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 一年がたった。
 もともと五条のあたりに弁慶を慕っている人は多かったから、おそらく薬師として生計をたてるのにそう苦労はしないだろう、と甘くも予想をしていた弁慶だけれど、やはりあっという間に軌道に乗った。
 勿論、それこそまだ比叡にいた頃から知っていたような人たちが評判を広げてくれたお陰ではあったけれど、もともと比叡にいた頃から彼の薬師としての技量は高いとよく言われていたし、散々養って来た人当たりの良さにも自信もあった。
 だから、街のひとたちは源氏に従していた頃よりも更に弁慶を忙しく振り回し、本当は熊野から借り受けた家は早々に引き払い別に探すつもりだったのに、それも出来ず仕舞いだ。
 朝一番に薬を売りに行って、昼には薬草をとり、それを煎じている間に夜になる。その間にもあちこちから弁慶の噂を聞きつけた人がやってきて、薬を貰っていった。
 とはいえ、それを安易に喜ぶことはできはしなかった。人々が薬を求めるという事は、京がまだ荒廃しているということ。龍脈は治れど、過去の傷跡は大きいらしい。それはどちらかといえば、弁慶の心を曇らせた。

 あまりにも多忙な日々の中、この前まで八葉として戦っていたことを思い出すのは、ヒノエが様子を見にやってくる時の他には、いつだか景時が一度だけやってきたときくらいだった。
 景時が来た時には驚いた。どこでどう知ったのかは分かりかねるが、『評判の先生がいるというからまさかね、と思ってやってきたんだよ』なんて彼は変わらぬ様子で笑っていた。
 何か真意があるのでは、とも思ったけれど、彼は誰にも言わないと言っていたから、それ以上追及はしなかった。実際、他の顔見知りの源氏の武士は誰一人やってこなかったし、朔でさえ顔を見せることはなかったから、景時は約束を守っているのだろう。そもそも彼は、そういう嘘は言わなかった。
 ヒノエはヒノエで、父の薬をくれなんて言い訳しながらやってきていたけれど、彼こそこちらの様子を探っているのは明白だった。とはいえ残念ながら今の弁慶は、彼には無価値。薬を少し多めに差し出し何もありませんよ、と言ってあしらえば、その度彼はごく不満気な顔で去っていった。
 とはいえ、ヒノエのそうして情報を大事にするところは好ましかったが、別当自ら京にそんなに来るのはどうだろう、そろそろ落ち着くべきだろう。
 それは弁慶も同じ事で、五条でこうして暮らしていると、さまざまな人が縁談を持ってきたものだった。その中には当然兄湛快からのものも入っていた。それだけは丁重に断りながら、その他ではごく普通に薬師として、順調すぎる程に過ごしていた。

 そんなある時、京の南方の寺院の一角に出向いて診療をしていると、昔から弁慶を知っている老翁が心配そうに言った。
「弁慶先生、最近変わった事はないかい?」
「変わったことですか? 特にはないですね」
 痛むという肘に薬草と布を巻きながら弁慶が言うと、彼と、順番を待っている人々が顔を見合わせ口々に言った。
「なんだか、最近若い武士が色々あんたの事を嗅ぎまわっているみたいなんだよ」
「若い武士、ですか?」
 その言葉に、久しぶりに心が波打つようだった。冷やかな影が広がってゆく、軍師としての日々が…蘇る。
 何故なら若い武士、というものに、弁慶の心当たりがないわけがなかったからだ。
「しかも、随分必死な様子で」
「ずいぶんいい身なりだから、どこかの高官かもしれない」
「最初は、あんたをとりたてにきたのかと思ったんだが、どうもそれにしては雰囲気が違う」
 弁慶には方々に狙われる理由がありすぎた。様々な源氏の情報を持っているし、平家を滅ぼした本人だ、仇討もありうる。熊野の者だって、平泉だって、今までたくさんの縁を作ってきたからこそ、恐ろしい。ここは平家の残党と考えるのが妥当だろうか。
「それは……そうですか、気をつけるようにします」
 少し困ったように微笑むと、皆は心配してくれた。
「でも、弁慶先生みたいな優しい人を狙うなんて」
「気をつけてくだいね。先生」
「大丈夫ですよ、これでも僕、結構強いんです。ちょっとした有名人だったこともあるんですよ」
「またまた〜」
「先生は本当に冗談がお上手だ」
「なにかあったら、うちの息子を用心棒におきますよ!」
「気持ちだけいただいておきます、ありがとう」
 笑顔に囲まれて診療所を出ると、気配を消して早足で歩く。どうやら荒法師の噂が影をひそめ始めたのと同じように、弁慶の体力も落ちているようで、久しぶりに走れば少し息があがる。
 しかし、一体どこから誰が来たのか。
 身なりのいい、と聞いて真っ先に思い出したのは敦盛だったが、彼が弁慶に用があるとも思えないし、もし本当に必要なのなら、そもそも彼に甘いヒノエが居場所を口にしていると思える。だったら警戒しなければならない。これまでだったら闇にまぎれるように消えてしまえばよかったが、今は薬師なのだ、そうはいかない。転居も簡単ではないし、なによりこれから幾度同じ事があるのか分からないのだ、迎え撃つ対策を練らねばならない。
 家に帰るなり、まずしまっておいた薙刀を見える所に出そうと思い、座敷の奥の奥にたてかけておいたそれをゆっくり取り出し、巻いていた布をはらりと落とす。
 刃に映る自分と目があった。鋭く睨んだところで、それにきらりと別の影が移る。背後、土間で気配が動いた。
 まさか早速のお出ましとは、都合がいい。さて、いったい誰が踏み込んできてくれたのか。何ひとつ問いかける事もなく、弁慶は振り返りざまに踏み込んで薙刀を振り下ろす。
 静かな京の静かな屋敷に、つんざくような金の音が響く。
 一年ぶりに聞くそれはけたたましく、顔をしかめたくなるけれど、それよりも。
 段差の上から、弁慶は相手を見おろす。深く傘を被っているから顔は見えない、けれど、薙刀をまっすぐに受け止めた太刀筋。それは。
 なにもかもが止まる。
「お前、またこんなに散らかしているのか」
 人の事は言えないが、あまり低くはない声音。剣ばかり振るっているのに細身でしなやかな体、
「……九郎?」
 相変わらず白い衣に身を包んだ彼が、笠を取る。
「久しぶりだな」
 目を見開いた弁慶の前で、窓の隙間からこぼれる光をきらきらと受けて、彼は微笑んでいた。
 その姿は変わらない。ただひとつ、長い髪がばっさりと短くなっていること以外はすべて、変わらない。
「どうして君が京に……頼朝殿の使いですか?」
 弁慶は薙刀を構え、じりりと後退りながら問いかける。
 問いかけながら、ありとあらゆる可能性が頭を巡る。
 軍師としての腕を買われて戻ってくるよう使いを出された、京の龍脈を止めた元凶として罪に問われることになった、景時同様、弱みを握られ使われようというのか? まさか九郎を人質に?
 けれど、それよりなにより可能性として一番高いのは、ここで殺される事だ。弁慶は知りすぎている、その上おそらく信用もない。景時のように頼朝を恐れもしない。悪びれることもなく龍脈を止めた彼を御すのは難しいと判断するだろう。
 九郎の性格を考えれば、そんな暗殺のような命にただで従うとは思えない。けれど、それは今当てはまりはしない。九郎が兄を慕っているとかそういうことよりなにより、一年前に弁慶は彼をひどく傷つけた。その傷の深さを弁慶は知らない。
 静かに息を吐き。吸う、見据える。けれど殺気を隠さない弁慶とは裏腹に、九郎はゆっくりと剣を降ろして微笑んだ。
「いや、……兄上には、暇をいただいてきた」
 微笑んで……弁慶が全く予想さえしなかったことを口にした。
「六条堀川の屋敷以外の全ての土地を返還してきた。俺はもう、鎌倉には帰らない」
 二人の間をきらきらと、雪のように埃が落ちる中、あいかわらずの、その白い衣のような笑顔で、当たり前のように九郎は言うけれど、
「……悪いけど、それを信じることはできない」
弁慶は更に睨んだ。
 話せば話すほど九郎はまるで別人に見えた。変わらないのはまっすぐな視線くらいだったが、口調はあまりにも穏やかで、
「俺はお前と違う、嘘は言わない」
記憶の中の彼とあまりにもかけ離れていて、一致しない。
 弁慶はゆるく薙刀を構えたまま探るように彼を見下ろす。
「それは知っている、でも、君が鎌倉殿をどれだけ慕っていたかも知っている」
 そう、弁慶からすれば、なにより彼が鎌倉殿の元を離れるという選択こそが信じられないことだったのだ。理解できないことだったのだ。
 なのに九郎はなおも笑った。
「ああ。もちろん兄上の事は今でもかけがえのない存在だ。……でも、それさえ些細なことに、思えたんだ」
 髪が短くなったからか、それは、見たことないような、少し切ない顔だった。
「俺は兄上の為にと、必死だった。そして平家は滅び、兄上の天下となった。そうしたら、あとは政治だけだ。俺は政治のことは分からないし、……あと、向いてないと思うんだ」
「それが分かっただけ、成長しましたね」
「そうだな。お前がいなくなって一年たったからな、いろいろ考えた」
 ふっと笑うそんな顔にも不意に年月を垣間見る。まっすぐな瞳は彼そのものなのに、でもそれは弁慶の知っている九郎だと思えない。
 けれど、彼に対する戸惑いは、ここで終わった。
「それに……多分、兄上は俺を疎んでいる。本当はずっと知っていた。兄上は多分、俺の事をただの兵の一人としてしか見ていない、他の武将がそうであったように、敵対するそぶりを見せたら打たれるんじゃないかとずっと、心のどこかで気付いていた。……将臣や譲だけじゃない、景時と朔とも、お前とお前の兄上殿とも俺と兄上の関係は違っていた……でも、知らないふりをしていた。そうして信じることで俺は俺でありたかった。弁慶の時と同じだ。でも、……もう、あれは嫌だったんだ、あんな風に裏切られうのは、もう嫌で、俺は、兄上に、京で野に下り暮らすと言った」
 そう言った彼の言葉を弁慶は聞き過ごすわけにはいかなかった。
 激しい怒りを覚えた。彼を睨み、草履に足を引っ掛けながら土間に降り、
「弁慶!?」
唐突に、もう一度薙刀をぐるりと振り上げ九郎を狙った。
 彼はそれをひらりとかわした。室内は狭いのに容赦などしなかったから、片付けきれてない書がばさりと飛んで落ちた。
「何をする!」
「今更逃げたんですか」
「……弁慶?」
 最悪だ。弁慶は悪態を吐く代わりに刃をふるう。
 九郎に出会ったのはもう10年も前の話か、こんな風に、五条の橋で互いに向かい合っていた。
 彼ははじめは何かをしなければならない気がして京の街に降りてきていると言っていた。
 いつしか平家を倒さなければならないから平泉に行くと言い出した。
 そのあとは鎌倉殿と平和な国をつくるのが目的だと言っていた、その為に生きて、生きて、生き抜いてきた九郎。そうして生きるしかなかった九郎、だというのに、
「失うなら、最初からない方がいいと、逃げたんですか?」
翻し、刺すつもりで突いた、それは九郎にあっさりと弾かれ、距離を開けられる。
「……そうかもしれないな。正直、俺は何をすればいいのか、よく分からなくなったんだ。清盛を討って、平家は消えて、望美たちもいなくなった。お前もいなくなって、はじめて何もない時間ができた。兄上から役目は頂いていたが、そういうことじゃなくて、どうすればいいのか本当に分からなかった。それで、お前の顔が浮かんで、京に行こうと思った」
 弁慶は少しずつ彼に惑い始める。
 これは一体誰なのだろうか? 九郎に似ているのは視線ばかりだと思っていた、表情は別人のようだ、なのに剣の腕は変わらずに、弁慶にできないことをあっさりというところも変わっていない。
 けれどなにより彼の言葉を弁慶は理解できない。
 それはそんなに軽く口にすることではない!
 静かに息を吐き、弁慶は切っ先で尚も九郎を狙う。
「頼朝殿がよく許してくれましたね」
 顔横に迫った刃を、冷静にかわしながら、九郎はなんでもなく弁慶を見下ろす。鋭くなった目線は、彼をやや大人びて見せた。
「……お前が出て行った後、俺は西海に行った。そこで一度負けたんだ。酷い戦だった。その時に景時が兄上に『神子のいない九郎など、なんの役にたちましょう』と言ったんだ。それを聞いた兄上は大将を景時に変えた。俺は景時に裏切られたのかと思って、最初こそ景時を憎んだりもした。だが、実際俺の負け方は酷かったし、なによりその後の景時の戦術が見事だったんだ」
「目に浮かぶようです」
 言うと、今度は九郎は無意識だろうが、景時がやるように肩をすくめて苦笑いをした。全く似合わなかった。
「西を平定したあと、景時は女の力を借りなければ何もできない元大将など、軍に置いておくのも目障りだと言って、俺を罰するよう兄上に進言した。結局、まだ一度の敗北だという事で免れたんだが……それから二月後、先月だが、俺は兄上に暇をいただいた。兄上も、俺など既に用なしだったんだろう、簡単に許してくださった……今になって思えば、景時は全部こうなることを分かっていて、俺を大将から引きずり落ろしてくれたのかもしれない」
 もしかしなくてもそうなのは間違いない、いつだったかふらりとここを訪れた時の景時の顔を思い浮かべながら弁慶は返す。
「景時は君と違ってとても有能ですからね、皆の事を思って事実を述べただけだと思いますよ」
 本当に……彼はどうしてこうも人の心を察することに優れているというだろう。余計な事を、と、言いたかったが彼はここにはいない、だから、再び間合いを詰めて、かわりに目の前の九郎に切りつける。
「弁慶!」
「だからと言って、もう君と僕とは関係ないでしょう!」
 一度、二度、彼を追いつめる、途中で何度か薬草やら本を踏んだ、滑りそうになった、
「九郎が逃げ出した言い訳に僕を利用するのも、僕をあてにするのも、勘弁です」
それでも構わず薙刀を突きつけたところで、
ついに九郎の気配が揺らぐ。本気で来る、と思った時には遅かった。
「このっ……馬鹿!!!」
 がつんと、手に衝撃が走ってあっけなく弁慶の薙刀は飛ばされ、床に刺さった。
 呆然とする弁慶に、九郎は息を思い切り吸い込んで、
「もうお前には騙されない」
思いきり叫んだ。
 誰もが先生と弁慶をあがめる五条で、そんな、耳が痛むほどの大声を聞いたのは久しぶりだった。
「騙したなんて、酷いですね。それに九郎に馬鹿と言われるのも心外だ」
 薙刀を引き抜きながら、睨み返す。すると彼もこちらを睨み返すが、
「たっ確かに、俺は……単純だ。思ったことをすぐ顔に出すし、色恋も下手で、勘も悪い」
語りはじめた口調はたどたどしい。何も考えていなかったのが目に見えて、馬鹿と言われたのをそのまま返したくなった。けれど、弁慶は目を見張る。
「あの屋島のときだって、確かにお前が先に喋っていたら、俺は上手く演じられなかっただろう。間違いなく、お前を引きとめたと、思う」
 そんなことを言いながら、彼はするりと刀を鞘に収めてしまったのだ。……こちらは未だ獲物を手にしているのに?
「そうですか、それはよかった」
 知らぬふりで微笑みを返すと、彼も笑う。
「そうか? お前は確かに、俺たちを巻き込まないために一人で厳島に出向いたのだろう、でも、結局俺たちはお前を追いかけてしまった。分かってないのはお前の方だ、京でも皆がお前を慕うだろう? お前は、お前が思っているより多くの人に必要とされているんだ、そもそも、最初から敵は共通だったんだ。お前が罪を償うために清盛と討ちたかったのと同じように、あの場の誰もが清盛を滅ぼしたかった、それをお前は成した。将臣がいつか言ってた事だが、過去なんかよりも大事なのは結果なんだ、弁慶。だから、確かに一時京はすさんだのかもしれなくても、源氏の武士にとってお前は頼れる軍師で、この街の人にとっては、優しい薬師で、望美たちからしたら、ただ大切な仲間だった」
「そんなことを一年も考えていたんですか?」
 そんなのただの詭弁だ、弁慶は思った、けれど昔のように何故か上手く言い返せない。嘘が下手になったのだろうか?
 それとも、まるで知らない人のような彼の外見に戸惑っているというのだろうか……?
「ああそうだ。俺は、お前が京で薬師をやるのは構わないと思う、でも、いつまでも龍脈の事に捉われているのがどうしても気になった。だから湛快さんからもう一度詳しく話を聞いてきた。で、思ったんだが、そもそも、お前は罰の為に厳島に行き京に残ると言ってたが、それを定めるのは、お前ではないだろう、他人だろう?」
「なにが」
「俺にだって罪はある」
 九郎は一年分だとでも言うつもりなのか、剣のかわりに言葉でたたみかけてくる。
「俺は7歳で剣を持ち始めたときいたずらに人をあやめた」
「それは幼かったから」
「京で平家の郎党を見境なく襲った」
「僕はもっとひどいことをした」
「兄上のためと言ってたくさんの人を斬った」
「その策を出したのは僕だ」
「そもそも、そばにいたのに俺はお前の事を何も知れなかった」
 その言葉は深く響いた、九郎が俯く、目を伏せる。なのに刹那の後には、そんなことと跳ねのけるように、彼は再び弁慶を見つめる。
「ほら、同じじゃないか」
「何がですか」
「お前とだ。俺が罪だと思っていることを、お前は否定する。俺からすればお前の話だって同じなんだ、弁慶」
 ぐい、と、九郎は弁慶の腕をとり、引いた。
「九郎、」
「それを、俺は一年考えた。ずっとそればかり考えていた。それで分かった」
 九郎の声がすぐ横で聞こえる。それは耳を経由しないで、直接弁慶の中にしみ込んでくるようで、
まずい、と思った。突き飛ばす。
「何がですか?」
 すると今度は目が合った。髪が短い九郎はまっすぐにこちらを見ている。
「やっぱり、弁慶の考えていることなど分からなかった。一年考えてこれだから、きっと一生この調子だろう。でもそれで、源氏にお前を縛りつけて、お前に辛い思いをさせていた。これも俺の罪なんだろう、だからこんなことを言う資格はもうないのかもしれない」
 勘違いしたままの九郎の言葉に、弁慶の胸はますます痛む、けれど九郎は構わず続けて、
「でも、だからこそもう、お前が苦しんでいるのに気がつかないのだけは、断じて嫌だ。そう思ったら……兄上の元を去ることなど、他愛のないことに思えた」
 そしてまっすぐに言った。
「だから、俺はここに来た」
 あまりにもまっすぐで、眩しい程の言葉。軽やかな笑顔。
 途端、彼と過ごした10年が巡る、巡る。出会った日も、最後にわかれた時も、過って、目を伏せる、聞きたくなくて、耳を覆うように頭を抱える。
「どうして……九郎はいつもそうなんだ」
 その言葉は大きく弁慶を傷つけた。
「どうしてそうやって、僕に否定されてもやって来るんですか」
「……弁慶?」
「どうして僕の咎を増やすんですか!」
「何を言っている、どうした弁慶」
 言の葉として具現化した自分の心に全身が切り裂かれるようだった。痛い、言葉を紡ぐのがこんなにも苦しいことはなかった、
「どうして、僕のせいで、九郎が夢をあきらめなければならない!」
 望美に嘘をついたときだって、行宮のときだって、こんなに痛い事はなかった。嘘がつけない、繕えない、崩れてゆく。弁慶は膝を、両の手を床につく。
 どうしてそうやって生き方を変えるんだ、なんでそうやって、弁慶を京から引き剥がすのではなく、自分がこちらに来る方を選ぶのだ、九郎は!
 弁慶は誰よりもずっと彼の傍で見ていた、京で、平泉で、鎌倉で、熊野でだって、いつだって九郎は兄頼朝の為になることばかり考えていた、彼にはそれしかなくて、ずっとそうしていたのに、弁慶の為に捨てるという。
 繰り返し紡がれる言葉に、いよいよ耐えられなかった。
 なのに九郎はなんでもなく口にする、
「なんでだ? 俺の夢をどうしてお前が勝手に決めるんだ? 確かに俺はずっと、源氏の復興を、兄上と共にありたいと願っていた。でももう過ぎたことだ、今はとてもすがすがしい。なのになんで否定する!」
それを愕然と見上げた、絶望さえ感じた。一年前にも感じたものだった。その時の痛みさえもが弁慶の喉を絞める。
「そんなの今だけだ、神や御仏でなくても分かる。君はすぐに後悔する、頼朝殿が新しい国を作った時に隣にいれないことをずっと引きずるんだ」
「そうじゃない、お前のためだけなんじゃない……俺の為だ、さっきお前も言ったとおり、俺は逃げてきたんだ! ひとりでなんて、いられなかったんだ!」
「そんなの気のせいです」
「だから、どうしてお前は俺の事をそんなに決め付ける!」
「分かってないのは九郎の方だ!」
 片膝をたて、もう一度薙刀をくるりと回そうと身をひねる。
「そんなんだから僕に何度だって騙される!」
「騙されてない!」
 けれど、それさえもあっさりと、剣さえ使わず九郎は止めてしまった。そして、弁慶の手からはがすと、ぽいと遠くへ投げて放ってしまった。
「なにを……」
「俺はまだここにいる、だから騙されてなんかないぞ、弁慶」
 腕を掴まれたまま、それを払うこともできずに、弁慶は唇を震わせる。去年の自分なら、ここで九郎を睨みあげて冗談はよしてくださいとでも、それは勘違いです、とでも言えた筈で、実際言っていた筈で、
なのに言葉が紡げずに、身が崩れ落ちる。
「僕は……」
 そんな短い言葉さえも震える、呆然とする。なんで、たった一年で、どうして。
「僕は……」
 あんなに嘘をついてきた。あんなに作り笑いも重ねてきた。なのに、言葉がでない。笑顔も作れない。それがとても……恐ろしい。
「僕は君にずっと何も言わなかった。……つまり少しも信じてなかった。それは利用してたということだし、裏切りだ。最初だって、僕は君の気持ちなんて考えてなかった、ただ、言いくるめて手に入れてしまった。僕らは最初から恋を囁くような間柄ではなかった、こうして寄り添うような関係ではなかった、なのに、どうして、九郎は戻ってくるんですか」
 気付かぬ間に、九郎がひざまづく、距離が縮まる。
「仕方ないだろう! それでも、置いて行かれても、何も喋ってくれなくても、結局俺はお前が好きで仕方がないんだ、一年たっても変わらなかった! お前こそどうして分からないんだ? 本当は馬鹿だろう?」
 弁慶の手を取り、間近で言う九郎を、弁慶はぼんやりと見上げる。顔を真っ赤にして照れている九郎は、弁慶の見知った姿だった。
「そもそも、俺がお前を諦めないのと、お前がお前の罪を諦めなかったのと、いったい何が違うんだ?」
 それは全然違うもののように、弁慶には思える。
 けれど、確かにそうなのかもしれない。
 それでようやく、弁慶は自分が九郎から離れなければならないと決めつけていたのだと知った。

 そう、弁慶はもうずっと冷静を装って理解を諦めていたのだ。
 彼は自分の事など分からないと決めつけていた、実際いつもそうだった。
 けれど、本当のところ、先に言葉を閉ざしたのは弁慶の方だった。
 罪が暴かれるのが怖かったんじゃない、過去を、京の龍脈を止めたという自分の罪を告白して、何で誘わなかったんだと、当たり前のように許されるのが怖かったのだ。

 途端、彼の中で何かが流れるような気がした。それは最初涙かと思った。
 けれど違った、全然違う、それは遠い昔、まだ平泉よりもずっと前、たぶん、比叡にいる間になくしてしまったもの。
 遠い昔、九郎にはじめて出会った時、弁慶はそこはかとなく彼が恐ろしかった。あの頃の自分が本気で心を奪われてしまっているということが、自分じゃない誰かが自分を握っているという事実が、どうしようもなく不安だった。
「それに、お前はどうして否定されても笑っていられるんだ、って言った。そんなの、簡単だ。お前が面倒な事を考えすぎなんだ」
 九郎の手が背に回る、抱き寄せられる。以前みたいに、彼の長い髪が頬に触れることはないけれど、ふわりと彼の好きな香りが漂った。
「平泉にいた頃からずっと同じだったじゃないか。お前はあの頃からよく泰衡と一緒に俺を叱ってばかりだった。背も伸びた、剣の腕も変わってしまったし、いろいろなこともあった。あちこちにだって行った。それでも結局、お前は今でもこうして俺を叱る。だから俺の中で、お前はずっと弁慶でしかなかった、それ以外の何でもないんだ。
 ……今でも覚えている、昔、友でも先生でも親でもないものにお前はなってくれると言った。お前はそうして俺を騙していたんだと言う。お前が言いたい意味は分からなくはないが、それでも、やっぱり、俺にとってはそれも些細なことで、むしろ、そんな他の何にも変えられない絆が、俺は何より愛おしい」
 ほら、やはり九郎はあっさりと弁慶を許してしまった。しかも無茶苦茶だ、こっちの言い分は何一つ聞いていない。それはまるで、一年前の自分のようだった。問答無用で彼と離別した自分。冷たく切り刻んだ弁慶に対して、なのにどうして九郎の言葉はこんなにも暖かい……。
「九郎のくせに……」
 本気で言ったのに、九郎は笑った。
「やっと憎まれ口を叩いたな」
 弁慶はそれを見上げた。
 一年の月日は、はじめて離れた年月は、九郎を少し知らない人に変えた。それでも結局、九郎は九郎で、自分もそうなのだろう。
 凍りついていた感情が溶けだして巡る。指先から爪先までしみこんで混ざり、満たされてゆく。
「九郎」
 名を呼べば、たったそれだけで息が詰まった。長年ふてぶてしく生きてきた弁慶にとって、あまりにも今更なそれは戸惑いを感じずにはいられなくて、一度、目を伏せてしまう。
 それでも、きっと自分よりも馬鹿正直で、自分より弁慶を知っている九郎がいれば、そんなことを気にする必要もないのだろう。
「ありがとう」
 言えば、九郎がくすりと笑った。見上げると、どうにも見たことないほど幸せそうな彼の瞳に、やはり見たことないほど和らいだ顔の自分が映っていた。




最後記念で長めにあとがき(十六夜ネタばれ有)
遙か3は最初「面白い!みんな可愛い!!」と、わくわくプレイしてたんだけど、
十六夜の弁慶さんルートの結末が……現代に来てくれるのは勿論大歓迎なのだけれど、
九郎に何も言ってなさそうなところが凄く気になってしまっていて、それが気になって仕方がなくて、
それでああ、私そんなに五条が好きだったんだ!!! って気付いて恋に落ちました
それとは別に、遙か3、話が気になりすぎて全体的に読み飛ばしプレイをしてたんですが、
その結果、弁慶さんって京を荒廃させても構わないから清盛を倒しに行ったんだ、
ああこの人とにかく何でもいいから勝てればいいんだ…
ってずっと思いこんでいたので、こんな話になってしまいました
書いていて楽しかったのですが、
この展開で兄上見逃してくれるのかどうなのかが少し気になってます
九郎ルート以外の九郎は戦いのあと平和に暮らしているのかな…? 暮らしていてほしいです

長い話になってしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。
(23/01/2009-04/03/2009)

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サソ