母さんが、おかしい。
この前の雨の日以来、定期連絡がぱったりと途絶えた。
アレはメールだけのモノだから、会話には乗せられないし、聞くわけにもいかない。
父さんのお相手に勝ったのかとも考えられるけど……多分違う。
何故なら父さんの携帯のメールBOXは空になっているし、着信履歴も削除されている。
浮気している最中の父さんは、少し調べれば直ぐにわかってしまうのだ。
なら、何故?
嘔吐を繰り返す音。
浅い眠りを感じていた僕は、ゆったりと目を開けた。
誰が作り出している音かなんて、考えなくとも判る。聞きたくなくて、布団を頭にまで被らせた。
瞼を強く閉じる。眠ってしまえれば、楽なのに。
浅く荒くなってしまった呼吸を正す。ゆっくりとした呼吸は良い睡眠を作るとか、何かの番組で見たから。
でも無理だ。閉じた布団の端から、僕は無意識の内に耳を澄ませている。聞きたくないはずなのに。
そんなに苦しいなら、いっそ全てを捨ててしまえば?
食いしばった歯の隙間から、漏れそうな声を飲み込む。それは僕に向けての台詞か。それとも。
***
それから一週間。僕は母さんが『一段階先』に進んでしまったことに気がついた。
毎夜聞える嘔吐の音。毎朝気がつく、手首の傷。
僕にメールを送りつけるだけでは、もう絶えられなくなったらしい。
それなら僕は、どうすべきなのだろうか。やっぱり気がつかない振りをし続けるべきなのか。
布団の中で息を殺し、来るかもしれないソノ日に、唯怯え続けていなければいけないのか。
誰か、助けてくれ。
薄く開いた口から漏れた言葉。目の端に泪が溜まっている。
可哀想な自分は、無理をしている自分はもう限界を感じているのだろうか。
下らない。下らない下らない。
誰も助けてくれる筈ない。僕自身、誰に助けを求めていいか判らないって言うのに。
何をバカなことを考えたのだろう。あまりにバカバカしくて、泪が出る!!
***
それからまた数日が過ぎた。
毎晩聞える嘔吐の音が、ずっと耳元に張付いている。
ソレも忘れるように友人たちと遊び、真夜中過ぎに家に帰ると電気がついていなかった。
いつもなら例え寝ていたとしても電気だけはついている。ということは、出かけているのだろうか。
いや? こんな時間に出かけることはない。もし何処かに行くとしても、必ず連絡があるのに。
心臓が急に音を立てて鳴り出した。慌てて家の中に駆け込み、しかし足音は立てないように家の中を巡る。
リビング、キッチン、トイレ、風呂場……一階には人の気配はない。
じゃあ2階か……? そこでようやく気がついた。僕はあの雨の日以来、父さんを見ていない。
朝も夜も会わないことが普通すぎて気にしていなかったけど。家に帰っている日は、玄関にクツが並んでいる。
心臓の音がまたうるさくなった。もしかして父さんはずっと帰ってきていないのか?
寝ているだけなのかもしれない、という希望の捨てきれない僕は、足音を立てぬように2階に向かう。
どうか、居てください。
一体誰にお願いしているのか。判らないけれど。ただただ、頭の中で繰り返す。どうか2人とも居てください。
母さん達の部屋の前。軽く深呼吸する。襖の向こう側からは、寝息さえ聞えては来ないけれど。一筋の希望を胸に。
カーテンさえ開け放しの部屋。敷かれたままの布団には、人が入っている様子はない。
父さんも、母さんもいない。一体何処に行ったのか、僕には見当もつかない。
上着のポケットをまさぐり、携帯を取り出す。電話帳。検索。そこで僕の指は何かを探してソコで止まった。
はて、僕は誰に電話するつもりだったのだろうか。頭の中に生まれた疑問。
やはり当事者の母さんや父さんか。まさか、無理だ。2人は僕に『知らない振り』をしていて欲しいのに。
例え定期連絡を受けていたとしても、僕は能天気にしていなきゃいけないのに。
ならば一体誰に掛ける。姉貴? 友達? ダメだ。こんなことで周りを煩わせてはいけない。
携帯のボタンを押す僕の指が迷っている。何処を押したら良いのか、答えは何も出てこないから。
***
朝、目覚めても誰もいなかった。
昨晩、助けを求める先さえ見つけられなかった僕は、結局通常どおりの日常を送ることに決めた。
つまりシャワーを浴びて、焼酎をストレートで一気飲みし、布団に入ったのだ。
ムリョクな僕では、何も出来ないことを知っているから。
いつもどおりの日常。
学校に行き、講義を受け、バイトに行き、終わってからは友人たちと食事に向かう。
優しい笑顔の僕は、いつも通りのテンションで笑い、はしゃぐ。誰も何も気がつかない。それで、良い。
そして真夜中過ぎに自宅に戻る。また電気は付いていなかった。
素知らぬ振りで中に入り、シャワーを浴び、焼酎を一気のみして直ぐさま布団に入る。
アルコールが瞼を押し潰せば、直ぐに朝がやってくるだろう。
夜中に嘔吐の音が聞えないぶん、こちらの方がマシかもしれない。チラリと考えて、小さく笑った。
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