Ozone-1o
切り裂く言葉
ジリジリと音を立てて切り落とされた銀色の髪が青いナイロン製のケープに零れていく。物が映りこむほど磨かれたハサミの刃が落ち着き無く震えて、細かな髪を振り落とした。マサキは溜め込んでいた緊張を息と共に吐き出して、きつくハサミを握りこんだ。すぐ横に置いた丸椅子に座って、面白そうに眺めている石神を見る。何か言いたかったが言葉が出なかった。
石神も何も言わずにただ笑う。
「なぁ、まだかかりそうか?」
代わりに目の前の頭がわずかに振り向いて、動きを止めたマサキの様子を伺う。
下着姿で首にケープを巻いて、石神と同じ丸椅子に座っている加藤は背を向けているので表情はわからない。だが、呆れたような顔は容易に想像がついた。
「あ、あの……、やっぱり僕、無理です。いつも通り石神さんが切ってください」
「それじゃあ練習にならないだろ」
石神はやはり半笑いを浮かべて、マサキにというよりは加藤に言い聞かせるように言う。
「でも、失敗して虎刈りになったら……」
ハサミを持ったまま震えている右手を左手で庇うようにして握ったマサキは、床へまばらに散らばった髪を見渡した。たいした量ではない。まだ裾にほんの少し刃を入れただけだ。
「多少失敗したってどうってことない、ですよね?司令?」
「……人の頭だと思って勝手なことを言うなよ」
二人のやりとりに一層どうして良いのかわからなくなってマサキは途方に暮れてしまう。
いつ頃からだったか、加藤の髪を切るのは石神の仕事になっていた。そうなった正確な時期もきっかけもよく覚えていない。ただ、マサキが加藤機関へ来てからだったのは確かだ。
こうすれば面倒がないからと、石神が言ったことだけは覚えている。加藤もそれで異存はなかったのか、今ではすっかり髪が伸びてくると石神が切るのが当然のことになっていた。それを突然、代わりに切れるようになれ、練習しろと言われても、マサキは当然ながら加藤も戸惑っている。
「だいたい、なんで突然、マサキに練習させるなんて話になったんだ」
加藤の質問というよりは詰問めいた口調にも、石神はただただ笑みを浮かべて、まるで微笑ましい光景でも見るように目を細める。
「いやぁ、私が居ない間、マサキが代わりに切ってくれたら加藤司令だって不便な思いをしなくて済むでしょう?」
「そんな我慢できなくなる程の長期で艦を離れることなんかないだろ。お前は主戦力なんだし」
「我慢しなくて良いようになるんだから、良いじゃないですか。自分だって最初は恐々切ってたんですよ。軍に居た頃はバリカンで刈るなんてのはやりましたがね」
加藤と石神のやりとりにマサキはなぜかドキドキしてしまう。加藤にこんなに明け透けに物を言うのは石神だけだ。石神はちゃんと上司と部下という線引きをつけながら、それでいて加藤の昔からの悪友のように時には厚かましく、それでいて繊細すぎるほどに機微を汲んで接している。
不器用な加藤の横に器用すぎるほど器用な石神が並んでいる画がマサキは好きだった。この二人の会話を黙って聞いてるだけで、何か楽しい気すらする。
「いっそバリカンで丸刈りにしますか?」
「それは嫌だ……」
石神が声をたてて笑う。加藤の拗ねた横顔に思わずマサキは小さく笑った。
蛍光灯の光が、背骨がくっきりと浮かび上がって見える華奢な首筋を青白く染めていた。張り出した肩甲骨のせいで薄い影が背中に一対の模様を落としている。その首筋や背中、張り出した肩口に、そして冷たい床に白というよりは銀色透けた髪が散らばっていた。
透けるような項に剃刀を当てて、襟足をそり落とす。もう、その作業にも慣れた。何度となく繰り返した作業だ。
「お前も上手くなったよな……」
ぽつりと呟く声にマサキは手を止めた。
裸で床にどっかりと座り込んだ加藤は少し下を向いた姿勢のまま動かない。
この後、そのままシャワーを浴びる方が楽だからと、いつも髪を切る時は素っ裸だ。
「今なら、もう石神より上手いんじゃないのか」
すでにマサキの方が石神よりも側にいる時間が長くなっていたのだから当然のことだ。
その言葉に、奇しくも加藤も同じ瞬間の記憶を思い返していたことにマサキは気づいた。
マサキに髪の切り方を教えた日からちょうど一週間後、石神は加藤機関を出奔した。加藤もマサキも、あの時、石神が言った「居ない間」という言葉の意味に気づいたのは、さらにもっと後だ。
「しかし、帰ってくるような物言いだった割には帰ってくる気配もないな、あいつは」
確かに石神は居ない間と言った。間ならば、いずれは帰ってくる気があるということだ。
泣いて探しに行かないのかと言ったマサキに、加藤はただ自分の意思で出て行った人間を探してどうなると言って、それ以上この問題について触れることすらしなくなった。しばらくは、そんな加藤を恨んだが、今からしてみれば石神が帰ってくる確信があったのだろう。
剃刀の刃先に走る細い光の筋が眼に刺さって、マサキは眉をしかめた。
さらに何か言おうとした加藤の首に再び指先で触れる。小さく息を詰めるのがわかった。
「黙ってじっとしていて下さい。切りますよ」
一瞬の沈黙。そして鼻で笑う。
「……殺れよ」
マサキは目の前の白い肌を見つめていた。普段から日光に当たることもない。まして襟に隠れているそこは皮膚の下の細い血管が青く見えている。
加藤の項の髪を丁寧に払い落として、そこへ剃刀をきつく押し当てた。刃が食い込んで皮膚が歪むほど強く力をこめて、ゆっくりと横へ引く。
無言のままぐっと加藤の肩周りに緊張が走った。
一筋、引かれた筋から玉になって溢れた鮮血が白い空間で目に痛いほど強烈な色で零れていく。
唇を寄せて、そっと舐め取ると傷はもうすでに塞がっていて薄皮が傷口を覆っていた。
「黙っていて下さい」
「悪かったよ」
それきり髪を切り終わるまで言葉は交わさなかった。それが二人の常でマサキは安堵する。
互いに沈黙という卑怯な優しさで一つの事象を避けてきた。それが今日も変わらなかったからだ。
散らばった髪を掃き集めながら、すぅと息を吐いて心の中を空にする。そして、マサキは黙々と片付け終わると何も告げずに部屋を出た。
20120614