俺がこの世に生まれたことを責めるやつはいない。
けど俺が誕生した瞬間に悲しみの泪を流した人間ならば、沢山いただろう。
なんて。
いつもなら絶対に考えもしないコトバが、頭の中に流れていく。
それはおそらく今日という日が、顔も知らない母親の命日で、しかも俺の誕生日だから。
はたりはたりと窓を叩く雨粒。
湿ったソファーの埃の匂いが、やけに気になる梅雨の時期。
「いさちゃん。なに暗い顔してるの?」
ソファーに寝転び天井を睨みつけていると、視界の端に馬鹿面が入り込んできた。
精悍そうな顔つきに似合わない甘ったるい声を出す男。俺の兄貴だ。
「なんでもねぇよ」
覗き込んで来る兄貴から、顔が隠れるようソファの背もたれ側にごろりと寝返りをうつ。
うぜぇからこれ以上俺に構うんじゃねぇよ。
言葉にしてなくても判るよう、不機嫌なオーラを精一杯発してみる。
しかし馬鹿兄貴が『相手の気持ちを読む』なんて高度な技を持つはずもなく、俺の背中をつつつっと指で撫でた。
「ぅひゃぁっ」
「あはははは」
ぞくぞくぞくっと背筋から首筋に掛けて鳥肌が立つ。
思わず”眉目秀麗素敵な勇者様”には似合わぬ間抜けな声を出してしまった俺の耳に、馬鹿兄貴が嬉しそうに笑い声が聞こえた。
「あははじゃねぇよ、この馬鹿!」
即座にソファから起き上がり、俺様の長い長い脚を脳天から蹴りおろす。
がこんと爽快な音を立てて、眉毛を垂れ下げた兄貴の馬鹿面が床に突っ伏した。
どうやら巧く後頭部に俺の美しい踵がめり込んだ模様。顔を床につけ、しゃがみ込む形となった。
「ったく、無駄に体力使っちまったぜ」
吐き捨てるようにそういい、兄貴の反応を待つ。
しかし兄貴は何も答えようとしなかった。
いつもなら直ぐに起き上がってくるのだが、今回は全く動かずその姿勢を続けている。
「おい?」
……もしかして僅かにしか残っていない脳みそが破壊されたのか。
もしくは魔王相手に日々鍛錬を重ねた俺の脚が、今までになく兄貴の心と身体に衝撃を与えてしまったのかもしれない。
例えこの俺が政府に認められた勇者様だったとしても、傷害事件は拙い。
ソファから飛び降り、しゃがみ込んだままの兄貴の横で膝立ちとなり、取り合えず顔を覗き込む。
意識はあるか?
なければいっそ階段から突き落とし、兄貴が勝手に落ちたとでも言って救急車を呼ぶことにしよう。
そんな事を考えていた俺に、突如機敏に動き出した兄貴が抱きついてきた。
「いさちゃんってば今日も元気だなぁ!! おにいたんは嬉しいよ!!」
先ほどまで機能停止していたとは思えないほどに熱い抱擁。
慌てて身体を捩っても、びくりともしない。
俺より10cm以上高い身長とそれなりに鍛えられた身体が、こんな時ばかり発揮されているらしい。
「離れろ、馬鹿!」
「そっかそっか、おにいたんが昨日まで帰ってこなくて淋しかったんだね! 存分に甘えてくれて良いンだよ!!」
「何意味判ンねぇこと言ってンだよ! つーか自分のことをおにいたんとか呼ぶんじゃねぇよ気色悪ぃな!!」
「あぁ、もういさちゃんってばブラコンなんだから!」
「俺の話を聞けぇ!」
俺の額が兄貴の額にぶつかり、どんっと鈍い音を立てた。つまり頭突きをしたわけだが。
さすがにこれは効いたようだ。兄貴が怯んだ隙に、其の腕の中から逃げる。
「い、痛いじゃないか。いさちゃん……、おにいたん泣いちゃうよ」
「勝手に泣け」
「じゃあ肩を貸して。胸なら尚良し」
「断る」
可愛い女の子ならまだしも、なんで男に、つーか兄貴に肩やら胸やら貸さなきゃいけないのだ。
両手を腰にあて、俺はどきっぱりと言い放った。
「酷い! じゃあおにいたんは何処で泣けば良いのさ!?」
「自分の部屋に戻って泣けばいいだろ」
ショックを受けたらしい兄貴が、演技掛かった動作で床に倒れこむ。
あぁ、面倒くさい。
いっそ気づけとばかりに大きな溜息をついてみせたが、馬鹿兄貴には効果がないようだ。
ずさささっと床を這い、俺の長い長い脚に抱きついてきた。
「そんなの淋しすぎるだろ!? 今日はいさちゃんの誕生日なんだよ!?」
あげく膝立ちになって、俺の腰に腕を廻してきやがった。
しかも俺の顔を見ようと首を反らしている所為で、やや上目遣いという成人男性がすべきではない姿勢+目には大粒の泪を浮かべている。
わが兄貴ながらなんて気持ちの悪いヤツだろう。
「……俺の誕生日を祝うより、母親の命日として喪に服せよ」
何となく、傷つけたくなって。
思わずぽつり呟いた言葉に、兄貴は僅かに表情を曇らせた。
さっきまでの無駄に演技掛かったオーバーリアクションとは違い、素で見せた顔。
「いさちゃん、だから暗い顔してたのか?」
「別に、関係ねぇよ。俺は母親の顔さえ知らねぇンだし」
「母さんが死んだのは、いさちゃんの所為じゃないよ」
「誰もそんな話してねぇだろ」
「今日は確かに母さんの命日で少し悲しいけど、でもそれ以上にいさちゃんが生まれた大切な、そして嬉しい日なんだよ」
俺を慰めようとでもしているのか、抱きついた腕の力を強くし、さらに頭をすりすりとさせてくる。
つーか其処俺の股間なんですけど。兄貴、ソコントコわかってるか?
「……頭沸いてンじゃねぇの」
「沸いてるかもね。いさちゃんのこと好き過ぎて」
「意味わからネェよ」
全てに突っ込む気力もなくなって、取り合えずそう言い放って。
また大きな溜息を付いた。
「ホント、馬鹿兄貴」
「馬鹿で結構。ね、いさちゃん。久々におにいたんって呼んでよ」
「呼ぶわけねぇだろ。てかいさちゃんって呼ぶのヤメロよ。今は勇者なんだから」
「勇者なんて可愛くないだろー。勇でいさちゃん、ソッチの方が良いよ」
「……あ、そ」
それでもこんな馬鹿兄貴のお陰で、俺は今日も救われる。