携帯のアラームが鳴っている。
 ああ、そうか。もう朝だ。好きになってダウンロードした筈のメロディも寝不足な僕には耳障りでしかない。嫌々ながらに布団から手を出して携帯を取る。
 7時00分。15分だけ遅らせてもう一度目を閉じる。家を出るのは8時だから、次に起きれば問題はないはず。それでも枕元に携帯を置いてしまうあたり、気が弱いと自覚する。

 目を閉じて、うとうとして。

 意識の薄れていく中で、食器を洗う音が聞こえる気がした。
 リズミカルな水の音。
 ……彼女が朝ごはんを作っているのかな……?
 ぼんやりとした頭の中で流れた言葉に、僕は慌てて飛び起きた。


***


 其れは丁度一ヶ月前のこと。
 いつものように仕事に出るために靴を履いていると、キッチンの方から彼女の声が聞こえた。
「夕飯はカレーライスだからね〜」
 此れもいつものこと。夕飯の内容が、ではなくて僕が玄関で靴を履いている時に彼女から声を掛けられることが、だ。
 だからいつも通りに軽く返事だけをし、僕はアパートを出た。
 カレーライス。
 確か初めて彼女の部屋に行った時の夕飯もカレーだった。
 別に料理が苦手という訳ではない。
 其のときだって単なるレトルトカレーではなく、本格的な香辛料を使用したグリーンカレー。僕は初めて食べるその物体に緊張ながら、口に入れたときの美味しさに驚いてしまったものだ。
 そんな、いつも通りの朝だったのに。
 其の日の夕方、仕事を終えてアパートに戻ると彼女の姿はなかった。靴も、洋服も、歯ブラシもなくなっていて。只、その代わりに置手紙とカレーライスの材料だけがカウンターテーブルに置かれていた。

『柚貴へ。
お帰りなさい。急にいなくなったから驚いたかな? 仕事で疲れているのに、こんなこと書いてごめんね。 私達、もう無理だと思うの。柚貴のことは今も好きだけど、だからこそ辛い。
柚貴は私のこと、本当に好き? 下らないよね。でも私、本気で悩んでいたんだよ。知らなかったでしょう?
自分の気持ちも、柚貴の気持ちもいつの間にか判らなくなっていたみたい。
……勝手に悩んで勝手に出ていく私を、許してください。
大好きだよ。瑞希より』

 玉葱の横に置かれた、小さな手紙は。何度も書きなおしたのだろう、消し跡が残っていた。
 今朝は普通だったのに、急にどうしたの?
 震えた文字に問い掛けても、返事は貰えないけど。突然すぎる別れに、僕は只茫然とするしかなかった。
 僕のこと好きだと書いてあるのに。どうして出て行ったの?
 訳がわからなくて、只何度も手紙を読み返して。ようやく携帯の存在に気がつき、慌てて短縮1番を押した。電話の向こう、プルル……と音が鳴る。
 良かった、携帯は繋がるらしい。着信拒否なんかをされていたらどうしようかと思ったけれど、流石に連絡が取れなくなるのは不味いということか。それとも実は此の手紙は、瑞希の冗談かもしれない。瑞希がこんな悪戯をするなんて珍しいけど、僕が知らなかっただけかもしれないし。ちょっと、いや、本気で驚かされたけど。今電話に出てくれたら、笑って許そう。
 そんなわけないと知りつつも、どうにか此の不安をかき消そうと色々と考えてみる。
 でも電話の向こうに瑞希が出てくれる様子はない。プルルル……と悲しい音を鳴らせ続けるだけで。
「……早く、出ろよ」
 思わず、呟く。
 心拍数が可笑しな程に上がっている。全身が心臓になったように、自分の耳にさえ鼓動が聞こえる程だ。
 その、鼓動と共に耳に入り込んでくる電話の音は途切れることもなく。
「瑞希……」
 背筋に冷や汗が流れた。頭の中も、真っ白になっていく。
 只、それでも僕は電話を切る事ができなかった。




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