Bad Apple
新年
室内ですら、呼吸の度に冷たい空気が肺腑に広がる。
何一つ変わらぬ、“冬”という季節。なのに何故だろう、やはりこの日は特別なのか、空気に神聖さが満ち、静寂という空間が尊く感じる。
静謐(せいひつ)──その中で柏手を打つ。
音が、空気を割って響き渡る。
事始めを神へ、そして自分に知らしめる音。
神職の下に生まれたが、神という存在を実感した事はない。特に自分などは違う道を歩む事となり、戦いの中に身を投じれば何度神に願うか、そして何度神に裏切られるか。実感など、難しい話だ。
だが、実感はないが存在するとは思う。
柏手の後に手を合わせる瞬間、空気と同じく澄みきる心がそう思わせる。
問題児である主も、「祈ったところでどうとならねぇ」とは言うが、信仰を捨てているわけでも、信じてないわけでもない。もちろん、自分もそう。
神は見守るモノであり、行動を起こすは全て人。それをイヤと言うほど心得ている。
神頼みをするほど愚かではないだけだ。他力本願の神頼みなど、叶わない事が常。
静かに深く深呼吸をして、自然と閉じていた瞼を開ける。
奉る八幡紳は、武家が守護神として崇める神。武家は覆おうにして氏神とはまた別に、八幡紳か天神を信仰する事が多い。これも縁だと思う。
九曜・月星紋は、神の力を借りる“守紋”。神紋・巴紋に近い種だ。それを家紋とする己の血筋。そしてこの紋が伊達のお守り紋の一つと選ばれている限り、自らは、
──あの背を、守るが役目。
思い起こす背。
神に祈るは感謝。そして願い。いや、願いといっては語弊がある。
己が目指す事。己が誓う事。それを口にし、自覚する・実行する事を“願い”というのだ。
御身を守る。その力となる。
それが全て。それ以外の願いなど‥‥
決意を眼光に込め、神器の鏡を射抜く。と、拝殿外から物音と同時になにやら騒がしさが伝わってきた。
「?」
さほど早い時間ではないとはいえ、この時期はまだ、朝は薄暗い。参拝の者がいるにしろ、少々引っかかる。ゆっくりと腰を上げ、拝殿脇の御座所に移動し、外を窺う事にした。
「!?」
思わぬ人物の姿に、冷静さが一瞬飛ぶが、そこはこの神聖な場と、息をする度に満ちる清浄な空気に助けられた。
眉間に寄った皺を指先で撫でながら、頭痛を和らげる。とりあえず、自分が出て行かなくては、後々揚げ足を取られ‥‥もとい、事が起きてはしかたない。
大きな国土を統べる者の顔が、庶民にまで知られている事などそうそうない。普通は。
しかしこの地を統べる彼は、良くも悪くも知られていると同時に、若く、端正な顔立ちと相反するようなその鋭い眼光は、目立つ。何よりも隠しきれないその隻眼が、彼が何者かを雄弁に語る。おつきの者が少なかろうが、もしくは居なかったとしても、その辺りにいる武士と違う事を。
──それにしても…
と、妻戸の隙間から窺う事の出来るその姿を眺める。
ピンと伸ばした背筋。纏う大紋の黒装束。菊綴位置にある伊達笹の大きな定紋は、正装とはいえ彼らしい派手な衣装だ。伸ばしっぱなしの髪を今日ばかりは綺麗に結い上げ、侍烏帽子の中に詰めている。が、うなじに収まりのつかなかった黒い後れ毛が、彼自身のように、悪戯っぽく舞っている。
気がつくと、それを目で追っている自分に、呆れの溜息が出た。年の初めに‥‥と、自分自身に目眩を覚え、境内の清廉な空気で意識も身体も洗い流されたくなる。
“とにかく”と意識を切り替え、姿を見せる事を決意した。
「政宗様、新年あけましておめでとうございます」
拝殿へと足を進めていた政宗は、横に構える御座所からかけられた声に、やっと姿を表したかと言わん表情を向ける。
小さな、御座所へ上がる階段の最下段──敷かれた切り石の上に小十郎は諸膝を着き、恭しく頭を下げる。
すると政宗は少しの間、右腕ならぬ右目と称される重臣に声をかける事も忘れ、ぽかんと眺めた。
「? いかが致しましたか?」
「いや、新年、あけましておめでとう。‥‥うん、小十郎も息災で何より」
「‥‥? 息災も何も、まだ城を発って数日もたってませんが。」
「まぁ、そうだが、これは気分の問題だ」
「? ‥‥それにしても、御参拝の時期も早い上、第一この領域は危険だというのに、つきの者もそんな数名で‥‥」
この神社は、小さいが位置がかなり問題の場所にある。北は最上、南西には上杉との境界線の差し迫った位置。もっと言えば、八幡神は元々最上に縁のある者、上杉に縁のある者からも信仰を集めている。伊達領とはなっているが、それはこの神社にもっとも縁のある片倉小十郎が、伊達に在を置いているからという意味合いも深い。以前から片倉家と伊達家に縁があったとはいえ、小十郎の存在は、この領地を伊達領とする決定的な楔と言っていい。
亡き輝宗は、もちろん小十郎の才を買い政宗の傅役としたのだろうが、このビジョンが見えなかったとも思えない。重要な位置に、思わぬ人材が偶然埋もれていたといった方が正しいかもしれないが。
とにかく、この地域が一触即発の地域でありながら、右目である小十郎の存在で保ち、その上で神聖な、“中立な場所”として各所から信仰を集めている、複雑な場所である。
だからこそ、参拝時期を考慮してもらわなければ下手を打つ事にもなる。正月とはいえ、“伊達政宗だ”と名乗って歩くような格好ならば特に、警戒をと言いたくなるのだが‥‥
「? 政宗様?」
言葉を連ねかけた小十郎だったが、彼の口辺に浮かべられた笑みが、徐々に頬が緩んでいくような、なんと表現すればいいのだろうか、妙な視線も絡まり、自分が見せ物になったような、そんな気分がして眉を寄せる。
確かに今日の装束は事始めという心から、形だけでもと男覡(おかんなぎ)のようにと、浅黄色の袍をまとい、髪を束ねた見慣れない姿。それを目にして、笑いが込み上げてきたのかもしれないが。
「いや、いや、いや」と、小十郎の疑問符に、懸念する必要はないと言いたげに右手を軽く挙げるが、もう一方の手で隠された口元が、指の合間から弓なりに歪むのが見えた。
ただの笑みならそう気にもならないのだが、瞳も一瞬だが蠱惑的(こわくてき)に光ったのが引っかかる。
見間違えるはずがない。よからぬ事を企む際に見る色。もっぱら‥‥
“回避せねば”と、先手必勝。咎めるように小十郎はもう一度、今度は少し強い口調で「政宗様」と唱えた。
「いや、いやいや」とまた誤魔化すよう呟く。
これ以上はせめても仕方がないので、次はと小十郎は辺りをきょろきょろと見回す。政宗に付き添ってきた若衆、参拝者はともかくとして、権宮司どころか男覡‥‥権禰宜(ごんねぎ)の姿も見あたらない。
訝しく眉を寄せたその表情で、若衆は小十郎の言いたい事を察知した。
「あ、あのですね、なんっすか、宮司さん呼んでくるとかですっ飛んでいって」
たしかに政宗が来たとなっては、宮司の代わりとなる権宮司では失礼に当たるだろう。とはいえ突然の来訪に困惑して一般職の権禰宜まで引いたとは。さっきの騒がしさはそれかと小十郎は納得する。
とにかく、また雪が降ってもおかしくないこの場に政宗を立たせておく訳にもいかず、丁度自分が男覡の格好だというのも何かの縁と、御座所内へと案内する。
御座所へと上がり、政宗は部屋の中へ案内されるが、何もないガランとした部屋を不思議そうに眺める。確かに、来客がある事がわかっていれば、色々と用意されるが、ここはいわば詰め所。家具があろうとほぼ何もない。人の、あの独特の生活感など特に。
政宗についていた若衆も御座所の階段は上がったが、敷居は跨がず妻戸を閉め、外で片膝をつき待機する。客人を待たせる、そういう間なのだ。
政宗は少し疲れたと言いたげに“ふう”と小さく声に出して息をつき、小さな火桶を部屋の真ん中へと寄せる小十郎を眺めた。
「宮司は用意に少々手間取るだろうとも言っていたし、少し休むか。」
「‥‥前もっての連絡がなければこうなります」
用意が済み、チクリそう言ってから、部屋の隅に坐する。そんな小十郎に、政宗は笑みを漏らす。
「お前が出来れば問題なかったんだがな」
「これは形ばかりですので」
先の笑みといい、格好を揶揄されていると苦笑いを浮かべる小十郎に、政宗は微笑を向けた。
「形ばかりとは言っても、様になってるぜ。お前は──本当に静謐と騒擾の男だな」
その言葉に、小十郎は片頬笑む。が、政宗は決して揶揄のつもりで言ったわけではない。 迎えてくれた小十郎が、見目もさることながら、思いの外、事もなく収まっている姿に正直ドキリとした。
決して小十郎が“静”ではない事、政宗はよく知っている。ひとたび戦場に出れば、鬼と称される姿。今にも暴走しかねない“動”を抑えるための“静”。また政宗が“動”であるために、自らの狂気的な“動”おも抑え込む、“静”。完璧に作られた、男の静謐。
それがどれほど狂気的な従か。
そしてそれがどれほど主の心躍らせる事か。
くくっと、政宗の喉の奥で声が鳴る。
「俺は本当に、目が利く上に運のいい果報者だな」
「は?」
「お前のように頭も冴え武に秀で、加えて美丈夫な者を腹心に持ち、さらにその者を愛でられるのだから」
膝を着いている小十郎合わせて少し屈み、無邪気に笑みを見せてくる。
「なっ、政宗様!」
眉を吊り上げる小十郎に対し、政宗は不満そうに口の端を下げる。
「何だよ。正月早々説教はゴメンだぜ」
「こちらも正月早々過ぎたおふざけは御免被りたいのですが」
「an? 俺はふざけて言ってないぜ? 本気でそう思っているから、こうやってお前を巡り合わせてくれた八幡神に、感謝を奏上しに来たんだ。」
さも当たり前に、さらりと出された言葉を理解するのに、小十郎は数秒要する。そして理解した後、恐縮のあまり自らの頬が染まった事を察し、慌てて俯いた。
「そんな、」
「お前、俺が毎年ここに参りに来てるの、なんだと思ってたんだ」
「それは」
「そりゃ戦勝祈願や諸々もあるがな、俺は本当に、お前は八幡神が使わしてくれたと思っている」
自分が動ける事も覚悟を決める事も、小十郎あってと政宗はよくわかっている。幼い頃、部屋に引き篭もっていた時、無理矢理でも外に連れ出したのは小十郎だった。元々あった闘争心や負けん気にさらに火をつけたのも、年上だった小十郎が手加減せず、武術等を相手したせいもある。
だからこそ、
「ホントだぜ?」
「政む‥‥」
過ぎた言葉にたまりかね、顔を上げた時、小十郎を据えたのは、完全に蠱惑と化した政宗の瞳だった。
しまったという頭の中の警報など遅すぎる。
そしてそんな小十郎の思考など百も承知で、政宗は己の唇を寄せた。
「政宗様」
「アン?」
「ここがどこかお忘れではありますまい?」
息がかかる。
もう唇が触れるか触れないかの間際での、最後の抵抗。だがそれを、政宗は軽笑した。
「何言ってンだ。ここだからだろ?」
驚く小十郎の瞳に、政宗はとどめの笑みを浮かべた。
「歯止めがかかるだろ? ここなら」
瞬間、かちりと鳴ったのは、微かに当たった互いの歯の音。
塞がれる唇。
呼吸は忘れる。
静謐の空気など、今はただ邪魔なだけ。
前のめりにただ唇を寄せていただけの政宗は、首根に伸ばされた男の手によって体勢を崩す。が、崩れた方も崩した方もそれはわかってそうなっている。
蠱惑にかけるというのは、蠱惑にかかるというのはそう言う事だ。
「ふぅっ」と、やっと放された唇から、声が微かにあがり、この時とばかりに二人は呼吸を思い出す。
次へと競る心を、肺胞に満ちた冷たい空気が足止めする。
互いの心境を互いの瞳で窺い見、軽い口吻で止めとした。が、後れ毛すらも楽しむかのように、うなじに絡む小十郎の指に、政宗は顔をしかめる。
人が留めているモノを弄ぶような振る舞い。それもまた、小十郎の納められているものが顔を出している証拠。それが首筋から背筋を通り、ピリピリと心地よい痺れとなって両脚を侵食する。
言動と行動、理想と現実など伴わないのが常。その狭間を楽しんでしまう自分は、性が悪いと政宗は実感し、またそれも楽しむ。
「小十郎、祈願は別として、今俺がする神頼み、なんだかわかるか?」
「さて‥‥」と気のない相槌が返され、口角に口づけされる。何げに蠱毒の廻りが早いのは、いつも小十郎の方に思う。
悪戯っぽく政宗は笑った。
「城に帰る頃、天候が悪くなってもいいな…なんてな」
この時期に天候が悪くなれば吹雪。それは一歩も動けない。そうなればどこで過ごすか。
小十郎は溜息を吐く。
「私も、初めて神頼みに縋りたくなりましたよ」
「ほぅお前が?」
聞くに及ばず、一にも二にも政宗とお家の事を願うだろう小十郎がいう“神頼み”が何かと、興味深げに目を輝かせる。
「何だ? 言ってみろよ」
「箍が──外れないようにと」
するりと、指が首筋を撫でるように這う。たまらず息を吸い込む政宗の唇は塞がれた。
願いは、叶うのか叶わないのか。
ただ、神頼みが叶わない事は世の常でもある──。
了