Magical hand 番外編


− 傷跡 −





独特のニオイが篭る、シーンと、静まり返った部屋。

俺はなるべく音を立てないように、静かにそこを歩く。

2つ並んだベッドの片側が、少しくすんだ白いカーテンで区切られている。

耳を欹てても物音一つ聞こえないところをみると、きっと明美はまだ眠っているんだろう。

カーテンを体分だけ引いてあけると、そこに身を滑り込ませて元通りにしめる。

清潔に保たれた、真っ白なシーツが敷かれたベッドには、少し顔色が悪そうに見える明美の寝顔があった。

その姿に、自然に自分の顔が歪むのがわかる。

「………明美?」

そう、小さく呼びかけてみるも、明美からの反応はなく、俺はベッド横にあった丸椅子に腰を下ろした。


開け放たれた窓から風が吹き込んできて、カーテンを静かに揺らす。

相変わらず外は暑いけど、ここは別空間のように涼しく感じるのが不思議だ。

俺は、その吹き込んでくる風に乗って届く、外で体育の授業を受けているのであろう生徒たちの声を耳にしながら、じっと明美の寝顔を眺めていた。


なあ、明美…なんでそんなに痩せようとするんだよ。

お前をそこまで苦しめているものはなんなんだ?

もう、一方的に意見を押し付けたりしないから。一人で悩むなよ…明美。


腕を伸ばし、明美の頬を優しく指の背で撫でる。

すると、…んっ。と、僅かに反応し、暫くしてから明美がゆっくりと目をあけた。

「……明美?」

「こ…いち…?」

「ん。悪い、起こしちゃったな。大丈夫か?」

囁くようにそう問いかけると、ゆっくりと数回瞬きをしてから、明美が視線を合わせてくる。

そっと布団から手を出し、頬を撫でていた俺の指を、きゅっと握り締めながら。

「ん…だいじょうぶ……ごめん、ね…幸一…」

「…ん?」

「幸一の言うこと聞かなかったから…バチが当たったんだ、きっと…」

「ただ単に、食ってないからだ…バーカ」

そう言って、明美に握られたままの手を、ウニウニと彼女の頬に押し付ける。

少し笑みを見せた明美に、自分も少しだけ笑みを浮かべると、反対側の手でもう片方の頬を優しく撫でた。

「なあ、明美。一人で抱え込むなよ…」

「え……」

「お前がこうなったのにも、何か理由があるからなんだろ?俺さ、バカだし頼りないかもしんないけどさ…明美の抱えているもの、聞いてやることはできるよ?明美が辛いとき、傍にいてやることもできる。そういう俺は、明美にとって必要ない?」

「幸一…」

「確かに、俺は明美の気持ちは理解できないかもしれない。俺は俺で、明美じゃないから…。だけど、どんな気持ちでいるのかを教えてくれなきゃ、お前の抱えているものすら俺にはわからないだろ?そういうのって、やっぱもどかしいし、明美の力になってやれてないって思うと、自分が情けなくなってくる」

俺の指を握っている明美の指を握り返し、その腹を親指で撫でながら、ポツリポツリと言葉を零す。

じっと、俺の目を見つめたままの明美。

微かにその瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせいだろうか…


明美の言葉を待つように、暫く、無言のまま見つめあっていると、明美が繋いでいた指を離し、徐に両手を俺のほうに差し出してくる。

「…幸一?」

「ん?」

「ぎゅって…して?」

付き合いだしてから、2人きりの時によく明美がねだってくること。

俺は言われるがままに立ち上がってベッドの縁に腰掛けると、片腕で自分の体を支えつつ、もう片方の腕を明美の背中の下に差し込み、上半身を抱き起こす。

明美の両腕が俺の首の後ろにまわり、顔を首元に埋めてくる。

俺も、同じように明美の背中に両腕をまわして、彼女の華奢な体を抱きしめた。

久し振りな気がする…このほのかに甘くて心地よい明美の香り。

さっき鈴木にイカガワシイことはするなって言われたけど、こうするぐらいは許される…よな?

自分で勝手にそう解釈し、俺は、この1週間分の空間を埋めるように、更に腕に力を込めた。

暫くの無言の空間。

1週間前の尖っていた空気が嘘のように、いつも通りの穏やかな空気が2人を包んでいた。

「クスクス…久し振りだなぁ、幸一のニオイ」

「なに、クサイ?」

「うん、クサイ」

「……お前ね」

「ふふっ。嘘うそ…すごくいい匂い。だから、大好き…幸一の匂いって。こうして抱きしめてもらうと、すごく安心するし」

「そっか?」

「ん…だから、もっとぎゅってして欲しい。ぎゅ〜って…」

その言い方が凄く可愛らしくて、思わず笑い声交じりに、な〜んだよ、明美ぃ。なんて言いながら、更に
明美の体を強く抱きしめる。

自分でも両腕に力を入れて、更に抱きつきながら、へへへっ。と、笑ったように声を出す明美。

でも、実際笑っていないことは、すぐにわかった。

徐々に自分の顔からも笑みが引いていくのがわかる。

俺はコツンと頭を明美の頭に寄せながら、髪を梳くように彼女の頭を優しく撫でた。


「………夢を見るの」


突然くぐもった声で呟かれた明美の言葉。

頭を撫でていた俺の手が止まる。

「……え?」

「朝起きたら、元の体型に戻ってて、みんなから『やっぱチビデブスじゃん』って笑われる夢…」

「でも…夢、だろ?」

「うん、夢。でも、ここ最近ずっと毎日で…本当にそうなっちゃったらどうしようって、そう思うと眠れなくなって、ご飯も食べたくなくなって。やけに気が滅入ってしまって…あんな言い方するつもりなかったのに、幸一に酷い事言った。本当にごめんなさい…」

「明美…」

「本当にごめんね。今の私には幸一が傍にいて支えてくれているのに、あの頃のように一人じゃないってわかってるのに…」

「あの頃?」

言葉を拾って問いかけると、明美がまたぎゅっと俺の首にまわした腕に力を入れてくる。

止まっていた手が再び動きだして、明美の頭を無意識に撫でていた。

暫く黙り込む明美。

だけど、俺は先を急かすことなく、じっと同じように黙り込み、明美の頭を撫でながら言葉を待っていた。


暫く俺の首元に顔を埋めて黙り込んでいた明美が、意を決したのか、徐に口を開く。

「……幸一?」

「ん?」

「私の…チビデブス物語、聞いてくれる?」

「……なんだよ、それ」

「私が生きてきた道…幸一になら、話せるかなって。ううん、幸一にだからこそ過去の私を話せるんだと思う。それを聞いてもらえたら、少しはわかってもらえるかもしれない。幸一の言う、私の抱えているものが何なのか」

決意じみた明美の言葉に、自分の体に僅かに緊張が走るのがわかる。

俺になら…俺だからこそ…

「わかった…話して?」

そう、一呼吸おいてから返事をすると、明美はコクンと小さく頷き、ポツリポツリと話し始めた。


「小学校1年の頃、ある男の子がある日突然、私のことを『チビデブス』って呼んだの。最初、なんのことだかさっぱりわからなくて、笑って、なにそれ?って聞いたりしてたのね。いつも外で一緒にドッチボールとかして遊んでいた一番仲のいい男の子だったから…ほら、『なんとかブス〜』とか言ってよくからかうじゃない?あんな感じだったから、その頃はそれで追い掛け回して遊んだりして…」

あ〜、俺もそんな感じのことやってたなぁ。と、自分の小学校時代と重ねてみたりして。

気に入った女の子にちょっかいを出しては、追いかけられて楽しんだりしてたっけ。

もしかしたら、特に悪意のないはじまりだったのかもしれない。

好きな女の子の気を引くための、ちょっとした悪戯心が生んだあだ名…後にそれが残酷すぎる言葉に変わるとも知らずに。

「でも、だんだんそれがクラスに浸透して、須藤さんはチビで太っててブスだから『チビデブス』なんだって言われるようになっちゃって。チビデブス〜チビデブス〜ってみんなに言われるようになってからは、体型とか色んなことが気になりだしちゃって、笑って追いかけられなくなった…逆に、言い出した男の子は言わなくなったけど、距離を置かれるようになっちゃったから余計かもしれない」

子供なりの罪悪感からだったんだろうか。

そういうつもりはなくても、予想外の広がりようにそいつもどう収拾していいのかわからなかったのかもしれない。

頭の片隅でそんな事を思いながら、俺は明美の髪に指を滑らせる。

「ほんとはね、好きだったんだ…その子のこと…」

「えっ!?」

「えっ?!あ、やっ…その、小学生の頃、だよ?今とは好きのレベルが全然違ってて…」

「あー、だよな。うん、ごめん。変に反応した…」

少しバツが悪くて、ごにょごにょと口先だけを動かすと、ふふっと明美が小さく笑う。

それにちょっとだけ口を尖らせて、彼女の髪を軽く引っ張ると、痛いって。と、返ってきた。

「ん、でね…今度はその子が友達にからかわれてさ。本当は、須藤さんのこと好きなんじゃないのか?って…そしたら、真っ赤な顔して、おっきなおっきな声で、『僕は、あんなブスでデブな子は好きじゃない。大嫌いだ!!』って言ったの。ショックだったぁ…一番仲が良くて、好きな男の子だったからさ。その頃からかな…真っ直ぐ前を見て歩けなくなって、俯くようになったのは…」

そう、ポツリと零し、明美は頭の位置を少しずらす。

だけど、決して顔をあげようとはしなかった。

「それから瞬く間に噂が広まって、クラス替えがある度に男の子からそう言って笑われるようになって…段々、自分の性格が暗くなっていくのがわかった。徐々に、女の子たちからも距離を置かれるようになったのを感じてた。でね…中学に上がってからは、みんなから疎まれる存在になっちゃってた……課外授業とかでグループを作るとき、どのグループが私を引き取るかでなすりあうぐらい」

仕方ないよね…あの頃の私ってすごく根暗で陰気な感じだったもん。と、また、へへへ。と、から笑いをする明美。

俺は、すぐには言葉が出てこなくて、頭を撫でることしかできなかった。

「でもね、中学3年のとき、臨時で来た保健室の先生に言われたの。よく保健室に逃げ込んでいたから、大体のことはわかってたのね。で…悔しかったら笑えって。辛いかもしれないけど、元気で明るい須藤明美を演じて見せろって…誰だって、俯いて元気のないヤツに話しかけたいとは思わないだろ?って言われてね……幸一もそう、思うでしょ?」

突然話を振られて、あー、まあ、うん…。と、言葉を濁すと、私もそうだなって思ったの。と、明美が呟く。

「周りを変えたいなら、まず自分から変わろうとしなきゃダメだって言われた…それは外面的なものじゃなく、内面的なもの。外見はあとからついてくるもので、大事なのは内面なんだって。見てくれるヤツは、ちゃんと見てくれてるんだから、まずは自分に打ち勝てって、豪快に笑われちゃった。見たところ、あんたは芯が強そうだからそれぐらい出来るだろ?って…なんだかその豪快な笑い方を見てたら、こっちまで笑えてきちゃって、メソメソしてるのもバカらしく思えてきて、頑張ろうって意欲も湧いてきたの」

何故か、明美の話を聞いていて、その校医が鈴木と重なった。

いやまあ…そんな偶然はないだろうけど。

「でもね、その先生、助言するだけしてあとは一切ノータッチだったんだよ?あたしはそこまで優しくない!って言って。自分で乗り越えるからこそ意味がある。どうすればいいかは、あんたが自分で見つけなさいって…だから、自分なりに笑顔の練習をして、『自分』を出すように努力したの。少しずつ笑えるようになった。少しずつ話せるクラスメイトが増えた。
先生が言った通り、自分が変わったら周りも変わったわ…体型なんて関係なく。高校に入ってからも相変わらず男子からは、『チビデブス』って陰で呼ばれてたけど、以前ほど気にならなくなった。だって私には、美和たち親友と呼べる友達がいるし、他にもたくさん仲良くしてくれる女の子たちができたから…それで充分だったの。見てくれてる人は、見てくれてる。そう思えたから」

「…うん」

「時間はかかっちゃったけど、高校に入ってやっと手に入れることができたの…本来の自分の姿と、本当の友達。そして、2年のあの時、予定にはなかった夢にまで見た痩せた自分と、心から好きって言える恋人まで…」

ゆっくりと顔をあげて、俺と視線をあわせてくる明美。

涙こそ流れてはいなかったけれど、やっぱり瞳が潤んでいるのがわかる。

「だけど、その予定になかった痩せた自分を手にしたとき…周りが180度と言っていいほど変わったわ。私自身が戸惑うほどに。男子もそうだし、それまで話したこともない女の子から話しかけてもらえるようになったりして。信じられなかった…でも、やっぱり嬉しかったの。だから、その環境に慣れてくると、じゃあ元の姿にもし戻ってしまったら?って、考えるようになったの。また、私は疎まれる存在になってしまうんじゃないかって…」

「明美…」

だから、あれほどまでに体重に拘って…


――――1kg太ることがどれほど私にとって恐怖なのか…


そこに、こんな意味合いが含まれていたのかと、あの時の明美を思い出し、胸がズキンと痛む。

私がどんな思いで過ごしているか…そう言っていた明美。

夢にまで見るほど追い込まれて苦しんでいたのに…

そうとも知らずに俺は…

「痩せて綺麗になりたかったわけじゃない…もっと綺麗になってみんなから好かれたかったわけじゃないの。幸一に仕立ててもらったこの姿、今のままで充分だって思ってる。ううん、勿体無いくらいだって思ってる。だけど、今の自分が幸せすぎるから…もしもまたあの頃の私に戻ってしまったら、全部失ってしまうんじゃないかって…そう、思ったら私…」

ツーッと、明美の頬を一粒の雫が伝い落ちる。

それを親指の腹で優しく拭いとり、そのまま明美の頬を優しく何度か撫でた。

明美の抱えているものがようやく俺にもわかった。

そう…『不安』だよな。

ここまで聞かなきゃ気付けなかった明美の心の内側。

鈴木に言われた言葉が今になって心に痛く突き刺さる。

簡単な問題なんかじゃなかった…明美にとっては深刻な悩みだったんだって。

なんで今の自分で満足できないんだって思っていた自分が恥ずかしくなってくる。

明美のことは何でもわかってると思い込んでいた自分が情けなくもなってくる。

ごめんな、明美。俺、こんなに傍にいたのに、気付いてやれなくて。

俺は明美の頬を両手で優しく挟み込むと、コツンと額を合わせて、ポツリと囁いた。


「俺は変わらないから…」


「え?」

「何があっても、俺の気持ちは変わらないから。俺が惚れたのは須藤明美っていう女の子。チビデブスでもなければ、美少女でもない…ただの須藤明美。明るくて元気で頑張り屋で…人一倍努力する女の子」

「幸一…」

「明美…お前はもう、一人じゃないだろ?美和たちだっているし、俺だっている。あいつらも俺も、明美がどんな姿であろうが、お前がお前らしい姿である限り何も変わらない。だから、明美が不安に思うことなんて何一つないよ。なあ、明美…友情と愛情の深さを甘く見るなよ?外見如きの変化で崩れるような、ヤワな関係じゃないよ。お前がたった一人で頑張って勝ち取ったものは、そういうもの。須藤明美はもう、一人じゃない…チビデブスなんかでもない。この先もずっと…。だって、そうだろ?」

俺が腕によりをかけて明美を綺麗に仕立ててやるんだから。そう言って微笑むと、明美は大粒の涙を零しながら、何度も何度も頷いた。

そのとめどなく溢れ出す涙を拭いながら、なあ明美?と、声をかける。

「この先、明美が不安なときは、傍にいるから…辛くなったら、話を聞くから。だからもう自分一人で抱えようとするなよ…中学時代の保健の先生みたいに、アドバイスなんて出来ないけどさ…話を聞くことで、明美の抱えているもの、少しくらいは俺にも持てるだろ?一緒に悩んで…一つずつ克服していきゃいいじゃん」

これが今の俺が思いつく、明美にしてやれることだった。

もっと他にないのかよって思うけど、情けないかな突発的にはこれぐらいしか思いつかなくて。

何があっても気持ちは変わらないってことと、どんなときでも傍にいるってことぐらいしか…

それで少しでも気持ちが軽くなればって思うけれど、正直どれほどの効果があるかなんて全く自信がなかった。

暫く、じっと涙目で俺を見つめていた明美の顔に、やがてニッコリとした笑みが浮かんだ。


「ありがと…幸一」


「……明美」

「そうだよね…最初から幸一は、私のことを『須藤明美』として見てくれていたんだよね。美和も、他のみんなもそう。心配しなくても、ちゃんと私自身を見てくれている人が傍にいるんだってことを、私自身が見失ってたよ。ありがとう、幸一。いつも元気をくれて…いつも挫けそうなとき、支えてくれて本当にありがとう…」

「んな、いいよ…改まって。それに、俺はまだ何もしてやれてないし…」

照れくささもまじって、苦笑を洩らしていると、そんなことないよ。幸一の言葉にどれほど救われたか。と、明美が嬉しそうに笑った。

その言葉に、俺もどこか救われた気がした。


明美は、ベッドの上で大きく深呼吸をすると、何かを吹っ切ったように、パフッと軽く布団を叩いた。

「幸一に洗いざらい全部喋ってスッキリした。ここ暫く、一人で悶々と考えこんでいたから悪いほうへ悪いほうへ考えが進んじゃって、抜け出せないところまで追い込まれちゃったけど…うん、もう大丈夫。幸一が傍にいてくれるなら、きっとこのトラウマも乗り越えていける。幸一?心配かけてごめんね…もう、無茶なダイエットはしないから、この先も私と付き合ってくれる?」

「あたりまえだろ?別れる気なんてサラサラないから」

そう笑って答えると、従来の可愛らしい笑い声を響かせながら、明美がギュッと抱きついてきた。


やっぱりこいつは凄いヤツだなって思った。

きっと、話してくれた以上に辛い思いをしてきただろうに、それを微塵も感じさせずに今こうして笑顔を見せている。


――――今の自分が幸せすぎるから。


俺は、今以上に明美を幸せにしてやりたいなと思いつつ、俺にギュッと抱きつき、元気が出てきた。なんて笑う彼女に、一生かかってもこいつの強さには敵わないだろうな、とも思っていた。

いや、敵うはずがないんだ…これは、明美が自分の力で乗り越えて得た強さなんだから。


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