いささか黙った弁慶に九郎は続けた。
「さっきの話だが、お前の話は一理ある。だが兄上はそこまで姑息ではないと、源氏の血をひくものとしての最低限の誇りは失っていないと俺は信じている」
「福原では油断している平家を襲いましたけどね」
「そう、だったな……でも、それでもだ」
「君が嫌いな裏切りに合うかもしれなくても? それからも逃げたかった、と、昨日話していましたよね?」
「ああ。だけどこれに関しては、もし仮に裏切られても後悔はしない」
相変わらずな九郎に弁慶は言葉を強める。
「だから、君のその思い込」
「そのせいで、平泉や熊野が兄上に不意打ちを食らう事になっても、でも、ヒノエも御館も泰衡も間抜けじゃない、備えくらいはしておくだう。だったら、今攻め込まれるより少しはマシなはずだ」
なのに全く揺るがずに九郎は言い切った。
「俺はあいつらも信じてる」
「……つまり君は、君の命を質に、時間稼ぎをしているとでも?」
「それで平泉と熊野を当面守れるなら簡単だな」
「選んだんですか、それを」
信頼、というのは九郎の根底にある感情だ、と、弁慶は思っている。
その身の上ゆえに誰も信じられなかった九郎は、無意識の中でずっと無条件に気を許せる仲間や師というものを求めていた。その反動で、今度は一度仲間と認識したら、誰彼構わずに信じ続けるようになった。そのせいでどれだけ傷つけられても揺るがなかった。
けれど時に、それは逃避に似ていた。それこそ弁慶のように人を探り手繰る事が日常にならないための防壁。
ゆえに、今回もそうしてただ目を背けているだけなのかと思っていた。兄を疑いたくないだけなのかと、けれど、
違うのかもしれない。
言うなれば、重かった。
彼の信じ方は盲目的だけれど、けれど同時に、そのおかげで悲劇を回避しているのもまた、確かだった。たとえば、先の戦。九郎が将臣を疑っていたならば、彼と敵対していた可能性だってあった。そうしたらもっと悲惨だったはずだ。
今も同じなのかもしれない、と、感じた。今の彼なら、もしかしたら弁慶があの屋島の日のように裏切ろうとしても、この手を離さないのではないかと、まるでそんな、願望のようなものを見てしまいそうになるほどに。
それでも弁慶は頷けなかった。
彼に対する焦燥は、弁慶の心をどんどんと鋭利なものにしてゆく。
戻ってゆく感覚。蘇るのは一年前。あの、九郎を傷つけ追いつめ全てを壊した日と同様に、再び紡ぐ。
「だけど九郎、一年前にも僕は話したはずなんですが」
あんなにもつきたくなかった嘘を再びつく。胸が軋んだような錯覚がした。それに耐えきれなくてこの為に九郎と離れたというのに繰り返す。罪を重ねる。それをいつか、悔やむかもしれない。けれど悔やめるならば、それでいい。その時に彼と過ごせているならば。
だから弁慶は素知らぬ顔で九郎を抉った。
「戦がどうとか、武士の世がとか、そういうものが僕、もう疲れたんです。……悲しいな、忘れてしまったのかな」
分かれた日の九郎の勘違いを、都合よく振りかざす。どうか僕を選んでください、君の大義ではなく僕を、と、貪欲に弁慶は告げる。
今ここで使うしかなかった。彼と過去とのかすかな繋がりをも切断するために。
再び訪れた希望は弁慶を弱くした。九郎に源氏を捨てさせた上に、更に落ちぶれろと突き付ける。彼がどれだけ源氏の御曹司として生きることを望んでいたかを知りながら、今度は自らの唇で紡ぐ。
「だから、どうか」
切々と訴えると、ついに九郎の顔が歪んだ。目が揺れた。傷ついた。
まっすぐな九郎を傷つけるのはたやすい。こういう時に知る。弁慶はきっと……相当に傷をつけてきた。そして、きっとこれからも。
それでも良かった。安堵する。
「ありがとう、九郎」
……だけど、彼はすぐに、表情を一転させた。そしてぶんぶんと、首を大きく横に振った。
「九郎?」
「忘れてない。あの時のお前の顔、あんなに疲れ切った顔、忘れられるはずなかった。だから、俺はお前に会う資格はないと、何度も思った。それでも、やっぱり俺はここに来てよく分かった。俺はもうお前を失いたくない」
「だったら」
「俺はここに残る!」
凛と言った。
「……頑固ですね、君も」
「それはお前だ。そもそも、さっきから気になってたんだが、外に行けば平穏に暮らせるのか? そんな保障全くないじゃないか」
「少なくとも、京で厄介事に巻き込まれるよりはずっとマシです。僕が君を守ればいいだけですから」
「別にお前に守って欲しくない」
「僕が守りたいんです」
「だったら俺もだ、俺がお前を守る」
九郎の譲らないと言わんばかりにきっぱりと返す。けれど瞳はそれと裏腹にいくらか弱腰だった。それでも視線はまっすぐに弁慶を見つめている。
「……」
沈黙しつつ、つい目をそらしてしまった。
本当に頑固だ。まさか、弁慶が過去の事を、彼の傷を出してきても拒否するなんて。これでは自分の良心が痛んだだけだ。
まさか、弁慶がああまで言ったというのに拒否するなんて思わなかった。
長い年月を共にして、弁慶が散々に傷つけた彼は、それさえも糧にしてしまったというのだろうか。そんな彼にまっすぐに言われたら、今の弁慶に返す言葉などない。返せるはずがない。見つめることすらできていないのに。
「まだ納得しないのか」
「君こそ」
「……お前も随分変わったな。昔なら、どこでも危険なら、どこにいても一緒だから好きなところに行けばいい、とか言っていたじゃないか。鎌倉でも、京に来てからだって危険な策も使ったし厄介事に首を挟むのも好きだった」
「それは君でしょう?」
「そんなわけあるか。屋島では敵陣の真ん中に置いて行かれたし」
「でも結果的に助かった」
「屁理屈だ!」
「事実です」
九郎の言うとおり、弁慶も変わったのだろう、いつの間に、こんなに彼に焦がれていたのだろう。
「だから、どこでも危険なのが同じなら、俺は京がいい。評判のいい弁慶先生の助手はやりがいがありそうだ」
こんな風にまっすぐに恋われるだけで、
「弁慶、ここで共に生きよう」
それだけで、こんなにも無力だ。
「……」
それでも頷けはしなかった。弁慶はやはり九郎を危険から遠ざけておきたい。
けれど……そう押し付けるのもまた…………同じなのだろうか? 彼の兄がやろうとしているように、九郎の心を殺し、ひとがたのように扱うのと、
利用することの延長でしかないのだろうか?
惑いつつも、弁慶は九郎に視線を戻し、黙ったまま静かに見つめた。
九郎も口を一文字に閉じたまま弁慶をまっすぐ見ていた。睨んでいるような、探っているようにも見える。怯えているようにも見える。……読めない。
だから、というわけではないけれど、そんな彼に静かに弁慶は問う。
多分、これが最後の問いかけ。
「……逆に問いましょう、九郎。君こそどうしてそんなにここにこだわるんですか?」
それについて、ここまででも弁慶なりに推測できることはいくらかあった。
けれど、あえて九郎の口から聞いてみたかった。……納得したいんだろうな、と、自分でも気がついていた。ひそやかに自嘲する。
そんな弁慶に気付いてなど……いくら今の九郎でも、ないだろうけれど、彼の返答は、弁慶にとっては意外なものだった。
「兄上に、京に行きたい、と申し出たのは、お前がここにいるから、ただそれだけだった。けど、今は正直……お前には悪いが、それだけではなくなっている。俺は源氏の御曹司で、兄上の弟だ。だからこそ、戦の経験もないのに兄上に取り立ててもらえたし、先の、平家討伐という悲願においては大将の座をも与えていただけた。だったら、その俺が源氏を離れるというなら、それ相応の責を負うのが当然だと思ったんだ。もしかしたら、それがお前を苦しめることに……なるんだろうな、だがやはりそれは、受け入れなければならないと、俺は思う」
「……九郎」
意外だった。けれど、その返答はあまりにも九郎らしかった……だからこそ、弁慶が思い描いたりはできないものだった。あの鎌倉殿に対して、ちっとも弟らしい扱いなどしてくれなかった人に対して、義理だて、とは。
ふと、景時の顔が浮かんだ。九郎は変わったよ、と言った時の彼が。だったら……弁慶もそろそろ改めるべきなのだろうか、彼に対して過剰になってしまう自分を。
そろそろ覚悟する時なのだろうか、
「自信がないんです。目の前で君を失って、僕は正気を保っていられるのか、どうか」
今朝からそれを幾度となくその時の事を思っているだけで、たまらなくなるというのに?
「信用ないんだな」
「そういうわけでは、ないのですが」
言い淀む。言葉はまとまらなかった。自分の意はさておき、さっきの九郎の言葉を、彼のそういうところを否定することができなかった。
そんな弁慶につられたのか、さっきまでとはうってかわって、いくらか言葉を濁しながら九郎が続けた。
「あと、だな、理由はもうひとつあって」
「なんですか?」
「ああ……そう、ここに来る前は、お前に対しても責はあると思っていた。お前が苦しんでたことに気がつかなかったこともだが、そもそもやっぱり、俺の軍師だったお前が京の龍脈のことでそうも罪を感じるというなら、それはお前だけの問題じゃないと思ってた。俺たちの……いや、源氏の罪でもあるはずなんだ。だからお前が薬を配るというなら、俺も手伝うべきだと思ってた。お前に薬師は似合いだったし」
「それは、」
僕の罪は僕のもので君とは関係ない、だから九郎それは君の思い上がりで余計なお世話です、と、以前なら言っただろうし、昨日も言ったかもしれない、けれど言葉にならず、ただ、あたふたとしている彼を見上げてしまう。
鎌倉殿も九郎を駒としてしか見ていなかったけれど、弁慶だって変わらなかった筈なのに。
「だが、いやその……もちろん、今でもそう思ってる、思ってるぞ! だがそれより……京に久しぶりに戻ってきて、お前の顔を見たら、懐かしかったんだ。お前とここで過ごした頃を色々思い出して、やっぱりここがいいなと、思ってしまった、というのも、その、あることにはある。無責任かもしれないが、その為に、少しくらい危険でも構わないと思えるほどにはな。そもそも、お前がいるし」
「それはどういう」
「さっきも言った気がするが、お前と俺はずっと一緒にいて、それでどうにかなってきたんだ、だったらこれからも同じだ、ここで胸を張って生きよう」
そして九郎は膨れて、
「だからいい加減俺を信じろ」
と、子供っぽい口調で言った。
それを弁慶は見る。埃越しにゆっくりと仰ぎ見る。
「……そうか僕は」
「な、なんだ!?」
信じてなかったのか、彼を。
もちろん全く信頼していないとか、そういうわけではなかった、けれど、
弁慶はあまりにも、今まで好き勝手に道を選びすぎていたから……それはたしかに完全な自由ではなかった、九郎について源氏に属し、鎌倉殿の支配下にあるという制限はあった、でもそれだけだったし、そもそも源氏の、九郎の手をつかんだのはまぎれもなく、自分の意思だ。
だからつまり……無かったのだ、心から他人に同調して、委ねるということが。
けれど、
「……たしかに、ずっと一緒だった」
その短くはなく、単調でもなかった過去に、ずっと九郎はいた。
そして九郎も……彼がここまで生き抜くためにいくらかは弁慶が手助けした、と、判ずるのは高慢では無いと思う、でも、彼だって弁慶と同様、彼の意思できちんとここまで辿りついているんだ。
ひたむきで、まっすぐに、必死に駆け抜けてきた、それを誰よりも知っているのが弁慶だ。
そして、あんな危ない所にずっといたのに、どうにかなってきたのを、弁慶は誰よりも知っているはずだった。
だったら。
改めて九郎を見ると、いつのまにか彼はすっかりと警戒していた。いきなり調子を崩した弁慶に、次は何を言われるのだと身構えているのだろう。あんなに、見惚れるほどにこちらを説得していたというのに見る影もない。
なんだかおかしくなって、弁慶は声をあげて笑った。
「ふふっ」
「なんで笑う!?」
「なんでもないです……ふふっ、そうですね、今までもあんなに散々だったんだから、今更なのかもしれないですね」
そして、衣の裾を整えながら座りなおし、九郎に告げた。
「分かりました。口説かれました。九郎、ここに残りましょう」
言うなり、九郎の顔がみるみると笑顔に包まれていく。輝いていく。そんな彼の姿に生じた深い感情に目を細めてしまったのもつかの間。
「弁慶!」
唐突に九郎に抱きつかれた。……相変わらずに鋭敏な動きだ、と、場違いなことを思う自分さえ可笑しい気がした。けど、
「九郎、苦しい」
さすがに息ができないのはいただけない。九郎の胸の中で弁慶は抗議するも、九郎はどこ吹く風、どころか、一層強く弁慶を抱きしめてくるから困る。
「くろ」
暖かさについ目を閉じ体をゆだねたくなってしまうから、困る。
けどその時間は長くは続かなかった。九郎は、飛びづいてきた時と同じ勢いで弁慶から離れ、そしてめいいっぱいの笑顔で頷いた。
「すまない、つい嬉しくて」
やはり九郎にはそれが似合う、としみじみ思う。目が離れない。きっと、遠い過去の弁慶も、同じことを思って悲しみに沈む九郎に手を差しのべたのだろう。その手は偽りに塗れていた、でもこう思えばいくらか救わる気がした。
でも。
「ふふっ、だけど、喜ぶのはまだ早いかもしれないですよ」
そうときまったら、のんびりなどしていられない。改めて襟を正し背筋も伸ばした。
まるで軍師をしていた時が蘇るよう。
「やるなら徹底的にやりましょう」
「……お前、なんだか生き生きとしてきたな」
途端、なんだか楽しくなってきた。やはり平穏は似合わない性分なのだろう。でも役に立つなら、それでいいかとも思った。たとえ九郎がいささか呆れているように見えようとも。
「さあ、どうでしょうね。ところで九郎、まず僕は、君に謝らなければなりません。先ほど、源氏だの軍師だのはもう疲れました、と言いましたが、あれは嘘です」
「……は? いや、だってお前、昔それは」
「一年前の事を言いたいのでしょう? 君は覚えてないでしょうが、九郎、あれは君が勝手に勘違いしただけなんですよ。僕はあの時、たったの一言も嫌だとは言っていません。もちろんこれからも、きっと、ね。だからもし、君が源氏に戻りたいならば戻っても構わないですよ。……ああ、もっと早くに言えって話ですね。それは謝ります」
「いや、俺は兄上の元を離れたことを悔いてはないが……弁慶お前、それこそ嘘じゃないのか?」
「疑いますね」
「だって楽しそうだ」
「酷いですね。僕が嘘をつくのが大好きみたいじゃないですか」
「そこまでは言ってない! けど、だが、その、」
「分かってないな、九郎。嘘は種明かしする時が一番楽しいんですよ」
そして一番みじめなのだけれど、今は十分、楽しいと言えた。
すっかり息を吹き返した弁慶に、ため息を吐きたそうな顔を向けながらも、諦めたのだろう、先を促してきた。
「……それで、お前は今度は何を企んでいるんだ?」
「企むなんて、物騒な」
弁慶もかもしれない、けれど、九郎もすっかりと以前の調子だった。自分たちはやはりこうして顔を合わせてあれこれ言いあうのが一番なのかもしれない。
それこそ、
「ただ、さっき君がいい事を言ったから、それを拝借しようと思っただけですよ」
「いい事?
「ええ、言ったでしょう? いつだって同じだった、危なっかしい事ばかりしてきた、って。だから」
九郎の言うところの、悪企み。
「待て!」
言葉で察したのか、九郎は弁慶を両手と共に止めた。
「お前、まさか」
「さあ、どうでしょう。君が同じことを考えてくれたのなら嬉しいのだけど」
「茶化すな! だが、さすがにそんな目立つこと、俺はできんぞ!?」
「ええ、そもそも昼間にそんなことするはずないじゃないですか。源氏の御曹司の名が泣きますよ」
「当たり前だ!! だからって夜ならいいって問題でもないだろう」
弁慶の両肩に手を置いたまま、九郎はがっくりとうなだれる。今は無い長い髪も一緒にうなだれているように見えて、弁慶は手を伸ばし、さらさらと撫でた。
「僕は君を信じます。けれど、僕にだって譲りたくないものがある。九郎、やはり縮こまっているわけにはいかない。君がただの薬師助手なんて、似合わなすぎて笑えもしない」
「その結果が、夜の悪者退治か?」
「ええ。好きでしょう? そういうの」
「昔と一緒にするな。そもそもやりたいのはお前の方じゃないのか? さっきは戦は嫌だって言ってたくせに」
「くどいですね。まだ疑ってるんですか?」
「当たり前だろう。俺はお前が好きなんだからな」
顔をあげながらそんなことを言う九郎に、弁慶は驚いた。けどそれは一瞬だ。すぐに唇は笑みを象る。
「どうせなら、もっと他のことで騙されてほしいな」
「……たとえば?」
「さあ」
静かに口づけを交わしながら、想いを馳せる。願わくば、この先もずっと彼といられるように、と。
すべて流されてしまった罪のかわりに垣間見えた景色は、10年前に夢見たそれと重なって見えた。
後付けでした。
一年前に弁慶が源氏はもうやだって言った(と、少なくとも九郎は思っていた)
ならばむしろ、九郎が兄上からお役目を貰っていた=まだ源氏、の話は、
この前の日の話である「罪の後先(後)」の中で言ってるんじゃない?
って、自分でも書いてて思ったんですが、
そこは後付けだから仕方ないな、と、了承していただければと、思います。
鎌倉殿がどこまで日本制覇をしたいのかとか、
九郎をどう思っているのかとか、
弁慶さんがどこまで鎌倉殿のことを見抜けているのか、私には未だによく分かりません、
けど今回は、やっぱりここまでの話に合わせた感じで、九郎を追いだしてどうのこうのまで本気で考えてはいない、いわゆる、九郎が官位を受けることの意味を見抜けてない感じで書いちゃってみました。
各種平泉が絡む話の弁慶さんだったらまたちょっと違う話になったかなとも思います。
個人的には見抜けてない方が好きです、という思いはある。
(JUN/2010-10/06/2011)