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057「可視光線」067「嵐」053「アイタイ。」の続きです。
マルスの“世界”に何故かロイが紛れ込んでます。
そんな話です。
シリーズとしては今回が最後です。


   ******


「………」

執務室の窓の外を、ロイは黙って見つめていた。
窓枠に腰掛け、柵に背中を預け、熱の無い瞳で外を見ている姿は、
まるで無感情を絵に表したかのような空気を宿していて。
彩度の低い青の混ざった灰色の空。
銀色のしずくが、そんな空からもうずっと降り続いている。
   雨だ。

「アリティアはこの時期、雨が多いんだよ」

ロイに背中を向けて書類の整理をしていたマルスは、その手を止めてぽつりと言った。
振り向いて、ロイの方に顔を向ける。
どうすれば良いのかわからないような、複雑で優しい微笑みを浮かべながら。

「…気づかなくて、ごめんな」
「…別に、あんたが謝ることじゃ…」

そもそも、勝手にここに来たのは自分だ、と、ロイはマルスの深いいたわりを否定する。
それを聞いて少し寂しそうな顔をすると、マルスは椅子からそっと立ち上がった。
ロイの横に立ち、じっと窓の外を見つめる。
静かな、音を消す雨の音を。

「ロイ、」
「…?」

ふいに名前を呼ばれ、ロイはその碧の瞳をわずかに上げた。
思っていたよりも近いところにマルスの顔があって、思わず顔を引きかけた。

「中庭に、行ってみないか」
「…中庭?」

唐突な提案。疑問を感じながら、マルスを見上げる。
マルスはふんわりと微笑んで、続けた。

「雨の季節にしか咲かない、花があるんだ。
 小さな花なんだけど、綺麗だよ」
「………」

マルスと違い、別にロイは花が好きとか、興味があるというわけでは無い。
でもきっとマルスは、それを承知でこんなことを言っている。
唐突な提案の中に含まれた気づかいにちゃんと気づいて、ロイは窓から離れた。
かすかに漂ってくる、湿った土の匂い。

「…ああ。行ってみる」
「うん。…僕も、仕事を終らせたら、すぐに行くから」
「わかった」

ロイが一応なりとも笑ってみせると、マルスは少し安心したのか、静かに一息ついた。
そのまま部屋を出ようとする背中に、マルスの声がかかる。

「ロイ、中庭の場所は?
 それに、雨避けのマントを…、」
「城の構造なら覚えてるよ。マントはいらない。
 …って、そんな顔すんなよ、風邪なんかひかねーから」

マルスの心配どころくらい、ロイはきちんと熟知している。
心配症だな、と軽く言うと、真っ赤になって全力否定するマルス。
ああかわいいなあ、なんて思いながら、ロイは部屋を後にした。



雨の降る音。
よみがえる、冷たい記憶。
忘れられるわけもなく、未だに自分をしめつける。


いい加減どうにかしなければならないと、わかっているけど   



   ***



面白い造りの城だなと思ったことを思い出す。水路の通う、玉座の間も含めて。
例えるならそれは、大きなサイコロの真ん中だけを、まるごとくりぬいたような。
その“くりぬかれた”吹き抜けの場所が、そのままこの城の中庭だった。
晴れの日ならば空が見え、雨降りならば雨が降る。

中庭に一歩踏み入って、ロイはまず、風景に驚いた。
隅には木が覆い茂り、あちこちに背の低い植物が育っている。
そういえば中庭はまだ見ていなかったと、ロイはもう一歩進んだ。
雨が降ってくる。
ロイの髪に、肩に。

「………」

辺りを見渡し、マルスの言っていた花を探そうとするが、一体どれがその花なのだろうか。
その花はこの時期にしか咲かなくても、この時期に咲いている花はいっぱいあるのだ。
あいにくと花の種類など、よほど有名なものでなければ見分けもつかないロイには、
どれがそうなのか、見当もつかない。

予想された結果だったが、ロイは大きな溜息をついた。
どことも知れず、ぽつりと呟く。

「…マルスが来るまで、待つか?
 どうせ、すぐ見つけなくちゃってわけじゃ   
「…そこにいるのは誰だ!」
「!!」

突然飛んできた鋭い声に、ロイは思わず身体をすくめた。
まさか、人がいるとは思わなくて。
慌てて声が聞こえた方に顔を向けると、見たことのない植物達の真ん中に、
誰か、人影が見えた。

あのシルエットは見覚えがある。
いつもの帽子は被っていないみたいだが、あの魔道士特有のマント。
翠の髪は、確か   

「…何だ、あの無礼な子供か」
「…悪かったな。そっちこそ、ふざけた風の魔道士じゃねーか」

そう。   マリク、だ。
ロイと同じく、雨避けの道具も持たずに。

「何でお前がここにいるんだ」
「いちゃ悪いかよ。…この時期にしか咲かない花、とやらを見にきただけだ」

説明は不足しているが、別に嘘は言っていない。
何にしたってロイはマリクが大嫌いだ。
一度マルスのところに戻ろうと踵を返した背中に、マリクが尋ねる。

「誰かに言われてきたのか」
「…だったら、どーした」
「………。
 …だったら、それは、この花のことだ」
「………は?」

何のことだ。聞き間違いか?

「だから、この花のことだろうと言ってるんだ。…何だ、その顔は」
「…いや、だって…。」

曲がりなりにも親切心? のようなものを向けられ、ロイは内心かなり動揺した。
無意識にそれが表情にも現れているらしい、マリクは怪訝そうな顔をこちらに向けている。

ロイがこちらの“世界”に無理矢理乗り込んできてからこっち、
ロイとマリクは喧嘩ばかりだったのだ。否、喧嘩の一言では済まされないような壮絶さの。

そんな相手がいきなり親切心のようなものなど見せれば、当然戸惑いもするわけで。

「見たくないのなら、いい」
「え、あ…。いや、見る」

半ば挑発しているような声に素直に乗って、ロイはそちらに歩いた。
森と公園のミニチュアのような庭を進んで、
マリクに近づきすぎず、指し示された花の見える位置で立ち止まる。

雨の粒に濡れる花は、小さな、淡い紫色の花だった。
綺麗だけど、どこか儚い印象の。
それは、なんだか、まるで   

「…マルス…、」
「………」

あの綺麗な王子様のようだと。
そう、思った。

雨が、筋になって降ってくる。銀色のしずくが葉に落ちて、きらきら光る。
陽の光を浴びてもいないのに、まるで宝石のようなそれは、確かに似ていた。
ロイの、そしてマリクの、大切な、たった一人の王子に。

ロイはマリクに目を向ける。
マルスと同い年か、少し年上に見えるこの魔道士の視線の先には、いつもマルスがいた。
ロイの目から見て、それは、忠誠心や、心配とか。
それではなくて、それよりももっと別の種類の…。

「………」

自分の知らないマルスを、きっとこの魔道士は知っている。
その知らない部分を踏まえた上で、マリクはロイを敵視しているのだろう。
もしかしたら、単にロイが気に喰わないだけかもしれなかったが、
ロイには何故かそれだけではないような気がしてならなかった。

……何故か、なんて。
本当はもう、わかっているけれど。

「…マルス様だろう?」
「は?」

あれこれ考えていた頭に、予期せぬ言葉がかかる。

「マルス様に、言われたんだろう? 庭に来てみろ、と」
「…っるっせーな。だったらどうした」

図星だったのが何だか悔しくて…向こうの方がマルスを理解しているのだと、
嫌でも思い知らされるから…、ロイは思わず反抗的な態度で返したが、
マリクは少しも気にしていないらしい。
表情一つだって変えず、ぽつりと呟く。

「…別に。ただ、雨がお嫌いなところは、まだ治っていらっしゃらないのかと思って」
「………。………え…?」

雨が、嫌い。
虚をつかれるような、言葉だった。

雨が、嫌い。
雨が。
……誰、が?

「…雨が、嫌い? …マルスが?」
「…ちっ。知らなかったのか」

言わなきゃ良かった、と舌打ちしたマリクは、なんだか恨むようにロイを睨みつけ、
そしてすぐに視線をそらした。
彼の王子によく似た花に向けられた視線。
ロイは言葉を選ぶだけの冷静さだけは残しながら、ゆっくりと尋ねる。

「…本当…なのか?」
「嘘なんかついてどうする」

意外と素直だ。
などと思っている場合ではなく。

「………」

雨は嫌いだ。
それは、雨の日に、思い出したくない、忘れることのない、記憶があるからだ。
だから雨が降る日は、どうしても気分が沈む。
まるで別人みたいになって、自分以外の全てを拒絶する。
だけど。

「……マルスは…。
 ……マルスが、雨が、嫌いなら……」

あの日、傘も差さずに雨に打たれていたロイに、マルスは言った。
失くしたものは、二度と自分の手には戻ってこない、と。
だから強くなりたい、と。
ロイの気持ちを、せいいっぱいの心で感じて。
あたたかな、言葉をかけた。
雨の中で。

「……俺……。」
「……。
 ……何があったか、知らないが」

マルスが優しかったから、それから何度も甘えた。
雨が降るたびに、彼が傍にいてくれるから。
表面では拒絶していたけれど、心の中では確かに甘えていた。
だけど、だけど。
そのマルスが、雨を嫌い。
それが、本当だったとしたら   

「マルス様は、お優しいからな。
 周囲の人間を不安にさせるようなことなど、しないだろうさ」
「………」

きっぱりと、マリクは言い切った。
ロイが、顔を俯かせて押し黙る。

雨が降っている。
淡い色合いの空から、吹き抜けの中庭へ、銀色のしずくが降ってくる。
雨は、ロイの肩を、マリクのマントを、
そして、淡い紫色の花を。

「……マルスは、」
「………」

少しの間の静寂の後、ロイは顔を上げないまま、呟く。
雨の音で掻き消えそうな声で、

「……そのために、自分のいろんなものを隠してるんだろ?
 ……そんなもの、人にとっては、優しさなんかじゃねーよ」
「………」

なんとか言えたのは、それだけだった。



翠色の葉を塗らす、雨粒の音。
それからしばらく、二人の間に、一切の会話は、無かった。
ロイは花を見ながら、マリクは空を見上げながら。
ただ、黙って、何かを思う。
喋る必要なんか無い。
お互いに、お互いのことが、大嫌いだったから。
思う人のことは、同じでも。
同じだから、余計に。



「……お前は…、」
「…何だよ」
「……僕が思っていたよりも冷静だ。
 ……ただの礼儀知らずの子供だったなら、ぶっ飛ばしてやるのに」
「…それはどうも。」

やがて訪れた、軽口。
軽口の中に含まれた様々な思惑に、
もちろん二人は気づいている。


そして。


「……あの日。こんな、雨の日だった。
 ……マルス様は、変わってしまった」
「……え……?」


マリクは、突然、切り出した。


ずっとずっと、雨の降る空の、もっと遠いところを見上げながら。


「幼い頃から、お優しくて、聡明で、どこか儚い印象はあったけれど。
 それでもあの日までは、子供っぽい笑顔も、微笑ましいわがままも、
 どちらもきちんと持っていて、それを皆、あたたかく見ていたんだ」

驚いたロイがマリクを見ても、マリクはこちらを見ようとしない。
まるで空に、空から降る雨に語りかけているような。

「なのに、あの雨の日に。
 マルス様は、変わってしまった。気づいてたけど、皆、何も言わなかった。
 マルス様は、どこかが壊れたような微笑みしか向けなくなった。
 今まで以上に、弱音の一つも吐かずに、誰にも頼ろうとしなくなった」

それは、遠い記憶だった。
ロイが知ることの無い、遠い記憶。
翠の瞳は、大切なものを思う気持ちに満ちて。
ロイがそれを、黙って見ている。

何かが、起こった。
雨の日に。

「あの日のマルス様も、いつもとお変わりなく綺麗だったけど。
 だけどその代わりに、何も顔に映さなくなってしまった」
「………」
「原因は、わからない。
 マルス様が話そうとしないなら訊かないし、
 僕達は到底、マルス様になれるわけがない」

全てをひきさく戦争の中でも、最後のかがやきを失わなかった、マルスの、心を。
何かが、誰かが、何かのために、何かのせいで、壊した。
誰も知らない、きっと。
マルスと、
マルスの心を壊した、誰か以外には。

何かと、引き換えに。
幼い心を、子供っぽい笑顔を、いろいろな感情を。
閉じ込めて、閉じ込めたまま、失いかけている、
こども。

「………、」
「だから、僕は反対したんだ。マルス様が、そっちの“世界”に行くことを。
 もしもマルス様が、これ以上傷つくようなことがあったら。
 どうなってしまうのか、怖くて」

ロイの知っている、マルスは。
よく笑うようになった。

「…でも、こちらの世界にいても、マルス様は笑ってはくれないだろうと思った。
 …だから、許したんだ。賭けに出た。
 すべては、僕のたった一人の主君に。マルス様の、ために」

初めのうちこそ、表情は無く、今だって感情はやや希薄だけど。
だけど、とても楽しそうに笑うようになった。
花を見て微笑み、風の声を聞いて、
ロイの唇でふれられて、とても照れたみたいに、笑う。


「お前は。
    マルス様を、救えるのか?」


「………」


それは、とても真髄な声で告げられた、言葉だった。
その瞬間に、ロイは。
目の前の、嫌いな人間の。
いろいろなことが、わかったような気がした。

「オグマさんに聞いた。
 お前は確かに、マルス様が失ってしまったものを、取り戻してるのかもしれない。
 だけど、」
「………」

試されている。
頼られている。
任されている。
その三つの、間くらいに立っている。
ロイは、可能性だ。
マルスから遠く離れた、なのにとても近い人。

「傷が完全に癒えることなんか、無い。
 無かったことにしてしまうような、卑怯な人でも無い」

雨が、降っている。
こんなふうに、どんな音も掻き消してしまう、そのくせ、とても優しい。

「でも僕は、マルス様が、以前のようなマルス様を取り戻すまで」

マリクが、ロイをきつく睨みつけた。
思わず肩を強張らせたが、ロイはそれでもマリクを見据えて。


「僕は、お前なんか、絶対に認めない」


「………」


マルスを大事だという声で、マリクはきっぱりと言い切った。
それは、王子の幼馴染の、隠すことのない真っ直ぐな気持ち。
一体彼の目から、自分はどんなふうに見えているのか。
ロイに、わかるはずもなかった。

そして、

「…そうさ、認めて、たまるか。
 …マルス様が、お前の話をするようになってから…、」

マリクはロイから顔をそむけて、ひっそりと続けた。
ロイは、不思議そうに首をかしげて。


「…マルス様が…。
 …昔のお顔に戻ることが多くなった、なんて…。」
「………。
 ……お前……、」


それは。
本当に小さな声で、ささやくような声で綴られた。
ロイの顔を見ずに言ったのは、きっと、彼の精一杯の意地だったのだろう。
一瞬、小さな子供のように大きく目を見開いたロイは、
やがて言葉の意味を理解すると、ふ、と笑った。
雨の中で。

「……ふん。お前みたいな子供に、喋りすぎたな」
「……。お前さー」

くるりと踵を返して、マリクは歩き出した。
雨の降る中庭から、白い柱が並んでいる回廊へと戻っていく。
雨粒に濡れる翠色の髪と、深い藍色のマントの裾がなびくのを見ながら、
ロイは離れていく後ろ姿に声をかけた。

「案外、いいやつなんだな。好きにはなれねーけど」
「こっちだってそんなもの願い下げだ。
 マルス様に無礼をはたらく輩なんか、好きになれるわけがないだろう」
「どこが無礼だってんだよ。俺はマルスに愛を捧げてるだけだろーが」
「だから!! そういうところが…!!
 ……ッ、今日はもういい!!」

ロイの軽口に一回だけ振り向いたマリクは、
何とも言えない表情のまま、ついには全力で駆け出した。
回廊を走り、やがて壁の向こうに見えなくなった姿を、ロイは笑いながら見送ったが、
その表情はすぐに、どこか寂しそうなものに変わった。



雨粒にきらめく、淡い紫色の花に、そっとふれて。
大人のような横顔で、溜息をついた。

その時。

「………」
「……ロイ?」
「!」

声に呼ばれて、ロイは勢い良く顔を上げ、再び回廊に視線を向けた。
マリクが消えたのと反対方向の壁の向こうから、青い髪が覗いている。

「マルス、」

細い身体に少し大きいマントを被り、腕にもう一つ、マントを持って。
マルスが、こちらへ向かって歩いてきていた。

「今、マリクがいなかった?」
「……。別に」
「……? そうか。声が聞こえたと思ったけど、気のせい……、
 …ロイ? どうしたんだ、そんな顔して」
「……べっつにぃー。」

ロイの傍へ着くなり、マリクの名前を出したマルスを、
ロイはちょっぴり恨みがましい目で見たが、残念ながら意味は通じていないらしい。
不思議そうな顔でこくん、と首をかしげたマルスは、
やがて、淡い紫色の花に、視線を落とした。

「あ、それで……。これが、その花なんだけど」
「え? ああ、…ああ、うん」
「あ、その前に、やっぱり、これ…、」
「え? マント?」

ロイの腕に、マルスは持っていたマントを渡す。
風邪をひくといけないからと言って微笑むマルスが綺麗だったから、
ついつい素直に受け取ってしまった。
ありがとう、と言って。

肩からかぶったマントは、ロイの背丈にはかなり大きめだった。

恥ずかしそうな、腹が立っているようなロイの横顔を見ながら、マルスは笑う。
そして。

「…マリク、いたんだろ?」
「………」
「何か、言ってなかったか?
 …マリクには、ずいぶん心配をかけているから、」
「………。」

穏やかな、そしてどこか寂しそうな声で、マルスは問う。
マルスが二人の話を聞いていたとは考えられないが、ロイはなぜか、
不思議な罪悪感に囚(とら)われた。
それはもしかしたら、マルスの微笑みが。
この“世界”で出会った人達の言う、何かを失くした微笑みだったから、かもしれない。

「…僕が弱いから、みんなを傷つけてしまうけれど」
「………」
「ロイ。……この国のこと…、どう、思えた?」
「………」

青い髪に、藍の瞳に、銀色のしずくが落ちていく。
白い頬が描く輪郭を伝い、わずかに覗く細い首筋を伝って、
そんな様は、とても綺麗に見えて。

この世界に来たのは、これ以上、知ることができないと思ったからだ。
マルスのことをこれ以上知るならば、他の誰かに聞かなければならないと思ったから。

深い、長い息を吐いて。
ロイは、微笑む。

「綺麗な国、だったよ」
「………」
「みんな、あんたのことが好きなんだな。
 みんな、いい人だった」
「……うん」

小さな声で、頷いて。
マルスは、瞳を空へ向けた。雨の降る、灰色の空へと。
その横顔を、ロイは見ている。

雨の日。
ロイが、何も喋らなくなる、雨の日は。
いつだって、マルスが傍にいた。
何も言わずに、何も言えずに、
ただ、ずっと。

ロイは、ふわりと、腕を伸ばして。

「……マルス、」
「え? …っ、ロイ?」

少し背伸びをして、マルスを抱きしめた。
思わず、といった様子でマルスが一瞬抵抗したが、ロイは放そうとはしなかった。
肩口に顔をうずめると、もう顔はお互いに見えなくなる。
ロイの濡れた髪がマルスの首筋をくすぐって、マルスは小さな声をたてた。

赤い髪。意志の強い、瞳。
マルスはいつか、赤い色が嫌いだといった。
違う誰かが、瞳というのはまぶしいものだと言った。
ロイは。
自分のせいではない理由で、自分が。
どんなふうに大切にして、マルスを傷つけたのか。
ロイは、知らない。

「ロイ…?」
「マルス、…俺、今日、あっちの“世界”に帰るよ。
 …ここに来て、良かった。
 あんたの世界が、こんなふうなところだってわかって、良かった」

得たものは大きく、失ったものもある。
まだ、まだ大丈夫。
自分はまだ、彼を大切にできる。
抱きしめて、抱きしめて、ロイは耳元にささやいた。

「……あんたの好きなものが、この世界なんだって、知って、良かった。
 ……こんなに綺麗な世界で、良かった」
「………ロイ…、」
「だから。ありがとう」

雨が降る。淡い色合いの空から、銀色のしずくが降ってくる。
いつかの雨の日に。
ロイは、大事なものを失って。
マルスは、心を壊して、いろんなものを失った。

この世界で、マルスがどんなふうに笑い、どんなふうに苦しんだのか、ロイは知らない。
知ることはできない。それは、マルスの過去だから。
だけど、せいいっぱいの心がそれを感じて。
大切なこの人を、大切にできればいいと思った。



雨が降る。
神様に愛された青い王子が守る、青い、水の国。



花の上できらめく、雨粒のような。
たとえば水の面(おもて)が、光をはじいてかがやくような。
夕焼けの中で、人々が絶えず笑い合っているような。
彼が大切に思う人が、彼を大切に思うような。
彼がいつも、大切にしたいと言っていた場所が。
どうしてそんなに大切にしたいのか、わかった気がした。





二人からは見えない、城の向こう側の、遠い空が。
雨上がりを感じて、わずかに明るくなっていた。



ロイが帰るとこまで書くべきなのでしょうが、
とりあえずロイ様紋章世界に行くシリーズ(?)はここで終わりです。
毎度のことながら私しか楽しくなくてすみませんでした。
というか、シリアスですみませんと言いますか…。

ちょっとでも楽しいとか、そんな感じのことを思っていただけたら嬉しいです。