Ozone-1o
我執の人
板の隙間から黒い海面が見えるような、雑な作りの木製桟橋が人工島の切り立った海岸に張り付いていた。いかにも急ごしらえといった風に、後からつけたとわかる手すりは鋼材を組んだだけのもので、これが潮風に晒されて錆びている。簡易な桟橋だが相当長く使われているらしい。恐る恐る手すりに手をかけた石神は、それが見た目以上にしっかりと作られていることに気づいた。
なるほど、と思う。
いくら長崎沖とはいえ陸からはそう離れていない。あまり目立つ外観にならないように上手く偽装してあるのだ。
端島、通称軍艦島は今現在も稼動している炭鉱だ。しかし、その下には端島から北西へ約1キロ離れた隣の中之島までに及ぶ、巨大な地下空間に加藤機関の本拠地が広がっている。いわば炭鉱は完全なカモフラージュにすぎない。
「まったく手がこんでることで……」
そう呟いて、石神は手すりに覆いかぶさるようにして両腕に顎を乗せた。
長崎の海は温かい。濃厚な潮のにおいが吹き上がってくる。それは血のにおいに似ていた。
目を眇めるようにして黒い海面を見つめていると、記憶の波間から視線が石神を見つめかえしてくる。その視線は無感動で揺らぐことがない。二対の眼は常に石神を捕らえ続け、認識し続ける。
朗々と知識を羅列する声が脳裏に押し寄せ、泡沫となって消えた。その間も視線は石神を離さない。作り物のような顔で喋る人間の背後の、巨大な生き物の気配が場を圧倒的な存在感で支配していた。
艦と呼ぶには巨大すぎるソレを加藤はシャングリラと呼んだ。
人は理解を超えた現象を目の前にすれば当然、困惑する。
あまりも壮大すぎる真実。想像を超える規模の艦。理解を超えた科学。それでも石神は自身でも自覚するように、御伽噺にすらならない荒唐無稽な話を存外、素直に受け入れた。
しかし唯一、受け入れられないものがある。
彼はヒトと呼ぶべきものなのか?
血の通った人のように見えて、時として不気味なまでに人形めいた顔を見せる加藤久嵩という男の存在に受け入れがたいものを感じる。
巨大なマキナに支配され、隷従している付属物。石神には加藤は時として、そんな風にしか見えないのだ。
疲れた頭を休ませようと、息と同時に頭の中で渦巻いている不安を吐きだして水平線へと視線を移した。
静寂に風切り音と波が立つ音が休むことなく続く。しかし、不意に硬い靴底を叩きつけるような甲高い足音がそれらを蹴散らした。
「こんな所に居たのか」
どこか少年のような声が笑った。
石神はゆっくり身体を起こして向き合う。正真正銘の人間らしい顔に加藤はどこか同情した表情を浮かべていた。
「頭で湯がわかせそうなので、こうして冷却中であります」
至極真面目に敬礼して見せると加藤がクスクスと笑い声を潜めた。
軍服を着た大男の仕草にしては妙に子供っぽい。その不釣合いな仕草のせいか、余人の無い時の加藤の姿はまるで学生劇団の扮装のようでもある。
そもそも背丈だけはあるが、軍人というにはあまりにも細身でらしくない。元より軍人などではないのだから当然とも言えるのだが、これが不思議なことに石神以外の人間の前ではいたって将校らしく振舞えるのだ。
「1時間、2時間で理解できたら、まぁ天才だ」
そう言って、加藤は石神の横に並ぶと、一見すると脆そうに見える手すりに何のためらいもなく背を預けて、気だるそうに天を仰いだ。すでに体重をかけた程度では軋みもしないことは知っているし、加藤もそんなことは承知なのだろうが、それでもあまりに思い切りが良すぎる動きに石神の方が落ち着かない気分になる。
「なかなか信じがたいだろうが、疑問質問なんでも答えるから遠慮なく聞くといい」
「マキナとか言うものに関しては実物を見せてもらったので信じますよ。ありゃ凄い。これでも軍人の端くれですから、張りぼてじゃないのはわかります」
「マキナに関しては、か。それ以外は信じがたいと?」
ずり落ちかけた制帽を手で押さえて、加藤が身体をまっすぐに立て直した。
一見、聞いていないようで、わずかな言葉の端を見逃さない加藤の隙の無さにドキリとなる。
石神は髪の短い頭をくるりと撫でて、曖昧な笑みを浮かべた。
「いやぁ、そのー……、正直言って加藤少将がナノマシン?とかいう物で不老不死ってのはちょっと実感がわきませんなぁ。見た目、普通の人間にしか見えませんし」
信じないわけではないが、実際に何十年、何百年と全く容貌が変化せずに生き続ける姿を見たわけではない。ナノマシンについても一通り説明はされて、不老不死である理屈も理解はしたが現実感はまるで持てないでいる。
「確かに、一見して変わったところがあるわけじゃないからな……」
加藤はそう言うとちょっと思案して、おもむろに佩いていた短剣を抜き放った。
突然、目の前に現れた白刃に思わず息を飲んで石神は身構える。
通常、士官は艦橋以外では携帯しているのが当然で、存在自体は驚くべきことではない。だが、これは服装の一部であり、本来はまず抜くことが無いので、石神も含めて誰も凶器を携帯しているという意識は持っていないのだ。
加藤は剣先を下に向けて眼前に掲げた。
波紋の無い、のっぺりと濡れたような光をたたえる不銹鋼刀の向こうに見える加藤の目は笑っていない。
「石神、よく見ているといい」
人形めいた顔に唇が鋭い弧を描いて笑みを作った。
加藤の右手が指先から刃を撫でるようにして滑り、掌が短剣を包む。そのまま、ぐっと力をこめて握りこんだ。
桟橋の床へ夕立の降り始めのような、パタパタと軽い音をたてて鮮血が玉になって零れる。それが声をあげる間もなく、雫から糸を引く一筋の流れ変わった。
あっという間に黒い油を引いた床に、不釣合いなほど鮮やかな血が池を作る。
濃厚なにおいに一瞬、気分が悪くなった。軍隊という場所柄、怪我は日常茶飯事で流血程度では動揺しない自信があった石神だが、間近で滝のようになって流れ落ちる状況を目の当たりにしてみるとさすがに怯んでしまう。
愕然となる石神の様子に加藤は張り付いたような笑顔を崩さない。
感情のない眼差しを背に短剣が軋んで、加藤の細い手でゆっくりとくの字に折れ曲げられていく。
「バカな……!」
硬い刃を何の勢いもつけずに、人間の腕の力だけで曲げるなど本来は不可能だ。
だが、あっけに取られる石神の前で完全にL字に折れ曲がった刃はついに断末魔をあげて真っ二つに折れた。
折れた刃が手の中から滑り落ち、血の池の中へ重い音を立てて突き立った。まだ輝きを失っていない磨き上げられた金属の肌を、残った血糊が滑り落ちて血溜まりへと吸い込まれていく。
わずかに刃の根元が残った柄に視線をやって、加藤は興味を失った子供の顔で床へと所在無く投げ捨てた。
右の手からはまだ血が滴り落ちている。
「な、なにをやってるんですか!」
咄嗟に石神は加藤に飛び掛るようにして、まだ血が流れ落ちる右手の手首を強く握り締めた。その石神の胸を加藤の左手がやんわりと押し返す。
「服が汚れるぞ……」
事も無げに言って、加藤は少しため息を零した。
「思ったより痛かったな」
「当たり前だ!何を考えているんだアンタは!」
思わず声を荒げた石神に、加藤は驚いたように顔をのぞきこむと、面倒とでもいうような表情を浮かべた。
状況の異常さに反して、妙に長閑な潮騒と、かもめの声に無言が続く。加藤がぼんやりと上の空といった顔をあらぬところへ向けているので視線の先を見てみると、ふらふらと空を漂っているかもめを見ているらしかった。
石神は呆れながらも、どうやって傷の手当てをしたものかと思案する。
相当深く切っているから縫合しなくてはならないのだが、とにもかくにも何かで縛って止血しなければならない。何か良さそうな物はあるだろうかと考えていると、不意に加藤が手を引いた。
「もう良い。止まった」
その言葉に石神は言い知れないような不安に駆られた。あれほどの傷が何もせずに、この短時間で止血できるとは到底思えない。だが、ファクターならばありえるのかもしれない。それを確かめたいという好奇心と、知ってはならない物をのぞき見てしまう恐怖が沸き立つ。
加藤はこともなげに桟橋を引き返していって、ほとんど形ばかり階段状になっているのを1段下りると、身を乗り出して海水に手を無造作に突っ込んだ。袖口が濡れるのもお構いなしだ。
この時になって、やっと石神は加藤が左利きであることに気づいて、よほど自分が動転しているのだということを自覚した。
ハンカチで乱雑に拭いながら戻ってきた加藤の手は見る限りでは概ね綺麗になっているように見えた。
「あの……」
言いかけた石神に加藤は掌を胸の前で上に向けると視線を落とす。
「もう塞がったようだな」
同じように視線を落とすと、確かに掌には真一文字に描いたような線が刻み込まれていたが、傷口自体にはすでに薄い桃色の皮が張っていた。
見た瞬間、石神は言い知れない感覚に眉をしかめた。
これは人間のなせる業ではない。確かに加藤という男はヒトではないのだ。人間のように振舞っている別の何かであるのだということの重大さに石神は恐れ慄いた。
「なんだ怖いのか?」
加藤が笑う。その目には確かに人間の複雑な感情が宿っていた。だからこそ、この現実が恐ろしい。
「なにも切ることはないでしょう……」
論点のズレた言い訳に加藤は上機嫌で笑みを浮かべた。
「百聞は一見にしかずと言うじゃないか。事実、身に沁みてわかっただろう?」
「それはまぁ」
人の嫌悪の表情に機嫌を良くする歪んだ反応に、加藤の屈折した感情の一端が見てとれた。もっとも、こういう身体で歳もとらずに延々と生き続けて、全く精神面が健全であったら、むしろその方が不健全だと言わざるをえないのではないかと石神は思う。
そろそろ行こうと、背を向けた加藤に続きながら、石神は自分に問う。
この男についていくか、あえて拒絶するか。それは極めて単純な二択でもある。つまり生きるか死ぬかだ。これ程の秘密を知った人間を解放してくれるはずがない。加藤に従わなければ消されるのは明白だ。
しかし、石神は自身の生死に関して、それほど関心がなかった。自分を守るために意に沿わぬことをするくらいなら、いっそ死ねばいいと思う。
かつては愛国心に溢れる少年だった自分を思い返す。自分の頭脳に自惚れ、兵学校を志望し、その才覚でもって大日本帝国を列強から守り、ひいては大東亜共栄圏を築く一助になれると信じた。
だが、その尊大な自負は狭い組織内での派閥争いと嫉妬という低俗な現実、情勢が厳しさを増せば増すほど逃避するかのように妄想を描き続ける上層部への幻滅の前に脆く崩れた。
そして挫折した石神は消極的な死を選んだ。現場に居ることに拘って中尉という地位にあえて甘んじ続けたのは、戦線で死ぬのが無責任な軍国少年の成れの果てに相応しいと思ったからだ。
石神は誰も救えない自身に絶望した。
だが、加藤は大真面目に全世界がいずれ直面する危機を回避し、全人類を救うなどと大それたことを言う。そして、共に救おうと恐ろしいことを言う。
「一つ聞いても良いですか?」
「なんだ?」
気の抜けた顔で加藤が振り返る。
「いきなり色々と凄いことを教えてもらってなんですが、自分はまだ一言も協力するとは言ってないし、このことを周囲に喋らない保証もないんですが」
呆れたように加藤は薄く笑みを浮かべた。
「そんなことしやしないさ、お前は。そうだろう?」
ただ石神は困ったな、という顔で笑ってみせた。
否定の言葉を探して、結局はそれを見つけること出来なかったからだ。
2020年4月25日、午後。
加藤機関による襲撃という大事があったにもかかわらず、やけに静かな昼下がりを迎えた。この件での日本政府からの呼び出しは、のらりくらりと週明けに伸ばしたし、それ以外は一切の対応を放棄した。
早瀬浩一が死んだはずの矢島英明との再会を果たしたことで起こった悶着に関しては、石神は全く無頓着に放置している。
「良いんですか?放っておいて」
緒川の声は表情同様に疲れていて、どこか怒っているようでもあった。
「だって、今顔あわせたら殴られちゃいそうだしー」
気の抜けた声で返事をして、椅子に座ったまま上半身を屈めると床に落ちてしまっていた写真立てを拾った。フレームを舐めるように指でなぞる。モノクロの集合写真、中央の加藤の姿を確認して再び机の上に伏せて置いた。
「ああいうのはさ、オレがどうこうするより、その内、頃合い見て殴り合いでもした方がこじれなくて良いんだよ」
「そんな殴り合いなんて……」
「若い子はそれが出来るんだから良いじゃないか、やらしとけば。下手に歳を食うと、それも出来なくなる」
そう言って、石神が机に入ったひび割れへ視線を投げた。
殴りかかってきたら殴られるのも悪くないと思っていたが、加藤はそれをしなかった。おそらくは本気で殴りつけようとして、結局のところそれが出来なかったのだ。
互いに触れることを極端に恐れている。本心を暴露する引き金になることを加藤も石神も気づいているからだ。
つっと立ち上がって、机の反対側へ回り込んだ石神はささくれ立った机のひび割れの上に手を置いた。加藤の触れた所へ手を重ねる。
「いきなり机を殴って壊すとは穏やかじゃないな」
振り返ると緒川は困惑した顔で立ち尽くしていた。
「自分の手も相当痛いだろうに、ね?」
憐憫と皮肉を込めた言葉で同意を求められて、緒川は慎重に言葉を選んだ。
「あの加藤久嵩が我を忘れる程、激怒していた……、ということですか?」
悪戯っぽく笑って、緒川の優等生な返答に少し皮肉った笑みを浮かべた。
「加藤は大概、頭の中は冷静さ。まぁ、今回ばかりは半分ばかし本気だったかもしれないが」
ゾッとするほど冷めた目で笑う。
「昔から、わざとこういうエキセントリックなパフォーマンスをやって見せる男だったよ、あいつは……」
故意に意地の悪い見方をした物言いをした理由が、石神は酷く可笑しかった。
相当に加藤を突き放して見ていないと、すぐに気持ちのどこかが揺らいでしまう。自身の気持ちの扱い辛さと、度を越した加藤という人間に対する思い入れの深さに石神は呆れた。
「変わらないなぁ……」
呟いて、そして緩く首を振る。
「いや、変われない、か」
ファクターは例え何年生きても老成しなどしない。外見の時が止まるのと同様に、内面の時を止めてしまう。
不老不死という一見、素晴らしいように見える特性も、時として重大な欠点を生むのだということに石神が気づいたのは、自身がファクターになってからだった。
よくよく思案の上でファクターになることを選択したはずでも、そのことには気づけなかった。加藤は百聞は一見にしかずと言ったが、まさに体験しなければわからないことはあるものだ。
永久に加藤は世界を救うためにはファクターを殺すという方法論から抜け出せない。根本の方向性を変えない限り、加藤ほどの頭脳をもってしても不可能だ。
「まったく不便なもんだよ、ファクターって奴は」
そう言いながら、自身もまた世界を救うという理想に囚われていることはよく自覚している。
思わず感傷に耽りそうになるのを緒川の声が引きとめた。
「あの……それで、次のデスクですが、やはり納品は来週になるようです」
本来の用事、つまり破壊されてしまった机の交換の話を緒川が思い出したように切り出した。処理の多さに手一杯の様相だが、それでも細かい事にもきちんと気を配る。秘書としては優秀だ。
「別にこのままでも良いよ?」
「そういうわけには参りません」
きっぱりと言い切って出て行く緒川の背に、でも惜しいと石神は心の中で付け加える。
優秀だが、人という物を知らなさ過ぎるのだ。加藤の触れた場所に手を重ねて、二度と触れぬと誓った相手の気配を貪るような心情を理解できるほどには屈折した感情を知らない。
恐らくは、加藤ならば理解するだろう。会えぬ人を追い求めることでいえば、加藤の方がよほど長く時間を費やしている。
愛おしく荒れた木肌をなぞる。幾度となく反芻した記憶を呼び出して、石神は胸の中につかえた息と同時に押し込めていた言葉を吐き出した。
「変わらないな、貴方もオレも」
20130120