『も う 直 樹 さ ん が 此 処 に 来 る こ と は な い と 、 薫 博 士 が 言 っ て い た 。
そ し て 薫 博 士 は 日 め く り カ レ ン ダ ー を 捲 ら な く な っ た 。
こ れ が 人 間 の 悲 し み 方 な の か は 、 僕 に は 判 ら な い け れ ど も 。 』
***
「薫博士?」
少しだけ遠慮がちな声で、薫博士を呼ぶ。
カレンダーは止まっているのに、やるべき仕事が沢山あるらしい博士は、まともな睡眠も食事も取らずに研究室に篭っている。
「優心……?」
書類にあった視線を僕にと変えて、薫博士がうっすらと笑った。その目の下には、くっきりとしたくまが出来ている。
健康的だった薫博士は、何処に行ってしまったのだろう。虚ろな目線が悲しくて、僕は慌てて手に持っていた物を差し出した。
「あのっ、コレっ、初めて作ったから美味しいかは判らないけど……」
自分でもわかる歪な形のオニギリを、書類の散らばった机の上にと置く。その震動で、海苔がペラリと剥がれた。
「あ……あぁ、おにぎりね。ありがとう」
「うん! さ、食べて食べてっ」
「えっ……えぇ」
何故だか少し震えた手で、おにぎりを持つ薫博士。そして僕の顔とおにぎりを交互に見比べ、一気にそれを口に含んだ。
「んぐ!?」
「どう!? 美味しい!??」
「……ヴググぅ……」
「え……、不味いのかな……?」
真っ青な顔をして、口を抑えている薫博士。どうしよう、もしかして不味かったのかもしれない。
「んっ、くぅ……はぁ」
胸の辺りをドンと叩き、ようやく飲み込めたらしい薫博士が、目に大粒の泪を溜めて僕を見た。
「優心、コレにはナニを入れたの……?」
引き攣ったような笑みの薫博士が、おにぎりを指さす。
「もちろん、炊き立てのご飯と白い粉だよ」
僕の中にある情報では『おにぎりは白米を握り、塩を振る』となっている。
だけど味覚を持たない僕にはどれが塩だか判らなくて、仕方が無く台所にある白い粉を全種類ご飯に振り掛けたんだ。
「あ〜、白い粉、ねぇ」
博士がポンッと額に手を置き、笑った。久々に見た、薫博士の無理に作ったのではない、本当の笑顔。
胸の辺りがほんわかとしてきて、凄く幸せな気持ちになる。嬉しくて、嬉しくて頬も緩んでしまう。
「そうよね、優心には味覚機能が付いていないから、どれが塩かなんて判らないわよね」
くすくすと薫博士が笑う。それはもう、本当に嬉しそうな笑顔。
そうだ、僕でも薫博士を笑顔に出来るんだ。直樹さんがいなくたって大丈夫なんだ。
「あ、何ニヤニヤしてるのよ。もしかして態とだったんじゃない?」
嬉しくて嬉しくて緩んでしまっていた僕の顔を、口元に笑みを残したままの博士が、軽く睨んだ。
「え〜、違うよぉ。僕は本当にコレで良いと思ったんだもん」
唇を尖らせて反論する。そうしたら又、薫博士が笑ってくれて。
なんだろう。こんな何でもないことなのに、胸の辺りが大きな音を鳴らし、泪が出そうなくらいに幸せだと思える。だから。
「薫博士」
「ん?」
僕はちょっと真面目な顔をした。
「大好き」
薫博士の顔をじっと見つめる。博士も僕の顔を見ている。
ボクノダイスキナヒト。初めての告白。今まで口にすることが出来なくて、隠し持っていた想い。
「私も、大好きよ」
にっこりと薫博士が微笑んだ。
……判ってる。僕の言った好きと、薫博士がくれた好きとは、種類が違うってこと。
それでも、言いたかったんだ。
僕が欠陥品である証拠。いつか壊されるかも知れない理由。その全てを引いても、僕の想いは消えないから。
僕もにっこりと微笑み返して、薫博士に抱きついた。
「博士だ〜い好き!!」
***
『そ の 日 か ら 、 薫 博 士 は カ レ ン ダ ー の 時 間 を 止 め る こ と を や め た 。
僕 は 毎 日 が 幸 せ だ っ た 。 博 士 と 過 ご す 日 々 が 、 楽 し く て 楽 し く て 仕 方 が な か っ た。
欠 陥 の こ と だ っ て 、 博 士 の 手 で 最 後 を 迎 え ら れ る な ら 良 い と い う 考 え さ え 出 て く る 程。
そ れ ほ ど に 、 僕 は 幸 せ だ っ た ん だ …………。 』
***
「博士、行かないでよ!!」
ボストンバックに荷物を纏める博士に言った言葉が、何時の間にか色々なものがなくなっていた部屋に虚しく響いた。
「……ごめんね」
「っなんで!? どうしてあの人の所に行くの!? 直樹さんは博士を捨てたんだよっ」
パニックに陥っている僕は、薫博士を傷付ける言葉と知りつつも、そんなことを言ってしまう。
小さな溜息を付いた薫博士が、僕の方にと振り返った。
「違うのよ、優心。直樹は私に、貴方の研究が終わるまでは連れて行けないと言ったのよ」
微笑みながらも、キッパリと言い切る博士。……それくらい、知ってる。
「けど、僕の研究は終わってはいないはずだよ?」
それなのに行ってしまうのか。続きは言わずに、視線だけで伝えた。
「あら、研究は終了したのよ」
「え?」
「先々週前の、貴方が初めておにぎりを作ってくれた日に」
僕がおにぎりを作った日?
「な、なら、発表は?」
研究が終わったなら、僕を学会なりで発表する必要があるのに。
「それはしないことにしたの」
「……しない?」
「だって貴方みたいに純粋な子が、世間の見世物になって変わっちゃったら悲しいもの」
そう言って笑った博士の仕草は、前にテレビで見た誰かの母親に似ていた。
その顔や言葉には、僕を研究途中で投げ出すための嘘とかは見当たらない。
「なら、僕にあった欠陥は?」
一瞬の間を置くこともなく、僕は言った。
昨日まではこんな台詞、口にする所か考えたくもないと思っていたのに。
今の僕には、博士を直樹さんの所に行かせない為の理由でしかないみたいだ。
「……知っていたの」
僕の言葉に、博士がちょっと困ったような顔をした。
「うん」
目に溜めた泪を振り落としながら頷く。博士が何処にも行けないように。
なんて、いつから生まれたんだろう、この独占欲ってモノは。僕をぐちゃぐちゃにして、頭の機械も上手く動かなくなる。
ねぇ博士。お願いだからこう言って? 『やっぱり直樹の所に行くのは止めたわ』と。呆れた声で良いから。
『まだ優心のそばにいなくちゃダメね』と、憎しみを込めた声でも良いから。
早く、言って。それだけで僕は十分だから。だから博士。お願い……。
でも。僕のお願いなんて何処にも届かずに、崩れ落ちてしまった。だって博士は言ってしまったんだ。僕の切り札をも無効にする言葉を。
「あれは私の勘違いだったのよ」
「……へ?」
あまりにも予想とは外れた答えに、僕は耳を疑った。勘違いって、
「ど、どういうこと?」
僕の欠陥は間違いないのに、なのに何故?
「貴方はまた一歩、人間に近づいていたのよ。感情が動けば、胸が高ぶるのはごく自然なこと。
胸にある機会の動悸の数を、感情やその時の状況により変えられるのは、貴方がまた一つ人間に近づいたという証拠なの。
だから欠陥がある、なんていうのは私の勘違いだったのよ」
ごめんね、と謝った薫博士に、僕は声を出すことさえ出来なかった。
僕が考えることも嫌だった、それでも薫博士を引き止めたくて言った切り札が、こんなにも簡単に使えなくなるなんて。
頭の中がキィーンと嫌な音を立て始め、考えを纏めることが出来なくなる。
「でも、それに気がつかせてくれたのは、あなた自身なのよ」
博士が、混乱し狼狽している僕の手を握った。
「貴方がおにぎりを作ってくれた日。悲しんでいた私を気遣い慰めようとしてくれたあの日、貴方には本当に感情があることを知ったの」
僕の手を握り締め、僕の目を見て話す薫博士。潤んでしまった瞳から、博士の笑顔が揺らいで見える。
「だめな博士よね。自分でそう創ったのに、ずっと気がつかなかったなんて」
クスリと、眉を少しだけ下げて微笑む。
あぁ、何てことだろう。僕はあの日、自分で自分の首を絞めていたんだ。
幸せなときが永遠に続くなんて幻想を信じていた僕が恨めしい。この二週間を喜んでいた僕が憎たらしい。
その間に、薫博士は直樹さんの元へ行く準備を進めていたというのに。僕は全く気が付いていなかったんだ。
行かないでと叫んで、泣き喚いてしまいたい。なのに。
「ありがとう優心。本当のことを言うと、あの日に直樹のところに行こうと決めたの。貴方が励ましてくれたおかげよ」
だ、なんて。そんなコトを言われたら、もう何も言えなくなる。そんな風に微笑まれたら。
悲しくて悲しくて仕方がないけど。
「判った、いってらっしゃい」
僕はどうにか泪を止めて、言った。
無理をして作った笑顔に、口の端が辺に歪む。胸の辺りが、ズキズキと嫌な音を立てている。
あぁ、博士。薫博士。
僕は本当に、貴方が好きなのです。
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