翌朝から、瑞希の居ない生活が始まった。
大学を卒業して、一緒に暮しはじめて二年間。当り前に傍に居てくれた存在は、いつのまにか僕の空気になっていたらしい。
瑞希の声が聞こえない朝。好きだけれど、代用品にさえならない携帯のメロディ。食欲を刺激する味噌汁の匂いも、目覚めを促すコーヒーの香りもない、トーストだけの朝食。仕事に行き、昼飯はもともと社員食堂だから問題はないけれど、同僚のコンパの誘いを、『恋人が居る』の一言で断る時に空しさを覚えた。19時に会社を出て、満員電車に乗り込み家路に着く。瑞希が好きだったケーキ屋の前を素通りして、アパートの前で立ち止まる。
2階、角から3つめの部屋。
僅かな希望と共に見上げて、電気がついていないことに溜息を付く。急に淋しくなって歩いて5分のコンビニに出掛け、弁当を一つとビールを一本を購入。
毎日、ただ繰り返していく日常。瑞希のいない日常。
携帯のアラームも聞きなれた。駅で買う缶コーヒーも旨く感じるようになった。来週、久々にコンパに出る約束もした。コンビニの店員と顔見知りになった。弁当の種類によってレンジの秒数が違うことにも馴れた。
馴れ始めていた。僕は、瑞希の居ない生活に慣れ始めていた。
其れに気がついたある夜、僕は独りで泣いた。
カウンターテーブルに置かれた玉葱が、少しだけ芽を出している。
***
瑞希は実家にも帰っていないらしい。
携帯に出なかったあの晩。僕は震える手で、瑞希の実家に電話を掛けた。
『夜分遅くにすいません。阿良川と申しますが……』
『あぁ、柚貴君。どうしたの?』
擦れた声は、携帯越しではバレない程度なのか。電話に出た瑞希のお母さんは、いつも通りの明るい声で僕に返してくれた。
『えっと……』
名前を口にしようとして、けど何もいえなくなった。
……瑞希が実家に戻ったなら、もっと違う対応をされるのではないか?
不意に浮かんだ疑問。彼氏と同棲していた娘が荷物を抱えて戻ってきた。其れはつまり破局を意味する。そして其の晩の内に男から電話が掛かれば。
『えっと、瑞希さん、其方に寄って居ませんか?』
いや、若しかすれば僕を気遣って、知らない振りをしているだけかも知れない。震える唇で、どうにか言葉を綴る。
しかし受話器の向こう側。
『お父さ〜ん、瑞希が未だ帰ってないらしいけど、何か連絡あった〜?』
多分、演技ではない其の声。廊下から今にいる瑞希のお父さんに呼び掛けている声が聞こえて。
『ウチには連絡ないみたいだけど。瑞希、柚貴君に何も連絡しないで出て行ったの?』
友達と遊びに行くとか、買い物に行くとか言ってなかった?
普通に返される言葉。
たぶん、瑞希のお母さんは嘘をつけるタイプではないと想う。僕の思い違いかもしれないけれど。
『あ〜、携帯が置きっ放しだったのでちょっと不安になったんですけど。もしかしたらコンビニとかに出かけているだけかも知れないので、ちょっと探してみます』
だから僕は腹に力を要れ、なんて事ないかのように、まさか瑞希が出て行ったなんて悟られない様に平然を装い。
『夜分遅くに、すいませんでした』
また今度の休みには其方にお邪魔しに行きますので、叔父様に囲碁の用意をお願いしますと、お伝えください。そんないつもと同じ台詞を綴り、携帯を切った。
瑞希は、此処を出て行った。けど実家には帰っていないらしい。
なら瑞希は何処に行ってしまったのだろう?
瑞希が去ったあの晩から、僕は毎夜瑞希に電話をしようと想い、だが誰も出ない悲しみを味わいたくないばかりに諦めている。
そして今日も独りでビールを煽り、携帯を見ては溜息を付いた。
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