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折れた剣(前編)(後編)の間の話ですが多分単独で読めます


 ふわふわと風揺れる、すっかり住み慣れてしまった京の屋敷。
 朝餉もまだの時間だというのに郎党たちの声は賑やかだ、そんな、規則正しくも明るい生活は九郎にとっては好ましいものであるはずだったが、今日はそれがただ、遠かった。
 混ざることもなく、それ以前に意識を傾けることもなく、九郎はひとりきり庭を眺めていた。
 色とりどりの葉は白んだ空気の中、露を抱えて静かに落ちる。既に大地には幾重にも重なっている。昨日の夕刻に戻ってきた頃には綺麗に片づけられていたような気がしたのだが……随分とあっさりと葉も落ちるようになったものだ。
 あっけなく。季節も時も過ぎる。過ぎてゆく。
 またふわりと風が吹いて、九郎の頬を冷たく撫でていった。同時に誰かが近づいてくる気配がした。それさえも風と同じように、気にかけることもなく、否、できずに九郎はただ、庭を見ていた。
「おはようございます。どうしたんですか?」
「……」
 声がかけられてもなお、九郎は顔をあげられずにいたが、
「昨日の望美さんの料理で胸やけでもしているんですか?」
などと、見当違いの事を言われれば、
「そんなわけあるか……」
と返すしかない。それでもようやっと、ゆるゆると重たく顔を上げるので精一杯だった。
「だったらどうしたというんです? 屋島攻略についての話をするために、景時の邸に今日も行くのでしょう?」
「……ああ。お前の支度が終わるのを待っていたんだ」
「それはお待たせしてしまいましたね。だけど珍しい。君がそんな風になにもしないで、ただ庭を眺めているなんて」
「そうか?」
「そうですよ」
 ありふれたやりとりにさえぎこちない九郎の隣に、弁慶はすとんと腰を下ろす。すっかりと身支度は終わっているようだった。むしろ九郎の方が……こんな顔で望美たちに会えるわけがなかった。
 それでも九郎は沈黙を続けてしまった。
 簡単なことである筈だった。『落ち葉が積っているな、と眺めていただけだ』、それくらいの嘘だったら九郎にだって言える。さらりと、なんでもなく告げればいい。そうして彼と邸を出て道を歩いているうちに、気分も晴れるに違いない。
 なのに言葉は喉につまり、かわりに視線が泳いでしまう。
 ……そんな姿を見せてしまったら、
「ふう、九郎、何かあったんですか? 鎌倉方から何か言われたとか」
当然のように、彼は言った。
「……どうしてそう思う?」
「そういう顔をしてるからです」
 隣に並んだ彼は、首を傾げて困ったようにこちらを見ていた。九郎はまだ何も口にしていない。なのに、簡単に見透かされる。少しだけ泣きそうになった。けれど、首を振り、目を伏せる。
「九郎?」
「……なんでもない」
 零れそうな言葉を九郎は飲み込んだけれど、
「僕には言えませんか」
「……」
「……困ったな、そんなに頼りないと思われていたなんて」
「違う!」
あんまりな言葉に見上げれば、彼は普段通りに笑っていた。いつもの軽口だったのだろうか?
 九郎の視線は逃げるように再び庭に落ちた。……ほら、まただ、そうやって弁慶は九郎を甘やかす。九郎が弱音を吐くのを、こうやって許してくれようとする。
 それでも九郎は、懸命に堪え、首を振った。
「……すまない」
 呆れたのだろうか、溜息を吐いた気配がした。実際、こちらを気遣ってくれている彼に何も言えず、不甲斐ない姿を見せることしかできない自分が情けなかったが、どうしても笑えなかった。
 弁慶ももう何も言わなかった。代わりに手を伸ばして九郎の頭をぽんぽんと撫でる。まるで子供にする仕草だ、普段の九郎なら怒るかもしれない扱いだが……、今はそれが嬉しくて、すがりつきたい程だった。
 さっきから止めどなく続くのは、ただ落ち続ける感覚。喪失感の残滓。
 彼に触れればそれが止まり、一切が霧散するのではないか、思えたけれど、
九郎は唇を噛みしめ、両手をぎゅっと握り、もう一度刻みつけるように
「……なんでもないんだ」
言って堪えた。


 些細な事だった。本当に些細な事だった。
 ただ、夢を見たのだ。
 全てを失う夢を見た、ただそれだけだった。なのに九郎は弁慶にそれを告げることができなかった。
 たったそれだけだった、なのに……どうしてか、自分は兄に見捨てられる、そんな予感を妙に生々しく、まるで起こったことのように連想させる夢だった……そんなこと、有る筈がないのに。











 気付いたらそこにはなにもなかった。
 一面が青で、他に何もない所に九郎は一人で立っていた。
「ここは……?」
 呟いた声はすぐに、どこまでも、どこまでも、目には見えぬ果てまで届くようにただ消えた。
 あまりにもなんでもなく消えたから、自分が本当に声を発したのかどうかも分からぬ程だった。
「なんだ……?」
 再び呟いてもどこだかわからない。けれど青といえば海だろうか、思った矢先、あたりから波の音が繰り返し聞こえてくる。
 足元は板張り。いつの間にか船の上に九郎はいた。海の上にいた。ざぶりざぶりという音が響く。
「どうして」
 九郎の声はやはりあっさりと消えるのに、波の音だけが繰り返し届く。そもそも何故、船の上などにいる?
 ぞくりと、寒気がした。
 慌てて船の上を見回す。風もないのに生温かさが抜けないそこには何もなかった。なにも、誰もいなかった。船の上にも、青の向こうにも、何も、一切が無かった。
 すっと、水平まで見渡せる青。陸もない。
 矢先、目の前に見知った黒が現れた。
「弁慶」
「君は終わったんです」
 唐突に告げる声はまるで宣告、彼のいつもの柔らかな口調とは似ても似つかない。
「弁慶?」
「君は敗けたのですよ」
 ……平家に? と問うより先に足もとが激しく揺れた。九郎は海に慣れているわけではなかったけれど感じたことないほど激しい揺れだ、慌てて身を低くして外を見る、けれど青は全く揺れていない、白い波さえもなく、ただ、ただまるでそういう色の板が敷き詰められたかのように青。
 空と海の境界さえも分からず、ただ、青い空間の目の前に、黒の衣の弁慶がいる。
 そして目の前にいる弁慶も動いてもいない。
「これはどういう」
「君は全てを失うんです」
 一切が、あの翻るような衣も、淡い色の髪も、瞳さえも微動だにせず、声も静かだ、そして彼は微笑んだままにすっと消えた。
 まるで煙かなにかのように、ほんとうに幻のように消えて、するとまた揺れは収まった。
 まわりにはなにもなかった。ただ青だけが広がっていた。
 なにもなかった。その色以外にはなにもなかった。
 それは九郎の好む色だったはずなのに……今はどうしようもない喪失感を覚えた、それは弁慶がそう言ったからかもしれないけれど、違う、もっと根本で、九郎は何かを失ったのを感じた。
「弁慶!」
 叫ぶ、叫ぶけれどやはり彼の声は空間に吸い込まれる。色鮮やかな虚無、無力、それらが九郎を喪失へと叩き落とす。ああ、もうこの手にはなにもないのだ、
思い、天へ手を掲げたところで、

はたと気がついた。

 それは夢だった。昨日辿りついた越後の森の中、寒さに震えるべき季節だというのに九郎はじっとりと汗をかき、手を上に上げたという姿勢で目を覚ました。
 手をぱたりと降ろしつつ、一度大きく頭を振ってから見回す。
「……弁慶?」
 恐る恐る名を呼んだら、少し遠くから草踏み分ける音が近づいてきて、
「呼びましたか?」
覗きこんできた顔は、いつもの見慣れた彼だった。
「いや……なんでもない」
 よかった、やはり夢は夢だった。だが九郎は少しも安心できなかった。
 それは向こうも同じようで、
「九郎?」
と尚も首をかしげて問いかけるけれど、九郎は口元を覆ったまま動けなかった。
 なんでもない、と言うべきだった。少なくとも、以前の九郎はそう彼に告げていた。
 なのにただ震える。
「どうしたんですか?」
「……」
「僕には言えませんか?」
 その言葉さえもあの時と、そう、秋の京の朝と同じだ。

 九郎がこの夢を見たのは二度目だった。
 一度目に見た時、それはどうしようもない喪失感を九郎の中に置き去りにしたまま、夢は消えた。事実としては残っていたが、詳細を覚えていたわけではけしてなかった。
 それが今、再び見たことではっきりと思いだす。
 同じ夢だった。同じ、全てを失う……どこまでも落ちてゆく感覚だけが生々しい夢だった。

 盗み見るように九郎は隣の弁慶を見上げた。
 彼はまっすぐに九郎を見ている。どんなものも見過ごさないと言いたげな、鋭い目だ。
 だがいよいよ今度こそ、口を結び、懸命に視線を跳ね返す。
 ……あの日、自分は何と言って弁慶をやりすごしたのだろう?
 …………あの日、彼は何と言っただろう?
 彼に夢の話をするわけにはいかない九郎が迷っている間に、弁慶はすとんと隣に腰を下ろした。
 目線の高さが重なる。
 なんとなく追いつめられたような気がして、汗でじっとりと濡れた前髪を、九郎は無意識にかきあげる。
 不安を口にしてもきりがない、不安を口にしてももはやどうにもならない、
それでも、前髪を掴んでしまった手に弁慶のそれが重ねられ、
顔が近づき、
「九郎」
と、声をかけられれば……実感するのだ、ああ、秋の京は、あの夢を見た日は……本当に遠い。遠すぎる。
「……いやな夢を見た」
 あの日には耐えられた言葉が結局するりと零れ落ちる。
「昔も同じ夢を一度だけ見たことがあるのだが……」
 あの日から予感は続いていた。
「どんな夢ですか?」
 けれど、あの日と今で違うのは、
「……」
 それが事実になってしまったということだ。
「……それは、」
 信じられなかった、あの頃、源氏は優勢で、八葉として怨霊を封じることもつつがなく、一切が滞りなく進んでいた。
 実際、九郎は平家を討ち下した。白龍も力を取り戻し、神子たちは元の世界へ帰っていった。全てが上手くまとまった筈で、悪夢など、ただの気負いからきたものだったのだろう、そう笑い話になる筈だったのに、
「……足元が消える夢だ」
なのに、実際はどうだ。
 九郎は失った。夢で軍師が宣告してくれていた通りに、家を失い糧を失い、武士としての誇りも失い、なにより信じていた兄を失った。
 今はごくわずかな兵たちと共に平泉へ落ち延びる途中で、酷い追撃に身も心もやつれ、疲弊し心安らぐ時もなく……、
それでもまだなお、心のどこかで、これは夢なのではないかと思っていた、
「……夢の中でお前が俺に言ったんだ。全てを失ったんだと言ったんだ。秋の京でも、この夢を見ていたと言うのに」
けれど、違う。やはり今この時は現実でしかないのだ。
 だって夢の中で夢を見るわけはない。
 それは九郎に逃避を許さぬというように鮮烈で、嫌が応にも突きつけられる。
 こうして以前と同じ夢を見れば、すっかりと変わってしまった現実に、潰される。
「弁慶、俺は馬鹿なんだ。今でもまだ、自分を追っているのは清盛の手のものなんじゃないかという感じがしている。分かっているのに、わかっていないんだ」
 今目の前にある酷い現実から目をそむけたつもりだなど全くなかったというのに、夢にさえ逃げ道はなく、思い知る。
 この、耐えがたい現実を、焼きつけられるが如くにに思い知らされる。
「俺は馬鹿だ。こうして夢などで我が身を知るなど、本当に馬鹿だ」
 途切れ途切れに、九郎は言った。
 こんな風でなければけして言えなかっただろう言葉だった、最期まで抱えたままであるべきかもしれぬ言葉だった。
 ゆえに、叱咤されると九郎は疑ってなかったのに、返された言葉はとても穏やかだった。
「けれど、そうして僕たちは知ってゆくのでしょう」
 驚き、九郎は顔をあげて彼を見た。
 柔らかな声音だったゆえに微笑みを連想した、どうしてこんな声をまだ自分にかけてくれるのかと自分の耳を疑った。
 けれど弁慶は稀に見る程の無表情で、
「僕らは失ってしまった。君がそうして少しずつそれを理解してゆくのを見、僕もやっと、知るのだと思いますよ、終わりを」
と、淡々と言った。
 その顔は、声は、絶望たったそれだけに満ちていて、それでああ……九郎は自分の境遇をまた知ってゆく。
 ただ落ちてゆくだけの青を知る。
 真白い頬に、九郎は握られたままの手を伸ばしていた。
 額を寄せ、瞳を寄せ、唇を寄せる。言葉もなく重ねる。
 北から吹く風は冷たく、凍てつくようだった。九郎は遮ることもできずにただそれを頬に受けながら、静かに瞳を閉じた。





(MAY.2009-15.09.2009)



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サソ