一日の仕事を終えて、多少の疲労感と共に住み慣れた我が家に帰ってきた。
去年の暮れに裏に高層の高級マンションが建ってから午前中しか日が当たらなくなった、少し薄暗い二階建ての築43年の木造アパート。
その二階の一番奥の205号室が私の住む部屋だ。
高校を卒業してから仕事場が近い場所でとすぐにここを見つけて住みはじめたけれど、当時全部埋まっていた部屋も2年経った今じゃ老朽化と裏のマンションの影響で空室が目立つようになってきた。少し前に立て続けに隣りと下の部屋の人が引っ越していったから、今はアパート内で私の部屋が孤立した形になっている。
家賃は、管理費込みで2万7千円。4.5帖のキッチンに6帖の和室の1Kタイプ。タイル張りの和式トイレに、冬は浴室内につららが出来るほど寒いステンレス製の小さなお風呂。もちろん、追い炊き機能なんて洒落た物はついていない。ベランダもなく、部屋に一つしかない木製の窓枠は風が吹くとガタガタと五月蝿いし、壁もヒビがはいっていたり、前の住人の誰かが掘ったであろう「世界制覇!!」なんていうビッグな落書きもそのままだ。インターフォンなんてものもなく、来客時はいつもドアアイからコッソリ外を窺ってから対応をしている。
そんな「昭和」の雰囲気が漂うこの場所は、傍から見ればおんぼろアパートに違いない。
けれど、私にとってここは一番安心できる、私だけの城だった。
私は幼い頃に両親を事故で亡くし、兄弟もおらず親戚とも疎遠だったため施設に預けられて育った。
そこで高校までを過ごし、就職も決まったので卒業と同時に施設を出て一人暮らしを始めることに。
生活準備金として施設から家を借りるための初期費用と、最低限の日用品を買うお金は貸してもらえたけれど、なんの蓄えもなくゼロからのスタートで、高卒の私の初任給は手取りで10万を切っていたから生活は苦しかったけれど、自分で稼いだお金で自分の暮らしをする……常に制限のある集団生活の中に身を置いていた私にとってそれはとても魅力的なもので、毎日がキラキラと輝いているように思えた。
職場にも恵まれ、上司や先輩にも恵まれている今の生活は申し分ない。
仕事にも慣れたし、今もさして変わらない手取りで生活が苦しいのは相変わらずだったけど、環境のおかげか苦に思ったことは一度もなくて、寧ろ毎日が充実していると自分では思っている。
私が施設育ちだということは多分、小さな会社だから社の人間全員知っていると思う。
だけどそれをネタに何かを言ってくる人はいないし、今日のようにさりげなくフォローしてくれる人が私の周りには沢山いる。
色んな形で色んな人に支えられている今の生活にとても感謝しているけれど、両親や親戚がいない分、私自身がもっとしっかりして、一人でも生きていけるだけの力を身に着けておかなくてはと、節約をしたり給料の半分を貯蓄にまわすようにしたりして頑張っている。
そんな生活をしていることを知っているから、三恵さんもみのりさんもお昼ご飯の時に出た化粧品の話題ではあんな風にフォローをしてくれた。私が傷つかないように優しい言葉で。
二人は私にとって、かけがえのない姉のような存在なのだ。
「はぁ…お腹減ったぁ〜」
家に着くなり鞄を床に置くと同時に零れた言葉。
帰りに寄ったスーパーで、タイムセールをしていた半額になったお弁当を袋から出し、着替えもせずにまず私はレンジの前に立った。
自炊したほうが節約になると言う人もいるけれど、仕事終わりで疲れている中、なかなか自分だけのために料理って作れなかったりするし、生野菜がことのほか痛むのが早い。それを使いきれるほど料理上手でも大食いでもない私にとって、自炊するよりスーパーのタイムセールのお弁当のほうが数倍栄養も摂れるし節約になると思って、最近では夜ご飯は殆ど半額のお弁当に頼っている。
しかも、自分で作るより数倍美味しいし。
なんて言い訳をしながらレンジで温めている間に着替えを済ませる。着古したグレーのスウェットの上下を着て、肩の下まで伸びた黒髪はクルクルッと捻ってヘアクリップで留める。脱いだストッキングは脱衣所スペースとして置いているカゴの中へ。そして一つしかない通勤用として使っている鞄は押入れの中の定位置へ置く。
そうこうしているうちにレンジがピロリン♪と温め終了をお知らせしてくれる。
私はレンジから温めすぎて熱々になったお弁当を指先で挟んで持ち上げると、急いで部屋の中央にあるガラステーブルの上へと運んだ。
「あっつーいっ!! 500w3分半…だよね。その通りにやったのになんでこんなに熱いの?」
誰に対しての文句なのか。改めて考えるとおかしくて笑えてくるけれど、時として人は一人暮らしをすると独り言が増えるように思う。
施設で生活していた時は独り言なんて滅多に口にしなかった記憶があるけれど、この2年の間に心なしか増えてきた気がする。
うちは特に同居人もいなければ、テレビやパソコン、コンポなどの電化製品も勿体無くて買ってない。
あるのは電子レンジと冷蔵庫のみ。エアコンは備え付けのがあるけれど、よほどの事が無い限り稼動することはないので10月でシーズンオフの今はカバーをかけている。
携帯も今どき珍しい初期のガラパゴス携帯で、次に故障したら確実に買い替えだと言われて恐ろしくてかかってくる以外使うことはなく、三恵さんやみのりさんから化石携帯を持つ女とまで言われる始末。
そんな、外界から遮断されたようなこの空間で仕事以外の日常の殆どを過ごし、独り言が増えてきたとなるとちょっと考え直さなくてはいけないだろうか。
――――人に幸せ与えてばかりいないで、自分の幸せはどうなのよ?
不意に昼間のみのりさんの言葉を思い出す。
今まで充実した生活を送ってきたと思っているし、今だってそうだと思っている。だけど、改めて自分の幸せは?なんて聞かれるとつい、どうなんだろう? って考えてしまう。 テレビもラジオも何もない無音の中で一人ポツンと部屋の真ん中で半額になったお弁当を食べている私。
それを虚しいと思ったことは一度もないし、まして寂しいなどと思ったことも一度もない。
どっぷりハマった一人の世界。だからみのりさんから合コンの話を持ちかけられて、正直、億劫に思っている自分がいた。
人と接するのは嫌いじゃないけれど、特に好んでいるわけでもない。新たに人の輪を広げたいと思うほど社交的な人間でもないし、どちらかというとそういう場に行くことを想像すると苦手意識が働く。
そんな見ず知らずの人に気を遣いながらその場を過ごすより、無音でもこの空間で一人でいたほうが心地よいとさえ思ってしまう。
だけどこの状況、周りからみたら虚しいんだろうか。一般的には寂しいと思われてしまうんだろうか?
部屋の壁に沿って置いたシングルベッド。そのベッドカバーだけはこだわってお気に入りのものを奮発した。そしてその頭上一面と枕元から足元にかけて所狭しと羊毛フェルトで作った様々なぬいぐるみが鎮座している。それらに囲まれて眠るのは私にとって至福の一時。三恵さんたちがこの羊毛フェルトで作ったクマのぬいぐるみをハッピーベアと呼んでくれるように、私にとっても至福の時を与えてくれる大事な存在だ。
だけど、そう言えば私自身の願い事が叶ったことってあったっけ? と、ふと首が斜めに傾いた。
これだけ沢山のぬいぐるみを作っているのだから、さぞ沢山の願い事が叶っているんだろうと思われそうだけど、そんな願いが叶った実感は全くない。
そもそも、私の願いってなんだろう?
いつも作ってあげるひとの事を頭に思い浮かべると、不思議と作ってあげたい色も一緒に思い浮かぶ。
三恵さんのお母様にはグリーン、みのりさんと三恵さんにはピンク、山田課長の奥様にはオレンジで、下野さんにはピンクと白のツートーン。あと、相田さんにはブルー……と言う風に。
じゃあ、私は?
私が私にあげるとしたら、何色がいい?
口に運んだピーマンを噛み、うーん。と、お箸を銜えたまま考える。
だけど、いくら考えてみてもこれといった色も願い事も特に思い浮かばなかった。