・PSP版(with十六夜記)は未プレイです
起床から半刻ほど後、弁慶は静かに身支度をして、家を出た。
九郎には……彼の事だから、弁慶が思いもしないような心配をするかもしれない、と、書き置きをしてきたし、薙刀も置いてきたので、多分平気だろう。それでも長居するつもりはあまりなかった。再会を懐かしめるか分からないし、そもそも、きっと彼は多忙だ。
街は朝から賑わっていた。慌ただく行き交う人々の間をぬいながら弁慶は歩く。なんとなく足音を忍ばせてしまうのはきっと、昔の癖というものなのだろう。
そうして目指すところに向かいつつも、それでも、
本当にこれでよかったのだろうか、という思いは消えることはなかった。
昨日九郎があんなにも言葉を尽くしてくれたのに、否、だからこそ弁慶は未だにいくらかの躊躇いを感じていた。
迷いというよりは……畏れ。けれど、あれだけの事を九郎に言わせ、あれだけ九郎を欲する己を知り、そもそも彼に全てを捨てさせてしまった自分が今更、再び彼と辿るべきを重ねてしまったことを悔いるなど間違いだ……と、思ってしまうのはただ、自己を正当化しているだけなのかもしれない。どちらにしても、
弁慶はざくざくと砂利を踏みしめながら懐かしい道を歩く。
懐かしい。
この道自体は、京に一人住むようになってからも何度か通っていた、けれどその時は無感動だった。行き先があの家だというだけで、こんなにも違うとは。自分がそんな感傷を持ち合わせているとは思わなかった。
あの頃、冬も春も夏も、終わりを告げた秋でさえもこの道は賑やかだった。でも、彩っていた彼らはもういない。せめて自分と九郎の二人分だけでもあのころを取り戻すために、辿る。
門をくぐり、番兵に名を名乗ろうとしたところで、そういえばここの主に会うべく肩書きをもう失っていることを思い出し、いささか躊躇したけれど、幸いにして相手が覚えていてくれたらしく、すんなりと通された。
その上主も在宅だったらしい。京に来ているという話は噂程度に耳にしていたものの、彼は相当に、おそらく弁慶が知っていた頃よりも更に忙しいはずだし、当然に伺いなどたててはいなかったから、これは相当に幸運だった。
弁慶の名にそれほど驚いたのだろうか、彼は……景時はすぐに、足音を立てながら駆けこんできた。顔を見るなり感嘆の声をあげた。
「弁慶!」
「突然訪問してしまってすみません。久しぶりですね。……そんなに驚きましたか?」
「そりゃそうだよ〜。君がここに来るの、望美ちゃんたちが帰ってからはじめてじゃない?」
「そうですね。一年以上ぶり、かな? それでも君なら、予想してたかなと思っていました」
「……うん、そのうち来るかな〜とは思ってたけどね、それでも驚くよ。って、話は後にしようか。とりあえずあがって」
「ありがとうございます」
せわしなく踵を返した景時を弁慶も追う。屋敷もやはり、記憶よりも少しさびしい。それでも麗らかな風は柔らかく、庭にとまる鳥のさえずりは可憐で、相変わらずに気持ちのいい場所だった。
通されたのは奥まった部屋だった。もちろん、何度も通されたことのある馴染みの部屋だ。主に、九郎と三人で話をするときに使った。
景時が腰をおろす。その向かいにゆっくりと弁慶も座る。
縁側とは打って変わって、薄暗い部屋だった。闇ではないけれど、庭から差し込む春の光が障子に遮られているせいだ。それも相俟って、景時の表情は暗く見えた。
「それで、用件はなにかな」
向かい合ってからそう間を開けずに景時が切りだした。
「ふふっ、君も変わりませんね」
「そう?」
「ええ」
彼の口調は砕けていた。けれど、口調だけだった。
心配事があるときは気配に、なにより声音に出るのはそのままだった。特に、それが特段気にかけている相手のことだとなおさら。たとえば、望美とか、譲とか、
この場合は、
「今日お邪魔したのは、僕がいなくなった後の源氏の事をお聞きしたいからです」
九郎とか。
弁慶の言葉に、景時は大げさに驚いた。
「ええっ源氏の話? いや……う〜んたしかに君は昔の仲間だけど、今は違うからさ。オレも迂闊に、あんまり詳しい事喋れないんだけどな〜」
「そこを、どうかお願いします。僕、人望がないから景時くらいしか頼れる人いないんですよ」
「そう言われてもね〜」
景時は渋っていたけど、どうみても振りだけだった。ただ、何から話せばいいのか選んでるだけのようだった。そもそも弁慶が切りだした内容についても、やはり、と目は言っていた。
「ですが、僕は知っていなければいけないでしょう。九郎がどうして京に来ることができたのかを。……一介の薬師として、ね」
だから、弁慶の言葉にも、目を細めてこちらを静かに見つめ返しただけだった。
「九郎から聞いてないの?」
「戦で負けたとは聞きました。その時に景時に随分と良くしてもらったという話も。けれど、それだけです」
九郎の意思は別として、
あの鎌倉殿が、九郎をたった一度の敗戦ごときで手放すとはとうてい思えなかった。弟としての温情とか、そういうものを持つ人ではない。むしろあれだけ盲目に兄上と慕う九郎を利用しない手はないと思う、少なくとも弁慶ならそうするし……そうした。それだけの価値が九郎にはある、と思うのは、もしかしたら弁慶の贔屓目なのかもしれないけれど。
それでも、景時の妹の朔を……いくら黒龍の神子とはいえ、当時龍を失い満足な力を持っていなかった彼女さえも戦場に駆り立てたあの人が、もはや武士の世は目前で、それを統べるのが源氏なのが目に見えていたとしても、否、むしろだからこそ九郎を許すとは思えなかった。
兄は弟をけして過大評価しなかったけれど、過小評価もしなかった。
特に、他の場所ならばまだしも、京に住むなどあり得ない。いくら源氏の武士団も集っているとはいえ、京には頼朝の最大の敵ともいえる後白河院がいる。普通なら、接近を危惧するはずなのだ。
という弁慶の疑問など当然お見通しなはずの景時は、なおも沈黙を続けた。腕を組む。そうも話し難い事だと、態度で示す。
「うーん……まあいいか。でも、長い話になるよ?」
「ええ。もちろん。僕がお願いしたんですから」
「分かった」
仕方ないな、という風に頷くと、景時は姿勢を改め、弁慶を見た。
「だけど弁慶、最初にこれだけは言わせて欲しい。九郎は変わったよ」
「いくらかは、そうみたいですね」
「ううん、多分、君が思っているより変わってる。それでも、九郎がどこまで知っているのかはオレには分からない。それを踏まえて聞いてね」
そしてようやく、重くはあれど口を開き語り始めてくれた。
「君がいなくなった後、鎌倉殿は各地の平定に乗り出した。特に、平家の力が強かった西側。九郎を大将として、四国、西海、と、どんどんと手中に治めていった。これくらいは、知ってるよね」
「ええ」
「そんな時、さっき弁慶も言ってたように、九郎は突然負けた。源氏の誰もが驚くほどの惨敗だった。九郎に限って、何か体調でも悪かったのだろうか、と、みんな心配するほどだった。でも、いくらもはや鎌倉の天下だからって、それを許す鎌倉殿ではないよね」
「それを、景時が救ってくれた」
「オレも最初は、まさか九郎が、って思ったからね。だから今回のことだけで九郎を処断するようなことはやめてくれと鎌倉殿に進言つもりだったんだ。でも、なんとなく気付いちゃったんだよね、九郎の心はすっかりと戦場から離れてた。もちろん、九郎の鎌倉殿への忠誠は本当だよ。それは今でもあるんじゃないかな。でも心ここにあらずで、見てて、だったらせめて……いや、なんでもない。だから、まっ、ちょっとしたおせっかいを焼きたくなっちゃった、ってところかな」
「君は本当に、気が回りすぎですね」
「それは買被りだね」
目を細めて景時はなんでもなく返した。その目に浮かぶのは年上の、言うなれば兄のような優しさか、もしくは他の……昔、時折垣間見た彼の辛そうな顔に起因するのか。
「そんな感じで、九郎は偶然命を拾った。あとは、全部九郎の判断の結果だよ。源氏を離れる決断をしたのも九郎。もう少し迷うのかなって思ったから驚いた。九郎らしいけどね。鎌倉殿を説得したのも九郎だった。どうやってあの鎌倉殿を説得したのかは、オレも全部を知ってる訳じゃないけどね」
息を吐いて、景時はくしゃりと笑った。
「知ってるのは、九郎にいくつか条件をつけたこと。ひとつは、鎌倉からの文には必ず返事をよこすこと。ふたつに、京では源氏を捨てたことにしておくこと。みっつめに、院が接触してきた折には、逐一その詳細を通達すること」
それに、弁慶は唇をかんだ。
やはり、まだ鎌倉は完全に九郎を捨てるつもりはないのか。無能でも切り札としてとっておきたいのだろう、このように。
……昨日の感じ、京という土地を選んだのは九郎なのだろう、ゆえに、鎌倉はただその偶然を利用しただけ、ではあるけれど、
「鎌倉と縁を切ったふりをして、京に留まらせる。院の出方を探るのかな」
「さすがの鎌倉殿も、院を真っ向から攻め入る事はできないからね」
「九郎が寝返るのを待っていると」
「さあ、そこまではオレには分からないかな」
「……」
景時の目は言っている、『そもそも九郎が寝返るなんて、ありえないだろう?』と。
それは確かに、景時からすればそうだろう。彼は、頼朝を慕う九郎の気持ちをよく知っている。最悪、九郎が危ない事をしたら弁慶が止めてくれるとも思っているのかもしれない。
でも、情勢次第では院さえ利用しても構わないと、以前の自分なら言ってのけただろうし、なにより、
「……事実なんて不要でしょう。何度か偶然、九郎と院がはちあわせでもしたのを確認したところで、適当に九郎を討つための理由をでっちあげて攻め込み、京を抑えてしまえばいいだけですからね、そしてついでに、院に全権を渡すように要求する。簡単ですね」
それは、弁慶よりはるかに頼朝の領分だ。源氏に属した数年で散々それを目の当たりにしてきた。だから皆が畏れる。だから彼らを統べられる。
それにしても……予測どおりとはいえ、現実として告げられると。微笑みつつも目が据わるのを感じる。
けれど、景時あまりにもあっさりと首を横に振った。
「うん……それはありえない、と、断言はできない、でも可能性は低いと思うよ。さっきも言ったけど、いくら鎌倉殿だって院に真っ向から刃を突き付けはしないよ」
「真っ向からではないでしょう、九郎を介している」
「それでも、だよ。鎌倉殿の目的は武士の世だけど、肩書きを得るためになんでもしたい訳じゃない。その先を見てるからね。……九郎にまだ、価値があった時だったらまた違ったかもしれないけどね」
その言葉は一理あるな、と思った。武力をもってやればいいのならば、弁慶と望美が清盛を討った時点で動いたほうがよほど効率がよかった。……九郎の軍師である弁慶が裏切ったという事実もあったのだから。
「だとしても、」
九郎の置かれた状況は随分危うい。景時がこれだけ言うのだ、今は無価値なのだろうけれど、それでもたとえば、反鎌倉勢力が九郎の元に集まるような事になったら。
けれど、弁慶が反論するより先に、まるでこちらの心はお見通しだというように景時が遮った。
「ああ、それと、九郎が君のところに行くために飲んだ条件はもうひとつ。平泉を熊野と休戦協定を結ぶための使者になった」
「平泉と熊野を?」
目を見張った。対して、景時は笑っていた。彼にしては随分と狡猾な笑みだった。
「そう。けん制さ。平泉と熊野、それぞれ片方だけなら大した勢力じゃないけど、もし双方と、それに院が組んだらいくら源氏といえどもちょっと危ない。だから九郎に、『平泉や熊野とは戦をしたくない』と、先方に赴き伝えさせたのさ。九郎が表向き源氏を名乗るのをやめたのも一緒にね。向こうはそれを鵜呑みにしたのかな? そこまでは知らないけど、今は争いは起きてないし、起きる気配もない。九郎との約束は、無下にしにくいんじゃないかな」
「特に、平泉は、そうですね」
御館は九郎に甘い。九郎と約束を取り交わしたというのならば、平泉が攻め込んでこないのは確かだろう。でも……京、熊野、平泉と三方から囲まれていて鎌倉としたらやりにくいとはいえ、
「……これは君の策ですか?」
頼朝にしては、生温かい。
まっすぐに問えば、景時は気の抜けた声で返した。
「う〜ん、バレちゃった? ははは、まあね。そうだね。平泉もだけど、やっぱり熊野にはヒノエくんたちがいるからね、ちょっと敵に回したくはないかな〜って思っちゃって。何もなければ、それが一番だからね」
『少なくとも現状では。けれど、その後の事は知れず』、だろうか。平泉も、熊野も、そして九郎の事も。……やってくれる。
「睨むね」
「当然でしょう」
九郎もヒノエも御館をも見越した景時の一手は、あまりにも的確だった。
その上、追い打ちさながらに、
「そんなに大事なら、どうして一緒にいなかったんだろうね」
そんな言葉でまっすぐに弁慶を貫いた。
「ねえ弁慶、九郎は、頑なに源氏であることをやめようとしていたよ。結局、鎌倉殿がそれだけは譲らなかったから、今も名を連ねているけど、九郎が鎌倉殿のお役に立つということにどれだけこだわっていたかを、君はずっと見てたよね。それなのに九郎は、京に執着して、さっきの条件を承諾した。一体何がそんなに九郎を突き動かしたんだろうね。オレには分からないけど、君なら知ってるんじゃないの?」
直線で一年前の記憶を撃ち抜いた。
当然知っている。『弁慶は源氏になどいたくなかった』と、九郎に勘違いさせたまま、傷つけたままに離れてしまった罪がどろりと流れ出る。さらされる。
忘れていたわけではなかった。けれど他人にそれを突き付けられると……しかも、よりにもよって景時に。
どくん、と心臓が脈打った。言い返すべき言葉はなくも、ぐるりと黒い感情が渦巻く。
「引きずり出しますか、この僕を」
「オレも、人望がないからね〜。君みたいな優秀な人がいたら手を貸してもらわないと」
つまり、九郎を殺されたくなかったら、あとは傍で守り続けろと。その為に動けと。
正論だった。九郎を追いつめたのは弁慶の罪なのだから、当然の理であって、だけれど、
……目標は同じはずなのに、こうも手段が違うとは。
その上。
「ああそう、これは九郎からは口止めされてたんだけど、九郎、もしも裏切ったら命を取る、と鎌倉殿からはっきりと言われてるから、気をつけて。ただ、それが誰の命なのかまでは、多分九郎は分かってないと思うけど」
「……どこまでも」
「ごめんね」
謝罪の言葉……さらりと流れたそれを瞬きひとつで聞き流し、弁慶は立ちあがった。
「帰るの?」
「こうしている場合ではないと、僕は思うんですが。違いますか?」
「……そうかもね」
景時も続いた。少し悲しそうな顔をして。それは昔、まだ彼とともに行動していたころによく見た表情だった。彼が九郎を見る時によくしていた表情だった。
「……情報、ありがとうございました。やはり君は頼りになる。ここに来て本当によかった」
「弁慶、出来る限り九郎を目立たせないようにしてあげて。絶対だよ」
最後に向けられた言葉も、以前の彼そのものだった。けれど弁慶は、以前のようににこやかに笑みを浮かべ小さく手をふる事はできなかった。
咎は景時にあらずと分かっていながらも。……分かっているからこそ。