そして私の生まれた日

 政宗様お誕生日ネタ








 夜露に濡れた草木の匂いを穏やかな風が運んでくる。夏の青い香りではない落ち着いた香り。虫の声は短い秋の訪れを知らせ、空には欠けてはいるが見事な月。
 自然の暦は何と正確なものかと感心しながら、長い外廊下を渡る。
 先ほどまで人間の騒がしいまでの大合唱であったが、酒の精が本領を発揮し、一人陥落二人陥落と、ついには虫の声が勝ったその頃には、主賓である彼は笑みを残し己の部屋に戻ってしまった。
 まぁとうに宴は終わってしまい、主賓がここの城主ではなく、眠りを誘う心地よい酒の精に変わったとなればそれもおかしな事ではないのだが、今日の宴は又いつものものではないので、仕えている男としては、気に掛かる事が多かった。

 男の主、伊達政宗は、己の誕生日というものを心底憎んでいる節があった。


「! 政宗様」
「お。なんだ小十郎か」
 部屋の前の縁側で脇息を部屋から持ちだし、片膝を立て一人晩酌をする政宗を見つけ、小十郎は苦笑いを浮かべた。
「月見でございますか?」
「あぁ、お前も一杯どうだ?」
 空の盃で呷る仕草をする政宗に、小十郎は「では…」と応えて隣へとゆっくり腰を下ろし、恭しく盃を受け取る。
 いつもの男なら止めに入るだろう行為をしない時点で、政宗は思わず自嘲的な笑みを浮かべた。
 この男は、全てお見通しだと。
「月が綺麗でな。…虫の声もいい」
 そう言いながら政宗は、脇息に凭れたままの器用な体勢で小十郎の盃に酒を注ぎ、己の盃にも酒を注ぐ。
「ただ……廻り来る四季の、秋という日だ。それだけだ」
 小十郎に横目で目配せをしてから、軽く盃を掲げ酒を口へと運ぶ。それを確認してから小十郎も盃を掲げてから口へと運ぶ。
 宴で飲んでいたものより、香りも味も濃い濁り酒だ。
「なのにどうしてだろうなぁ。この日だけは酒の味がわからなくなる…。一向に酔いもしねぇ……」
「……」
 公人の伊達政宗としては、いや、彼の気持ちの大半としては、己の重要性を意識いているし前向きだ。部下などが誕生日を祝ってくれる気持ちも嬉しい。生まれた事にも、生きている事にも後悔した覚えはない。ないが……どうしてもこの日は個人として、私人として自分と向き合ってしまう。幼い頃からの悪い癖といおうか、大きく政宗の中の何かがぶれてしまう日でもあった。
 表に出てくるブレは、年を重ねてゆくにつれ無くなっていったが、根本のものが無くなった訳ではない。
 彼にとって、己という人間がこの世に生まれ出てしまった一番不幸な日という事実は、変わることも消え去ることもないのだから。
 例え他人がそれを否定しようとも、己の中でそれは違うと思っても、拭う事の出来ない何か。その大きな染みが大きく広がる日。
 憂いの色はその隻眼から消えることなく、月光に晒され、寧ろ痛々しいぐらいで。
「──政宗様」
 静かに月を眺め見ていた彼に声をかける。
 盃を軽く置いた音が、虫の声に混じってとけた。
「政宗様、本日は……この小十郎の誕生の日でもございます」
 突然の言葉にきょとりと目を丸くしてから「は?」と政宗は気の抜けた声を上げる。
「誕生日ってお前…、お前の誕生日は」
「“片倉小十郎”は、政宗様がおられてこその“片倉小十郎”」
 男は、笑む。
 ただ微笑む。

「僭越ながら──この小十郎の誕生日を祝って頂けないでしょうか?」

 少しぽかんとしながら、政宗はだまって男を見つめる。
 見つめて、その笑みに包まれて、参ったといったように口端を上げた。
「しかたねぇな。祝ってやるか」
「有り難き幸せにて──」
「まったく“僭越”なんて聞いて呆れるぜ」
 少し身を起こして、政宗は小十郎の眉間を人差し指でつつく。
「えぇ。自分でもそう思います。欲張りも過ぎてますね」
「ふん。で? 欲張りさんは何が欲しい?」
 脇息を端に追いやり、鼻先までするりと詰め寄ると、政宗は先までの表情を感じさせない、見事な笑みを浮かべる。
“水をやりすぎたか”と思っても、それは後の祭りで。
「では──」

 夜の闇の中へ、月光が、うっすらと重なる影を形作る。
 虫の音と酒の甘い香りが、優しく二人を包んだ──