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 朝から続いていた雨は止んだ。
 途端、まるで待ち構えていたかのように空を覆っていた厚い雲も割れて、重い光が弁慶を照らす。晩春の京の街をも包む。それだけで色彩は一変、輝きを見せる。
 特に、あちこちに広がった水たまりが、空の太陽ほどにまばゆくて目を細める。川に沿って抜ける風が弁慶の髪を、足元の水面を撫でればますますだ。広がる波紋はそれぞれに、めいいっぱいに光を描く。雨に打たれて落ちたアヤメやシャクナゲ、遅咲きのツツジの色とりどりの花びらを乗せて揺らす。まるで今まで眠っていた春景色が、地面から顔を出したかのようだった。
 けれど、それらを躊躇いなく踏み抜きながら、弁慶は早足で過ぎてゆく。
 水たまりは輝きながらもみるみると、目に見えて分かるほどの速さで消えてゆくけれど、未だに道はぬかるんでいて、弁慶の足をずぶりと沈める。何度か滑ったりもした。それでも足を止めることはない。羽織の袖に風を受けながらまっすぐに家路を辿る。そのために、少し早めに診療所を閉めてしまったのだから、ゆっくりなどしていられない。
 逸る気持ちに急きたてられる。
 こんな日は、無性に彼と夜を過ごしたくなる。

 落ちる光を、雲の切れ目から覗く青を、人々もまちまちに見上げていた。誰もかれもが強すぎる光を手のひらで遮りながら、けれど、待ちわびていたと言わんばかりに明るい顔で見上げていた。
 降雨はたったの一日。それきりぶりの青。梅雨には少しだけ早い時期、雨を疎むにしては大げさだ、と、昔の弁慶なら思ったことだろう。けれど今はそんな人々の姿に満たされる。
 雨が嫌いなんじゃない。それは理。あの青を愛しいと思う、その温かさを知っている、ただそれだけで。


 京の街が穢れで爛れきっていたことがあった。
 まだたったの2年前の話だ。陰陽は崩れ、景色は沈み、気は淀み、すべてはそれに苛まれ、冒され、病み、光を、正義を見失い、多くのものはその現状さえ気付かずに、ゆえに出口など探すこともなくただ漂っていた。
 全てが弁慶のせいではなかった、けれど拍車をかけたのは自分だった、よって弁慶にとっての源氏の一連の戦いは、彼らを救うため以外のなにものでもなかった。
 でも、それも終わった。すべて終わった。呪詛の束縛は消え、白い神子と共にまるで雲のように青い空へとけた。
 あの日から少しずつ街は活気を取り戻しつつある、そんな気がしている。この春は暖かで、花は咲き乱れ、鳥は可愛らしい声で鳴きながら、翼を広げめいいっぱいに羽ばたき広い青空へと吸い込まれてゆく。水も枯れない、米や麦などのたくわえもたっぷり残っている。取り戻さなければならなかった景色がそこにあった。そして、彼と目指していた景色がそこにあった。
 それでも戻らぬものもあるだろう、だから忘れたりなど、するはずもないけれど、今はもう願うだけ。ずっと刃を携えて生きてきた弁慶たちはこうなると無力で、できることといえば、朔の元に現れた小さな黒き龍を見守ることくらいしかなかった。けれど、それでいいのだと、そこから先は龍の神の領域で、だから自分たちはこうしてら空を見上げながら街で生きていけばいいのだと、彼が罪を奪い去り意味を変えてしまった今、思える。



 六条堀川の屋敷へと戻ると、広い庭には十数人の若者たちがいて、使い古された木刀や弓を片づけたり、体を拭いたり身を整えたりしていた。
 剣術道場、というものがあるのだと、弁慶たちに教えてくれたのはかつての仲間たちだった。
 元々は、なんでもない世間話で出た言葉……しかも、弁慶や彼らが京に来てまだ間もないころ、それこそ、教えてくれた彼女がまだ懸命に花を立つ剣を習得しようとしていたころに、ちらりと零れたなにげないものでしかなかった。
 けれど館の主はそれを覚えていたらしい。
 彼は、最初こそ弁慶の薬の調合を手伝ったりしていたけれど、弁慶も、薬師の生業を、元々そう大きくやっていたわけではなかったので、すぐに暇を持て余すようになり……ここを開いた。
 もしかしたら、最初に彼女から聞いた時からずっと興味を持っていたのかもしれない。はたまた、彼のことだから何かのきっかけで唐突に思い出しただけかもしれないけれど、
なんにせよ、きっと提案した彼女たちが見れば、似合いだと喜んでくれるだろう、と、弁慶は思っている。
 弁慶自身もそう思っていた。厳しいし、口も悪いが人好きもするし真面目で面倒見もいい彼は、いい師となるだろう。既になっている、と言えるかもしれない。
 これもまた、そうであれという願望の見せる幻、都合のいい見解なのかもしれないけれど、少なくとも彼は、3年前に源氏の大将として軍を任された時よりもよほどいい顔をしていた。
 そんな生業が、邸の主の今の表向きの顔だった。
 実際彼はうまくやっている。特に、「俺の先生は鬼だったんだぞ」と言いながら、望むものは身分を問わずに誰だろうと招いているので、彼が源氏の御曹司である風にはとても見えないらしい、と、いつだかかつて共に八葉として過ごした仲間が言っていた。現に子弟の中にも師の素性を知らないものが混じっている。そのどこまでが計算なのかは知らないけれど、たくましくなったものだ、と素直に思う。まさかここまでやるなんて。10代の頃から彼を知る弁慶からすれば、花のほころびに似た感情が浮かぶ。それは安堵か追憶か、もっと他の感情か。

 庭の中ほどまで歩を進めながら、弁慶はあたりを見回す。
 けれどそこにいつもいるはずの師範の姿は既になかった。
 珍しい事だ。どうしたのだろう、と、誰かを捕まえて話を聞いてみようと近づいたら、気付いた子弟の一人が先に弁慶を呼んだ。
「弁慶殿、おかえりなさい」
「ただいま戻りました。今日も励んでいたようですね」
「はい。いつも通りにしごかれました。おかげで腕がもう上がりません。弁慶殿から先生に、もう少し手加減してくれるようにと言ってください」
「まさか、僕の言葉を聞く彼じゃないでしょう。ですが、そうですね、勝負を挑んでみたらどうですか? 見事君たちが勝利すれば条件を飲んでくれるかもしれないですよ?」
「それは無理です……」
 本気でげっそりとした様子の若者に、弁慶はなんだか懐かしくなって……彼女を思い出して笑みをこぼしてしまう。そんな弁慶を恨めしそうに見上げる様子もよく似ていた。
「ところで、君にお聞きしたいことがあるんですが……」
「分かってますよ、先生ですね。ついさっきまでここにいたんですが、待ちきれない、と、いつものように勢いよく……」


 話を早々に切り上げ、屋敷にあがり身支度を整えてから、弁慶は急ぎ来た道を戻る。
 あれからどれだけたっただろうか、そう長く六条堀川にいたつもりもなかったけれど、空は朱に染まっていたし、道もほとんど乾いてしまっていて、弁慶が足を落とすたびにふわり、と、先ほどまで水たまりに浮いていた花弁が雪のように踊る。
 走りやすいからか、更に気が逸っているからか、先ほどよりもなお早く弁慶は景色を横切ってゆく。薙刀の長さをもどかしく感じた。道沿いの緑に残る雨粒が、低い所からの光にじんわりと輝くのを愛でることもできなかった。
 だからといって、それらを気にかけ歩みを緩めることは更になかった。
 まったく、早く会いたくて急ぎ戻ったというのに、まさか行き違いに、しかも先を越されているとは思わなかった。
 弁慶も、そして彼にも特別なにか緊急のことがあったわけでもないというのに、こんなことになるなんて。まさか彼も同じことを考えていたのだろうか? だとしたら少し悔しい気がする……などとと言ったら彼はまた笑うだろうか。否、きっとそこに落ちている花びらのような皺を眉間に寄せ、負けず嫌いはいい加減直せ、とでも言うのだろう。
 弁慶からすれば、それはますます不本意だったけれど、その時は、待っていてくれなかった君が悪い、君こそ短気を直したらどうですか、とでも言い返せばいいだろう。

 それにしても懐かしい。足音は早まる。後を追う外套は弁慶の背に落ちることなくたなびく。
 止んだ雨、すぐに割れた雲。花落ちた道も、あっという間に雨を空へ返してしまった道も。
 景色は茜に染まってしまった。もうじき夜の闇が降る。
 そうしたら、最初に出会ったあの日と、こんなにも似ていると思ってしまう。

 思い出なんて言葉は柄じゃないけれど、いつしかそれは大切な記憶となっていた。出会いは偶然、再会も偶然、だったというのに、あの夜のことはどうしてか鮮明だった。龍神の神子と共にこの地に戻ってきた時も確かに覚えていた。
 ……だというのに、一年前に彼が京へ、弁慶のところへ来たと同時に、なにかの枷が外れたかのようにあっさりと消えて、最近はずっと思いだせずにいた。
 今でもそうだ。記憶をいくら辿れど、もはやぼんやりとした、今弁慶たちが暮らす京の景色を無彩色にしたような、そんなものを思い浮かべることしかできなかったのだけれど、
それでも、言葉としては覚えていた。だから、同じ語句で形成される、目の前に広がるこの景色はあの日と同じなのだと、遠く曖昧な記憶が伝える。
 二度と象ることのできないと思っていたものが展開されていると揺り動かす。
 同時に、忘却に沈んでいたあの日の感情が色を成し、目の前に広がり、蘇る。
 それでも、全ては偽りだ。過去は過去、今は今。この場所を形成するものに、あの日と同じものは外郭以外に存在しない。弁慶でさえも違うもの。そんなの当然だと見向きもしなかった頃もあった。失われたことに打ちひしがれた頃もあった。
 けれど今日はこの上なく嬉しい。
 万物は廻る。それは五行の理で、祈りだ。
 空から陽が打てば雨水は消えて風になる。それは山を駆け昇り巻き上げられては雲となり雷鳴となり地面に還り、火をおこす。木々は灰となって空へ舞い上がってゆくだろう。きっとどこまでも高く、人には届かないほど、高い空へ。星のきらめきを受け取って、雨粒となってまたここに、この身の上に落ちるのだろう。
 すべては廻る。白い龍の力でまわりまわりつづけてゆく。




 遠くから名前を呼ばれた。よく知る大きな橋の上で、彼は大きく手を振っていた。
 その背には青。雨雲はすっかりと姿を消していた。夜の帳を告げる一面の深い青。
 弁慶も大きく手を振った。
 じきに日は落ち夜が来る。既に顔を覗かせている満月が二人を照らすだろう。星が瞬き導いてくれるだろう。
 心が躍り、血が騒いだ。きっと今夜は極上の夜が舞い降りる。
 季節は巡り、時も廻る。二人の日々もきっと巡り続ける。




(23/05/2009-10/06/2011)

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サソ