そうして帰路を辿る。行きと打って変わって足取りは重い。
状況は思っていたよりはるかに悪かった。性質が悪かった。
確かに鎌倉殿は九郎を殺しはしないだろう、けれど、景時が告げた事実は、がんじがらめに縛りつけられた状況は、あまりにも九郎が昨日話していた状況からは遠いように見えた。
だから手を打たなければならない、けれど、どうするのが最善なのか、平穏に慣れすぎた頭では考えをまとめることはできないけれど、分かっているのことがひとつある。
京に留まるわけにはいかなかった。彼を再びあの境遇へと突き落とすわけにはいかなかった。
償いだなんだと言って一年前に九郎を傷つけやってきた京の街を捨てることになろうとも、
九郎の道を捻じ曲げさせたことが全くの無駄になってしまおうとも、それでも。
何をしているのだろう、と、自嘲する。あまりに愚かで行き当たりばったりだ。けれど、たったの一夜の邂逅は、身勝手にも弁慶の心を変えてしまった。
だから、生き延びる。彼の手を取り、この街を出る。
それは、いくらかの懐かしさを弁慶に与えた。遠い遠い記憶といくらか重なった。ただ、二人を待ちうけるこれからの彩度だけが違っていた。
弁慶が戻ると、家中の至るところが盛大に散らかっていた。
「……これは一体」
何事か、と、立ち尽くしてしまった弁慶に、奥からひょいと、仏像を抱えた九郎が顔をだした。
「おかえり弁慶」
「え? あ、ええ、ただいま戻りました」
彼がいるのは分かっていたのに……出迎えの言葉にいささか驚いて身構えてしまった。幸い九郎はそれに気付く前に頭を引っ込めてしまったようだ。
別に、昔のようにたくらみごとをしているわけではない、気付かれて困ることはなかったけれど……一人暮らしが長かったから、とか、やはり髪を切った彼の姿に慣れてない、という理由で動揺を顔に出すのは、いささか罰が悪いような気がした。少なくとも今は。
ひそやかに軽い深呼吸をした後、弁慶は九郎のいる部屋へと向かいながら改めて問いかけた。
「ところで九郎、君は何を始めたんです?」
「見て分からないか? 片づけだ」
「どうみても、散らかしているだけにしか見えないですが」
「今までお前があまりにも散らかしてたからこうでもしないと整頓できん!」
九郎は呆れ顔だったけれど、それでも彼の言い分は全く意味が分からなった。とはいえ都合はいい。
「ふふっ、丁度よかったかな」
足の踏み場を慎重に選びながら奥へ入り、草履を脱ぎ座敷にあがった弁慶の視線の先で、素直な九郎は首をかしげ、
「なにが?」
「引っ越ししなければいけませんからね」
「そっ、そうだな!」
大いに照れた。
あっさりと話が通じてしまった。
まさか、同じことを考えていたのだろうか? と一瞬、驚くけれど、そうか九郎は六条堀川に移り住むつもりなのだろう。互いの大いなる勘違いに、弁慶はにこりと微笑んで、九郎の方を修正した。
「ええ。一緒に京を出ましょう」
途端、素直な九郎は手を止め、きょとんと弁慶を見た。
「は? 意味が分か」
「そのままの意味です。どこか遠くで、誰も知らないところで暮らしましょう、二人きりで」
それはまるで求婚だ、けれど、今度は九郎は照れはしなかった。変わりに、怪訝な顔で問い返す。
「どういう意味だ」
以前なら、高く結いあげた髪が震えそうな声音だった。けれどそれはもう無く、
そして弁慶も、もはや何にも縛られていない。
「君がここへ来た経緯を、景時から詳しく聞きました。鎌倉殿から、院について探るように、平泉と熊野を抑え込むよう言われたそうですね。ですが九郎、それは危険です。君も言っていたし、見て来たでしょう? 鎌倉殿は甘い方ではない、僕はもう君を失いたくないんです、だから」
きっぱりと、歯に衣着せずに本音で言った。だというのに。
「お前は……相変わらずだな」
九郎は何故か微笑んだ。あまりにもさらりと嬉しそうに笑った。
彼の言葉だけ聞いていたなら、九郎は弁慶の提案を受け入れたのか、と思ったかもしれない。けれど目を細め、まるで懐かしみはしゃぐような彼の姿は、噛み合わない。違和感しかない。
ゆえに、今度は弁慶がどういう意味だ、と問い返そうと口を開く、
ものの、それより先に九郎が言い切った。
「大丈夫だ弁慶、俺は分かっている」
「何を」
「ここにいるのが一番安心だってことを」
「!?」
目を見開いた。息を飲む。九郎はそれをどこか満足そうに見詰めながら抱えていた巻物を置き向き直る。
「俺が余程のことをしない限り、京に兄上は攻めて来ない。兄上が今一番欲しているのは京の民の心だ。それをむざむざつぶしにくるような方ではない、という話だろう?」
続けた言葉も意外だった。あっけにとられた、と言っても過言ではない。
まさか、九郎の口からそんな言葉が零れるなんて。
……昨日、たしかに九郎は兄の事をいささか疑っていた。それでも自分の口から、こうもはっきりと、兄が攻めてくる可能性を口にするとは思ってもみなかったのだ。ただでさえ仲間のことは信じずにはいられない九郎が、ましてや、あんなに慕っていた兄に対して。
それでも、弁慶は近づいてくる彼を見上げつつ、ゆったりと微笑んだ。
けれどもちろん、九郎を褒めるためではなくて、
「ええ、それは確かに一理あります。けれど、すべてではない。状況が変われば、君だって」
むしろ、見極めるため。
不可解ささえ感じつつも、弁慶は先に問いかける。が。
それをも九郎は簡単に遮った。
「そうだろうな。俺だって以前、兄の命令で京にいた義仲殿を討った。義仲殿も最初は同じものを目指していた方だった。だから俺だって同じだと言われればそうかもしれない。だが、やはりこの期に及んでの源氏の身内同士の争いなど、恥だ。武家の頂点としての示しがつかない。たとえば……故人を悪く言いたくはないが、義仲殿のように、京の人をも敵に回せば別かもしれない。だが俺はああはならない」
躊躇いもなかった。すらすらと流れる言葉。
「それに、京で源氏がごたごたを起こせば院に余計な借りをつくことになる。それも、兄上の良しとするところではない」
まるで誰かの、景時の入れ知恵したのではないかと思えるほどの……だとしても、こんなにも流暢に語る九郎はもはや、弁慶の知る九郎ではなかった。
「どうした?」
「まさか、君がそこまで分かっているとは、思いませんでした」
色々と。兄の性格や真意、それに、自分の価値を。
「誰のせいだ、誰の」
出鼻をくじかれた形となった弁慶に、隣にすとんと腰をおろしながら九郎はなおも続けた。
「それに、平泉や熊野が休戦に応じたのは、俺がいるからだろう? 多分、院と平泉、熊野が手を組んだところで、もはや兄上には敵わない。それでも戦となれば、兄上が武士の世を作るのに大分不利な展開になるだろ?」
「それはそうでしょうね」
「そもそも兄上の悲願は、武士を束ねる全権を院から賜ることだ。しかも、将来反発を生まぬよう、正式に。だからやはり俺を追いまわしたり、御館やヒノエを相手にして、院に隙をみせるわけにはいかないんだ。兄上を討てという名目で、御館に全権を渡されたりしたらそれこそ終わりだからな。だから、俺にとって状況は悪くないと思う。ここが一番堅いだろう」
「それが、君の考えですか?」
「ああ」
弁慶の問いにもしっかりと頷いた。その目はまるで愛おしそうにこちらを見ていて、調子が狂う。胸が詰まる。
九郎は変わった、と景時は言っていた。弁慶も昨日の段階で、いくらか垣間見てはいた。なにか腹をくくってきた印象はあった。けれど……ここまで変わっていたというのか? 弁慶はこんなにも九郎を変えてしまっただろうか? そこまで彼を傷つけてしまったのだろうか?
黙ってしまった弁慶を、九郎は静かに見ていた。
まっすぐで正しい瞳だった。
けれどこのまま黙るわけには当然、いかなかった。
「本当に随分と、君は変わったみたいですね。ですが、そこまで分かっているなら話は早い。九郎、たしかに君の言うとおり、今の君には利用価値があるみたいだ。京にいれば僕たちは生きながらえることができるでしょう」
実際、九郎のいうとおりかなり状況はよかった。九郎の割に、否、そういうところが彼らしい、とも言えるのだけれど、随分と好条件でここに来ていた。
「けれど、それは今のうちだけです」
もし仮に、鎌倉殿が求心力を、支配力を無くしたら。
「この拮抗した状況は、けして長く続かない。いつ、どこで君の立ち位置が変わり、鎌倉から見限られるとも限らない。分かっているんですか? つまり、今の君は10年前と同じ、言葉通りに『生かされている』だけですよ?」
はっきりと覚えている。
もう10年以上も前、寺に預けられ、人質となっていた身を疎んでばかりだった九郎。幾重に屈曲した身の上は彼の存在を宙釣りにした。ゆえに人に怯え迷ってばかりだった、その事実にすら気付けずに闇雲にもがいてばかりだった彼を。
今ここで、京に残ることを選んだら、その頃と同じになってしまう。自由は偽りで、何をするにも怯え、範囲を決められ、最後には望まぬ事を押しつけられるだろう。命すらも他人の手のひらの上。いつ終わりを定められるかも分からぬ牢獄。
そんなものに幽閉されるくらいなら、外の方がよほどましだ。命なら弁慶が守って見せる。けれどここにいたら九郎の心が失われてしまう。
だというのに、九郎はまるで他人事のようにぼんやりと言った。
「そうだろうな」
「君は……!」
弁慶は焦れる。やはり、九郎は分かっていない、君は甘い、と罵りたくなって身を乗り出す。けれど、肩を押し返してきたてのひらと、紡がれた言葉は、弁慶とは対称的に穏やかだった。
「丁度いい。お前にも危害が及ぶかもしれんから、話さなければならないと思っていたんだ」
「先に僕の話を聞きなさい」
「そう急くな。関係ある話だ」
「……分かりました、聞きましょうか」
怪訝ながらも仕方なく了承し、座りなおした弁慶に、九郎は懐かしむように語り始めた。
「昔、まだ京や平泉にいた頃、俺がなんとしても成さねばならなかったことがふたつあった。ひとつは、一族のために平家を倒すこと。そしてもうひとつは、兄上の作る新しい武士の世をお助けすること。俺はその為に誰よりも兄上の近くにいたかった。誰よりも兄上の役に立ちたかった。焦っていた。ずっとそうじゃなきゃ駄目だと思ってた」
「ええ」
それが弁慶の知る九郎の全てだった。弁慶が共に過ごした九郎の全てだった。
「……だが、昨日も話したが、次第に戦は落ち着いてきて、俺の居場所もなくなっていった。途端、何をすればいいのか分からなくなって、お前の事ばかり考えて、どうしても会いたくなって、兄上に暇をいただくことにした。ただではすまないかもしれない、と思っていた。でも、そんな俺に兄上は、思いがけない事を言ったんだ。院へのけん制になってくれ、平泉に親書を書いてくれ、と」
九郎の顔がこちらを向いた。
「俺は、それがすごく嬉しかった」
きらきらと、瞳が淡く差し込む光を映して輝いていた。
「多分、利用されているんだろう、とは思った。……情けないが、屋島の一件以来、そういうことをたまに、考えるようになった。それでも、俺がそうすることで戦がおきないのなら、それは、かけがえのないことに思ったんだ」
そして穏やかに紡がれた言葉はそこで途絶えた。
話は終わりなのだろうか。だったら、と、弁慶は静かに彼を見上げ、
「つまり君が、鎌倉と平泉、熊野、それに京との橋渡しをすると」
「ああ、そうだ」
「驚いた。人と人との間に入るなんて、君がそんなことできると思っているんですか? 君がひとつ判断を誤れば、一気に崩れ戦乱になるかもしれないというのに?」
冷ややかに返した。
「そもそも、君はさっき、今熊野や平泉と戦をするわけにはいかないから、君を使者に出した、だから君は京にいるのがなにより安全だ、と言ったけれど、それは違う。……たしかに、君を陥れる為に、京でもめ事を起こすのは得策ではない。院にも、平泉や熊野にも背中を見せることになりかねない。けれど、それと鎌倉が、特に平泉を見逃すというのは全く別の話です。そうやって君を使って御館だけでなく院までも油断させておいて、準備を整え一気に攻め込む算段なのかもしれない。だとしたら、君は善意のつもりだったかもしれないけれど、彼らを騙したことになる。つまり、君の平穏と引き換えに、彼らを盾に、もっと他の誰かをも犠牲にしているということなんです。その傲慢さはいつか、取り返しのつかないことを生みかねないと分かっているんですか?」
弁慶の言葉に、九郎は一瞬、たじろいだ。けれどその間はごく短い。すぐにすんなりと頷いた。
「そう言われれば、そうなる」
けれどそれすらもまた、弁慶からすれば少し意外だった。前の九郎だったら、もっと、
「……怒らないんですね、兄上を侮辱するなとか、俺を見くびるな、とか」
とか言っただろうに。調子が狂う。
挙句、九郎は更に突拍子もないことを言った。
「どっちかといえば、昨日もこんなようなことがあったな、と思ってた。お前を口説くのは大変だ」
「口説……」
挑発は流され、返り討ち。こういうのをカウンターという、とか望美が言っていただろうか。さすがの弁慶も困惑を表に出さずにはいられなかった。
九郎と話せば話すほど、自分が短慮である気がしてきた。思考の基準が相変わらずに理解できない。さっきは一緒に住むと言っただけで照れたくせに。こんな男のどこがそんなにも、これまでの生活を捨てても構わないと思うほどに好きなのだろう? ……自覚くらいはいい加減できている。そんなところが愛おしいのだ。
けれど同時に腹立たしい。口説いているというならこちらの方だ。
どうして現実を受け入れない。そんなところばかり変わってなくて、随分と都合がいい、と嫌味のひとつも言いたくなった。むしろ前より少しは分かるようになったから、更に性質が悪い。
「確かに、昨日の気持ちを思い出してきました。まったく、君は僕の目算を踏みにじるのが昔から得意だった」
「お前は勝手にあれこれ考えすぎなだけだ」
けれど、弁慶が腹を立てれば立てるほど、九郎の顔が崩れていく。気のせいでなければ、随分と幸せそうに。
「……何がそんなにおかしいんですか」
「懐かしいな、って思ってた。やっぱり俺はここに来てよかった」
「……」
まさか、これも作戦のうちなのだろうか? いや、これはいつもの事だった、気がする。
記憶はあまりにも曖昧だ。良くも悪くも、綺麗なものばかりが心に残っては弁慶を追いこみ、時に慰めた。ただそれだけの、まるでなにかの結晶のように、美しい見目をしているなと、無感情に眺めるだけのものでしかなく、懐かしい、とまでは未だ、思えない。