていたでしょう? とは悔しいから口にしなかったけれど、そんな思いも込めてにこにこと見つめ返していると、
「……あまり口外したくはないんだが、お前ならいいか」
少し勿体つけるような仕草の後、結局九郎は笑顔で言った。
「実は、俺の師は鬼なのだ。あっ、鬼といっても以前京を襲ったという、あんなのとは違うぞ。先生はそういう事とは無縁の素晴らしい方だ。とてもお強いし、教え方もよかったのだろう」
「そんな人物がいらしたんですか、初耳ですね」
「ああ。先生は人前に出るのを良しとなさらぬからな……お前も誰にも言わないでくれ」
言いたくないと言った割には、随分晴々しく言ってくれる。聞いた弁慶が驚いた。
「分かりましたが……それにしても、凄い事をいいますね」
「そうだな」
しかもしれっと、相変わらずの完璧な笑顔で、本気を装い言うものだから、弁慶はますます楽しくなる。
「僕もよく人を驚かせることが上手いと言われますが、悔しいな、君にはかないそうにない」
だって、剣の師匠が鬼だなんて。
しかもこんなに唐突に、そんな大胆な冗談を口にするなんて。
彼の口ぶりから察するに、まさか鬼のように怖い師だった、なんて話ではないだろう。それほどまでに口外できぬような、腕の立つ師、何者だろう。平家の名の知れた武将か、源氏の落ち武者か?
それについても…そして勿論、そんな型破りな冗談を言う九郎に関しても、弁慶の興味は増すばかり。更に聞いてみたかったけれど、
「そうか…?」
九郎がそう首をかしげた時、眼前の、奥州の山脈をたたえた青空の高くを、鷹が滑空して、九郎はそれに目を奪われたふりをして誤魔化し、会話をやめてしまったので、弁慶もそれ以上踏み込むことを警戒してしまい、真相は掴めぬままその時は終わった。
その後、無事平泉についても九郎は常にそんな感じだったけれど、共に暮らせばどんどんと別の面が見えてくるはずだ、と決め込んでいた弁慶の思惑は間違ってはいなかった。次々彼を知ってゆく。
とにかく九郎は、どうにも人と打ち解ける術に長けているようで、元々たいした縁もなく……むしろ弁慶の方が縁がありそうな程だったというのに、到着して数日ですんなりと秀衡に歓迎されてしまった。
弁慶も人当たりの良さを演じ他人に近づくことには自信があったのだけど、彼も負けず劣らず、としか思えない。寺育ちで、人質として閉鎖的に育てられたからじゃないか? と九郎は笑って言っていたけれど、そんなとこもまた周囲の同情を買い、油断を生み、どんどんと平泉という土地に馴染んでゆく。
見事としか言いようがない。彼らと敵対しない事もだったが、なにより無垢を装う彼の振る舞いこそが完璧だった。
現に弁慶は、未だ九郎の企みを見抜けていない。
京を離れ、こんなところまで来たこの九郎が無策な筈なく、だからきっと一足先に平泉に集結しているはずの源氏の落ち武者やら郎党の姿が全く見えない。影さえ見えない。御館とだってかわしているであろう密談の場面に出くわすこともないし、そんなそぶりを全く見せない。
弁慶の前では、九郎はいつだってただ、きらきらと楽しそうに街を、館を駆け抜ける。そんな彼の手腕に、弁慶はただただ感じ入るばかりだった。
春から秋までそのまま過ぎた。弁慶の中で、源氏の御曹司としての評価は上がるばかりだ、けれど、それでも九郎の技量に舌を巻くのと、弁慶の思惑はまた、別で、結局九郎の目論見も、また、彼の人物像も測りかねている状況なので、そういった意味では空回りどころか、逆行するように解決から遠ざかっているのだった。
奥州藤原氏が嫡男、藤原泰衡に聞いたことがある。
「あなたは、九郎のことをどんな人物だと考えますか?」
すると彼はいつも以上に眉間にしわ寄せまくって嫌そうに言い捨てた。
「…………ただの馬鹿だろう」
偶然会った無量光院で、世間話のついでのように聞いた弁慶も悪かったと思ったけれど、それにしたって、懐かしの京を思わせる綺麗な景色に、その声音はあまりに不釣り合いで、無粋さに、弁慶も眉をひそめた。
「酷い言いようですね」
「酷い? 事実だ」
心底不思議そうな泰衡は、心底悪意をこめて続けた。
「もしかして、お前はあれが実は有能な人間だと思ってるのか?」
「勿論です」
僕は彼に負けましたから、なんてそんな余計なことは言わなかったけど、
「彼は僕の力量を一瞬で見抜いた上に、事を大きくしないよう、最善の手を一瞬で選びとったんですから」
「……」
にこりと言うと、九郎と同じ年の泰衡は、呆れた顔で弁慶を見ていたけれど、しばらくの後、それは次第に歪んでいって、
「……成程、御曹司の間抜けを見抜けないとは。お前が九郎に期待しすぎているのと同様、俺はお前を買いかぶっていたようだな荒法師殿」
「ええ、あなたのように性格悪くないですからね。見苦しいですよ、認められぬものを無能と切り捨てるのは」
結局そんな風に結論づけた。
これではまったく話にならないじゃないか。何かしらの手掛かりへの期待を打ち砕かれて弁慶はつい言葉を荒げた。
すると泰衡は、そんな彼を笑い飛ばしながら続けた。
「己の理解を越えるものは全て素晴らしいと思いこみたい矜持の高さが時に邪魔だな。それとも主は立派であって欲しいと言う願望か?」
「そうでなく」
「だったら」
そして、むしろ弁慶よりも不機嫌そうに、きっぱりと言った。
「俺に最初から聞かねばいい。俺が九郎をどう思ってるかなど、最初から知っていたはずだ、それが既に間違いだ」
嘲る言葉、……確かにそれは正論で、
「もしくは確かめたかったのか? 九郎は馬鹿だと」
そう言われるのも仕方なかった、自分が浅はかだった。……甘んじて受け止めていると、
「いい加減、目を覚ませ荒法師殿」
と、いよいよ不愉快に顔をしかめ、泰衡は言い捨て、くるりと黒の髪を翻しながら踵を返した。でも直前に。
「あいつは馬鹿なだけだ」
と、なんとなく憂いを帯びた声でつぶやいたのが印象的だった。