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神子たちが去った後、弁慶たちはヒノエの船でまっすぐ京へ戻ることになった。
天候にも恵まれて、船旅は終始穏やかだった。
屋島での一件も、ヒノエに嫌味を言われたり、敦盛に感謝されたりした程度で、景時も、最初にびっくりしたと言った以降は何も聞いてはこなかった。
九郎も同じだった。彼は黒龍をあるべき姿に戻した直後に一度弁慶の事を殴ったあと、直ぐに「無事でよかった」と笑って、もう何も言わなかったのだ。 それはただ、慌ただしかったこともあるし、もしかしたら彼なりに、別に何か言いたかったのかもしれないが、表向きは何もなかった。
京の街には弁慶、九郎、朔の三人だけで入った。
リズヴァーンはいつの間にかいなくなっていたし、景時は厳島に居残り、船上では一緒だったヒノエも、弁慶たちを送り届けてくれた後、敦盛を連れて熊野へ戻ってしまった。
口数もまばらになる。一年前はこんな風だったのに、すっかり変わってしまったような気がしてならないのは、もしかしたら、まさかここへ戻ってくるとは思ってもいなかったからかもしれなかった。彼の策ではそれが前提だった、ただ、もう帰ってしまった望美が運命を変えてくれたというだけだ。そう思うと何もかもが奇跡のようで、夢だったのではないかとさえ感じてしまう。だからこそ、弁慶はそれを大切にしようと思わずにはいられなかった。
望美がいなくなったことをまだ寂しがる朔と別れ、六条堀川の屋敷へ着いた頃は、すっかりと夕暮れで、空にはちらちらと星が瞬きはじめていた。
「久しぶりですね」
「ああ、そうだな」
九郎と二人、並んで門をくぐり、屋敷にあがる。主が不在だったというのに綺麗に掃除されていて、遣いが出ていたとはいえ夕餉の支度までできていたものだから、まるで家を空けていたような感じがしなかった。
疲れたと言いながら九郎は粥を何杯も食べていたが、弁慶はあまり食欲がなく、早めに切り上げる。
「もう食べないのか?」
「ええ、少しやりたいことがあるんです」
笑って言うと、九郎は怪訝そうな顔をした。何か言いたそうにしていたが、彼には珍しくそれを飲み込んで、でも曇り顔は変えずに言う。
「では、酒でも飲もう、後で持って行く」
「……いつだか、前にもう酒を飲むなって言いませんでした?」
「そうだったか?」
どこで覚えたのか、九郎が珍しくそんな風にとぼけるから、乗ることにした。丁度話もあったところだった。
「そうですね、でも、僕の用事は少し長めにかかると思うので、一刻ほど後でも構いませんか?」
「分かった。その頃に酒を土産にお前の部屋へ行こう」
「分かりました」
屋敷とは違い、自分の部屋は沈滞した気で溢れかえっていた。黒龍を開放するには自分も清盛と共に黄泉路を辿るしかないと、全てを片付けていったのだから当然だといえる。
なのに、衝立をどけ塗籠を覗くと、なおも捨てきれなかった品々が積んであって、それが記憶よりも高くまであるものだから、さすがの弁慶も少し顔をひきつらせてしまう。どれも望んで手に入れた品で、大事なものだ。九郎に何度も捨てられそうになったけれど、その度に言いくるめて大事にしてきたもの。全部処分などしたら、怪しまれるから、という名目で残しておいたことは覚えていたが、これほどなんて。
「困ったな」
ぼやきつつ、弁慶は、あれとそれと、と、仕分けしてゆく。とりあえず欲しいのは薬関連のものだったが、量がありすぎてそれを抜き出すことさえままならない。
四苦八苦しているうちに、九郎がやってきた。
「弁慶、入るぞ……って、何をやってるんだ?」
「見ての通り、探しものです」
「だからいつも片付けろと言っているのに」
「ええ、さすがにそろそろ片付けようと思います、あ、あった」
欲しかった本は三冊だったが、とりあえず二冊まで見つけたところで中断することとした。弁慶は円坐を引っ張ってきて九郎に渡す。あまり冷えた感じがしないのは、屋敷のものがたまに干してくれていたからなのだろうか。
九郎は酒を既に銚子に入れて持って来ていた。
「そんな少しで足りるんですか?」
「足りなかったら持ってくる」
そして、弁慶が本を寄せ、火鉢を動かしている間に、九郎は手際よく盃に酒を注ぐ。独特な香りが部屋に広がる。
最後に彼と飲み交わした、屋島へ向かう直前から何日たっただろう。弁慶にとっては緊張の連続で、心休まることのない期間だった。でも、終わってみればあまりにもあっという間だった。
「ほら、弁慶」
「ありがとうございます」
受けとって、口をつける。
「おいしいですね」
「お前、味なんて分かってないだろう?」
「お見通しですか」
くすくすと笑うと、九郎が小さく呟いた。
「今度は旨いな」
「今度?」
「い、いや、なんでもない」
問い返すと、慌てふためいて九郎が言った。
多分、彼も屋島の前の事を思い出しているのだろう。その時の事は九郎にとっては楽しい思い出になっているように見えた。妙にそわそわして、顔を真っ赤にして照れている。勿論酔っているわけではないだろう。そんな姿は、
「なんだか、告白でもするみたいですね」
「こっ、こく……!」
笑って言うと、九郎は慌てた。いつまでたっても九郎は九郎のままで、弁慶は目を細めてしまう。
「お前は、本当に口が減らない」
九郎も随分穏やかに弁慶を見おろしていた。月明かりに彼の表情は柔らかい。見ていると、本当に何もなかったかのように、ずっと前から時が止まっているようにさえ見えてしまう。
けれど、止まっているとしたら、それはいつからなのだろう?
自分と彼の間にまともな時間の流れなど……一体どれだけあっただろう?
弁慶は盃を握りしめ、微笑んでただ、彼を見上げた。
静かな時間だ。けれどざわりと風は鳴り木々を揺らし、犬が遠くで吠え、ぽたり、ぽたりと、軒下の氷柱から雫が落ちる。
弁慶は目を伏せ、盃の中の酒を一気に飲み干した。
「そんなに一気に飲むな」
九郎は呆れた風に見てばかりで、銚子は握れど酒をついではくれなかった。かわりに、
「お前が酔う前に話をしなければな」
と、笑いながら続ける。
「お前を迎えに行く途中で景時が調べていたんだが、平家の残党は西国にいるようだ。安徳天皇のことは、先生がおっしゃられた通り沈んだと報告するつもりだが、それは関係なしに、どうやら兄上はこれを機に西海も平定してしまいたいらしい」
「そうですか」
「だから、折角戻ってきたというのに、また一週間も後には京をたつことになりそうだ」
弁慶は、それを驚くことなく聞いた。
「それが、九郎の告白だったのかな?」
「ん? ああ、そうなるな」
「そうですか」
繰り返すと、九郎の顔がようやく曇った。
「……なんだか、随分他人事のように言うな」
「他人ごとですよ」
言う声は、自分のものとは思えぬほど冷静で、いっそ気分がいい程だった。
九郎の笑みが、すっと消えた。無表情になって、瞳にうつる弁慶の髪色だけが揺れる。それは屋島で見たあの顔そのものだった。
「……な、にを言っている?」
「目的は果たしました。僕はもう源氏に用はありませんから、君ともお別れです」
さらりと言いすぎたのだろうか、九郎は一瞬、分からないというような顔をした。
「……ああ、もしかして、屋島のことを気にしているのか? 皆、弁慶は源氏の為に裏切ったのだと讃えていたぞ。だから、気にせず戻ってきても」
声も明るいかった。けれどだんだんとかすれはじめ、瞳が泳ぐ。
それほどに行宮で弁慶において行かれた事が嫌だったのだろう。当然だろう、彼は信頼を裏切られることが何より嫌いなのだ。何より恐れているのだ。
知っているのに……なおまたそれを繰り返す。
「それは関係ありません」
「だったら何故!」
「兄から聞いたのでしょう? 僕は以前、京の街を穢した」
「だが応龍は蘇った」
「ええ、それでも、ひどくなってしまった民の暮らしは戻らない、死んでしまった人はかえらない。……だから僕は、この街の為に償いをしたいのです」
誰にも言ったことない想いだったからだろうか、言葉がさらさらと零れた、流暢なそれに、まるで嘘をついているような気持ちになった……今はまだ嘘はひとつも言っていないのに。
「だからここでお別れです。九郎、君は鎌倉殿への忠義を果たせばいい。そもそも、望美さんがいなかったら今僕はここにいることも叶わなかった、どのみち共にはゆけなかったんですよ」
「だが」
京に住むということは、応龍を消滅させた弁慶からすれば、ずっと前から続いている、必然といえることだったけれど、九郎にはそうではない。突然のことに彼は言葉を紡げず、ただ彼の背面で揺れる火のように、うろたえていた。
「とりあえず……とりあえず、少し冷静になれ」
まるで自分に言い聞かせるように九郎は言う。怒ると思ったのに、泣きそうな顔をしていた。
「僕は冷静です、そもそも九郎こそ、誰に何を吹き込まれたら、あそこで僕が源氏の為に裏切ったことになるんですか? 味方を見殺しにして、利用して、望美さんを人質に取り、君までも殺そうとしたのに」
「お前の行動は、俺を、源氏を救ったじゃないか。それに湛快さんから聞いた。京を荒廃させるつもりはなかったとも、ずっとその事で悩んでいたとも聞いた」
「ああ、兄にそこまで聞いているなら、僕が京に残るのも納得してくれますよね?」
「っ!」
こうして京の街を盾にとれば、九郎は口を閉ざすのに、すぐに首を振って反論する。
「それでも……京の話はとにかくとして、納得できない」
「何が」
「色々だ!!」
怜悧な弁慶に、九郎が向き直る。肩を掴まれた、と思ったら次の刹那、組み敷かれた。板に当たった背が痛かった。
「分かってもらえませんか」
「分かるわけがない」
「……」
こうしていると、自分のずる賢いところが浮き彫りになるようだった。こんなに悲しそうな九郎を目の前にしても心は揺らがない。流石、平家の武将も味方も何人も何人も殺めてきただけのことはある、この性格は一生治らないだろう。
「君にこんなこと、言いたくないのだけれど」
内心で冷やかに思えど、譲れない弁慶は微笑み追いうちをかける。
彼を傷つける言葉などいくらでも用意してきた。
「ねえ九郎、僕は最初から君のことなんか好きでもなかった」
呟けばまるで氷の矢のようで、いよいよ九郎の顔が大きく歪む。
「九郎、源氏の為なんかじゃない。僕は京の事を、僕の罪を気に病んでいた。だから京を救いたかった、その為に君を」
「またそういう事を言うのか!」
裏切った、とまでは言えなかった。九郎は頭を大きく振って叫んだ。
「お前の言ってる事など、昔から俺にはさっぱり分からなかった。平泉でも鎌倉でも、京でも、お前が何をしたいのかなんて分からなかった。屋島でのことだって……後から思えば、望美は不安に思っていた、なのに気にもとめなかった、疑いもしなかった。実際裏切られてみても、そのあと熊野からお前の手紙が届いたって、何を考えてるのかなんて全然分からなかった。大将失格だ」
顔を歪め、弁慶を見下ろしながら九郎は言った。必死な言葉だった、なのにどうしてか、それは弁慶の体を素通りしてゆくようで、さながら九郎の後ろできらめいている星を眺めるに等しいことのように思えた。
「ただ、お前がいなくなった後、ひたすら悲しかった。裏切られたことが悲しかった。俺は人を信じなければ生きて来られなかったとお前だけは知っているのに、なのに、それをやった」
「だったら僕を恨めばいい」
「違う!」
九郎は息をきると、はっきりと言った。
「そうじゃない、その時も今も、恨んでなんかいない。恨む理由がない。し、今のお前の言葉が本心じゃない確信はある。だから京の人を癒したいというお前の気持ちは分かっても、なんでそんな風にさらりと口にするのか……分からない」
「だから僕は君が」
「お前が俺を好きだって言う確信は、あるんだ。だから俺を利用してたとは思えないんだ」
「……九郎が?」
認めないことはともかく、この期に及んでまだそんな事を言う九郎に、弁慶は言葉を失った。
まさか九郎がそんな事を言い出すとは、だ。よりにもよって、今でも色気や風情など分かっているとは思えない、5つも年下のヒノエにさえ馬鹿にされ更に年下の譲にさえ時として呆れられるような九郎に、そんな事を語られるとは思わなくて、照れて揺らぐもまっすぐなままのすぐ上の瞳を、弁慶は少しの驚きと共に見つめる。
「へえ? どんな?」
「それは……確かにっ、俺はそういう、人の心の機微みたいなものには疎い。特にお前はいつも同じ顔だし、人を食うようなことばかり言う、だからますます分からない。でも……もしお前が俺を本当に、ただ利用してたんだとしたら、もっと上手にやったんじゃないかと思うんだ。特に、その、……俺に体を許すのかって考えたら、それはないと思う」」
九郎が口にした言葉は、彼にしては的確で、弁慶はつい微笑んでしまう、けれどそれもつかの間。
「さっきも言いましたが、最初から君のことなんてどうでもよかったんですよ、僕は」
「だからそれは嘘だ」
九郎があまりにもきっぱりと言うから、弁慶は眉をつりあげる。
「お前が言うとおり、最初から俺なんてどうでもよくて、俺を縛りつけたいだけだったら、お前なら口先でどうにでもできたはずだし、負けず嫌いのお前がもしやるとしても心は許さないだろうし……その、俺みたいなの相手だったら、いれるほうを選ぶんじゃないかと、思う」
「最初はそのつもりでしたね」
「そうなのか!?」
「そうですよ、でも九郎があんまりにも可愛いかったから、気が引けたんですよ」
「っ!」
怯む九郎を睨みあげ、不敵に笑う。
予想以上に頷こうとしない彼に、さっきまでは確かに苛立ちを覚えていた筈だった、終始弁慶を信じてやまぬ彼を、どうすれば突き落すことができるのだろうと、氷ほどに冷たい感情で、他人事のように、それこそ戦場で非情な策をとるときのように探り、追いつめていたはずだった。
なのにいつしか、それに微かな愉悦さえ覚え始めていた。
……そう、これはまるで掛け値なしの勝負。彼と最初に出会ったあの五条の橋のような。
「当時、九郎は幾つでしたか? 元服も済ませていたというのに、情けなくて仕方なかった」
「おっ、お前には言われたくない!」
「僕が君に何を反論されるというんですか」
「それはっ、」
嘲り混じりで告げるも、彼が言いだしたことは弁慶にしてみればとても意外だった。
「それはお前、自分の事を知らないから言えるんだ。お前の最中の顔だって……とんでもなく幸せそうなんだぞ!」
「随分なことを言い出しますね」
「事実だ!」
挙句、九郎は更に、
「……本当は怖かったんじゃないのか?」
などと言い出すから、一瞬……言葉を失った。
「……僕が何を恐れるんですか?」
「屋島で裏切ることだ。西へ行く直前に、ここで酒を飲んで、その後…事に及んだだろう? その時にお前が俺を呼んだ声がずっと頭から離れなかった。それがずっと気になっていて、結局のところ……、裏切られても、お前を追撃できなかった。本当に情けない」
「ええ……行宮での九郎の甘さには、嫌気がさしました」
「話を逸らすな」
「そらしてない」
違う、本当はそらしたかった。弁慶は少し動揺していた、それを見抜かれなかったのは幸いだった。
「とにかく……お前の心が少なくとも京に来るまでは俺に向いていた確信はあるんだ。京に来てからは……少し、不思議に思う時もあったが、でもそれも今となっては納得できる。だから」
「お得意の勘ですか」
「どれだけ一緒にいたと思ってるんだそれくらい分かる! お前こそ……お前こそどれだけ自分が俺の前で無防備か知らないから」
知ったように九郎は語る。
「どれだけ俺の事を呼んでるのか知らないから」
その口調も、瞳も実に断定的で。
「だから、俺がどうでもよかったなんて嘘だ」
冗談じゃない、と弁慶は睨みあげる。
「少し自意識過剰じゃないですか? 別に誰といたって、誰と寝たって同じかもしれないですよ」
「お前はそういう奴じゃないだろう……」
返された言葉は重く、まっすぐに弁慶を押しつける。根拠もない癖にこういう時だけ自信たっぷりな態度は本当に忌々しい、きっと向こうも同じに違いない。
「僕の寝返りを阻止できなかった癖に、よくそんな風に言いきれますね」
挑発すれば、微かに目が見開いたが、直ぐに冷静になって、別の言葉を捜し出す。
「結局裏切った訳じゃなかったじゃないか」
「詭弁だ」
「それはお前だ」
互いに譲らず、睨みあう。けれど進展しないと思ったのだろう、九郎は別の話をはじめた。
「……話がそれたな。それより昔の話だ。じゃあ理屈で話すが、あの時の俺には何の価値もなかった。だったらお前が利用したり付け入る意味がない」
「僕は君と違って平家にも源氏にも縁はあるし、ないですから。最初から九郎を手土産に平家に行くつもりだったとか」
「俺にそんな価値はない。お前が行宮で言ってたじゃないか」
「今は、ね。当時は源氏の御曹司の価値は無尽蔵に、若かった僕には見えたんですよ。たとえば、九郎の下について頼朝殿に恩を売り出世するつもりだったとか」
「ならば今更薬師などで収まるのはおかしい!」
「僕だってまさか、平泉にいた頃は京を荒廃させる元凶になるなんて思ってなかったですからね」
「……お前は、次から次へと!」
九郎は彼の割によく言葉をつなげていた、話題も悪くはなかった。
けれど、口先で弁慶に敵うわけはない。弁慶の言葉はどんどんと九郎を追いつめる。あの頃はできなかった、五条の橋の端へと追いつめてゆくようだった。
血が騒ぐ、憎らしいのと同時にどうしようもなく楽しい、なのに……少しずつ悲しくなってしまうのは多分、九郎が言葉を詰まらせてしまったからだ。
弁慶がもうすぐ九郎に勝とうとしているからだ。
「事実を述べているだけですよ。言ったでしょう、全て、前提から間違っているんです」
終わりが近づく。多分、ここで別れれば永遠に九郎とは会う事がない。
「あの平泉のはじまりの日から、九郎、僕は君を裏切っていたんですよ」
突きつければ、九郎はとうとう唇を噛んだ。肩にのしかかったままの手が微かに震えた。
「……どうして認めない」
それでも九郎はこちらを否定した、けれどさっきまでの勢いはもう失われた。
「君こそ」
「俺にとっては、お前は弁慶で、それで構わないのに」
「君にとっては、でしょう?」
九郎の手を掴み、ひねりあげる。意外なほどにあっけなかった。
「道は違えた、お別れです」
弁慶はとうとう、五条の橋の片隅に九郎を追いつめ喉元に薙刀を突きつけた。
恐らく一目出会ったときから恋をしていた。けれどその彼と世間で言うところの恋仲と呼べる関係になったのは過程でしかなかった。
誰かを信じたいと泣く九郎に、師でも親でも友でもない関係を提示したというそれだけで、恐らく恋なんて事を理解をしていなかった彼に既成事実を作ってしまったのは弁慶の罪だ。
それでも幸いなことに二人は上手くいっていた。少なくともそう思っていた。
しかし運命は転がり、その途中で弁慶は九郎を裏切った、彼の知らぬ所で京を呪い、彼に言えぬままに源氏の軍師の立場を利用することとなった……それがふたつめの罪だ。
今に至るまで、おそらく九郎はずっと弁慶の事を好きでいてくれたのだと思う。誰かに愛をもらえるということがどれだけ幸福なことか、弁慶は知っている、だからきっかけがあやふやだったのに対し、それは奇跡のようなことだということも知っているのに、
その上で、今、彼を切り捨てる。それが三つ目の罪だ。
京の龍脈を穢したことも、九郎を汚したことも、同じ罪で、その罰を背負わなければもう弁慶は、
どこへ行けばいいのか分からない。終われない。
九郎の上体をどかしながら立ち上がると、彼も力なく従った。
「明日、僕はここをたちます。こんな形で別れることになって名残惜しいですが、長い間、君には本当にお世話になりましたからね、これでも感謝はしているんですよ。ありがとう」
それでも九郎は納得できないみたいで、
「もう少し、考える時間をくれないか?」
うつむいたまま彼が言うが、そんなのもう、引き下がるのを認めたも同然ではないか。弁慶は酒を飲み始めた頃のように、冷めた目で見つめていた。
「考えればどうなるというのですか? 京にいたい僕と、鎌倉にいなければならない君と」
「……」
どうしてこちらの言葉を認めないんだろう? 弁慶には本当に分からなかった。
望美がそうであったように……こんなにも傷をつけられても、どうして弁慶を信じようとするのだろう? 何故弁慶の我が儘を責めも憎みもしないのだろう?
「それとも、もしかして僕の軍師としての腕をそんなに欲してくれるんですか」
「そうじゃない、違う、俺はお前が」
「だから僕は君の事など……どうでもいいんですよ」
「そんなことない!」
彼と自分の価値観は永遠に重なることがないのだろうと思えて、嫌だった。
本当に……こんな風に、想いが通じているならばそれだけでいいのだと、他の全てが辛くとも構わないのだと、そんな風に見つめられつづけるのならば、斬り殺してくれた方が良かった。絶望しなくてよかった。
「弁慶!」
いつしか九郎は再びまっすぐ弁慶を見ていた、どうせ理解もしないくせに、認めずに、手を伸ばす。一度諦めたのに、刃を突きつけられたのに屈しない、ずっと隠し事をされていたと、嘘をつかれていたというのに、認めない……
それをいつまで続ければいい?
「……僕は、少し疲れました」
気付けばそんな言葉が弁慶の口からこぼれていた。
しまった、と、驚いた。驚いたが時すでに遅かった。
一瞬、たったその一言で、さっきまであんなに引き下がっていた九郎の瞳から光が消えた、息が止まり、顔は青ざめ、崩壊する。
「……あ…………」
「九郎?」
まるで彼と自分との間に薄い氷があって、それが崩れ粉々になり、どうしようもなく流れてゆくよう。
音さえ聞こえるようだった、その向こうで九郎は唇を震わせて、うつろに弁慶を見たまま動かない。
「違う!」
九郎が弁慶を恨むならそれでよかった、けれどこのままでは九郎は彼自身を責めてしまう!
そうじゃないのだと、否定しようと思って紡げば、また言葉が強く出る。
そして、自分でも思い知る。
確かに弁慶は疲れていた。龍脈を辿る旅はひどく彼を蝕んだ……
けれど、それだけだ、全ては自分の罪に対してで、けしてその他の、たとえば、八葉であることや、源氏の軍師であることに対してではなかった、なのに、
「……そうか、今までもずっと無理をさせ続けていたんだな」
九郎は勘違いした。どうしてさっきまではこっちの言う事などひとつも取り合わなかった癖に、今更簡単に信じてしまう?
焦る反面、弁慶の中でも、源氏の戦いに疲弊していたのだという実感が急に湧いてきた。湧いてきて、足元から沈んでゆく。それでも、
「だからそうじゃない、僕は僕の為に君の隣に」
いたのだと、そもそもさっきから言っているように、最初から源氏の為の戦いなどしていなかったと、言いたかったけれど、選んだ言葉が悪すぎた。
素直な彼は勘違いを重ねる。
弁慶は源氏になどいたくなかったのだと、戦いたくなかったのだと、なのにずっと連れまわしていたのだと、勘違いを重ね、
見たことのないほど憂いを湛えてしまった九郎の瞳に、絶望に沈む彼の姿に、
思い知るのだ。
「九郎」
弁慶は九郎の手を掴む。どうしてもそれだけは否定しなければならないと握りしめる。
思い知る、だって、さっきあんなに繰り返し彼が言ってくれていたのに、ずっと忘れていた。
まるで応龍を消滅させ、清盛も消し去ったあの日、彼に呪詛にかけられたかのように忘れていた。
なんて罪深い、京の龍脈さえも言い訳だった。ただ、ただ弁慶は、たったひとつのことのために九郎と離れたかったのだと、今、唐突に思い知る……そう、弁慶は自分で思っていたよりもずっと彼の事が、
けれど、弁慶が伸ばした腕は九郎に優しく払われた。
「……全て、俺の思い込みだったんだな」
九郎は泣かなかった、怒りもしなかった、ただ、そのまま事実を受け止めた顔で淡々と言った。
その顔を弁慶は知っている、それは彼が仕方ない時に、どうしても意に反する選択をせざるを得ない時にする顔だ。
平たく言うならば……諦める覚悟を決めたという顔だ。
弁慶は幾度となく彼にそうさせてきた。結果としてそれは彼の為になった……少なくとも弁慶はそう信じている。なのに今回ばかりはそんな顔をさせたことに、素直でまっさらな彼を深く傷つけたことに途方もない自責を感じた。
確かにもう彼から離れたかった、言いくるめたかった、けれど罪人は、裁かれるべきなのは弁慶なのだ。九郎が彼自身を責める理由などただのひとつもないのに。
けれど、それももう終わるのだろう。
「違う、九郎」
伝えたかった。彼の隣にいたことはあんなにも楽しかった、そう楽しかったんだ。
けれど結局それは九郎まで届くことはなかった……弁慶は口にしなかった。
だって……今更それを否定して、何になる? 九郎はいくらか救われるかもしれない、それでも裏切っていたという事実も、もう共にあれないという事実も変わらない。
これこそが、弁慶の望んだ結果だ。
「今まですまなかった」
無言で立ち尽くす弁慶に、九郎はそうとだけ言うと、口を閉ざし、そのままくるりと踵を返し、御簾を落とし、立ち去った。
足音は遠ざかり、部屋にはただ静寂だけが残った。
弁慶は呆然としたまま、あたりを見渡す。火が揺らめいているほかは、すっかり片付いていて……なにもない。
「これで終わり」
だった。
京を滅し、兄を傷つけ、九郎を利用し、源氏を裏切り、たくさんの人を殺し、望美までも利用した。散々嘘を重ねて、たくさんの罪を犯した、そんな自分が、生き延びた挙句、今更に重ねた、最後の咎。
九郎が納得できなかったのも、ある意味では当然なのかもしれない、けれど、はじまりさえもが歪んでいた九郎と弁慶の関係は、長い時間の中で、更に随分と複雑にねじまがってしまった、それは一方的なものだったのだろう、九郎は少しもそう思っていなかったのだろう、
けれど、それが辛かった、どうしようもなく弁慶には苦しかった。もう彼にひとつだって嘘をつきたくなんてなかった。
ふと遠い昔を思い出した。
まだ平泉にいた頃だっただろうか、九郎は泰衡に、いつか清盛を倒すのだと夢を語っては、返り討ちにあうだけだとあしらわれた。なのに九郎は怒りもせず、俺には弁慶がいるから大丈夫だと言い切り、泰衡にも、何かあったときはお前も頼むぞ、と、曇りなき顔で笑った。
それに弁慶も泰衡も言葉を失って……泰衡の方は、勝手にしろと言って去ってしまったけれど、弁慶は必ず君に勝利をもたらしましょう、と、冗談混じりで臣下をきどり膝をついてみせた。
それに九郎は腹を立てた。お前は俺の友だ、そんな真似はよせ。と、冗談だと言っても聞く耳持たずで、
そんな彼を見て、彼の為にも、そして平家に踏みにじられる京の民の為にも、必ず平家を滅ぼしてみせると思って……
ただ、純粋にそう思っていて……
弁慶はぺたりと、膝を突いた。ぽたりと、涙がこぼれた。ずっと忘れていた、
「僕は、九郎のことをこんなにも」
愛していたのだと。
朝を待つことなく、陽が昇るよりも少し早く、弁慶は小さな荷と共に六条堀川の屋敷を出て、京の北方に位置する小さな町家へと引っ越しをした。もともと、屋島に行く前に身辺整理はたいていすませてしまっていたから、準備に時間はかからなかった。
新居は、厳島にいた時に、ヒノエから熊野の烏の為の住まいをひとつ借り受けていた。ヒノエに貸しを作ったのは多少痛いけれど、それでも彼の仕事は確実で早い。六条堀川に長居できない弁慶からすればありがたかった。ごく普通な家だったけれど、日当たりがいいことがとても気に入っていた。部屋は三部屋ある。とはいえ、九郎がいなくなったころを見計らってあの家から物を運んでくれば、きっとあっという間に物で溢れてしまうのだろう。
窓を開けば、朝日がさした、街が動き出し、通りをたくさんの人が行き交い始めた。
京は再び後白河法皇の下に戻った。それを源氏の武士団が守ることになるだろう。
そして、頼朝は愚かではない、民を悪戯に疲弊させることはしないだろう。京の治安は守られ、龍脈も回復、光が以前よりずっと眩しく見えた。
「本当に良かった」
ようやく過去が終わった。あとはただ進めばいい。
くるりと、ひとりきりの部屋を振り返りながら、弁慶は微笑む。
そう、九郎が人を信じて生きてきたというのならば、それが弁慶が生きるために学んだ術なのだ。