『GO TO THE FUTURE』

 2010/05/02 Dark Knight 寄稿








 言葉にすれば“ピンチ”と言える状態にもかかわらず、目の前で自分のために身を挺して戦う男を、まるでドラマのワンシーンのように自分は観賞していた。
 滑らかな、流水を思わせる動きは自然で無理がなく、でたらめな己のでたらめな喧嘩の延長とは違って、向かいくる憤怒の形相をした男達に対して冷静に、最小限の移動範囲と動きで捌いてゆく。鳩尾に、腕に、首にと、狙った所へ男の手が振り下ろされ、まさしく“手の刀”と言える手刀。
 こういった局面を想定した仕事としているのだから、それは出来て当然のことなのかも知れないが、それとは又違う印象があった。今日は黒いスーツのためか優美とも言えそうなその動きが目について、見事で眺めていたいと思わせる。
 自分を警護するこの片倉小十郎という男が、ただの男ではないということは嫌というほど解っている。そして自分には不相応であることも──


「……巻いた、か」
 裏路地を潜り抜けて辿り着いた大道りで、走ったために荒れた息を少し整える。大通りとは言っても車ばかりが通り、人影はまばらだが、昼間でも薄暗いさっきの場所よりはマシだ。
「政宗様」
 気遣うようにこちらの様子を窺う男の髪は、一戦交えた後のため、いつもは一糸乱れぬように後ろへと撫で付けられている前髪が、数本ハラリと零れ靡いていた。四人相手をして被害は乱れた前髪だけかよ……と思った時には手が勝手に男の前髪を梳くように撫でており、近くに寄ったせいで男の服に付いている独特の甘い香りが鼻をくすぐった。香水ではないとても独特の香り。いつも少し気になっていたのだが、
 ──なんだろう……
「政宗様?」
 名を呼ばれてようやく、自分の行動に驚いて我に返る。
 年上の頭を撫でた上に香りに気を取られ、黒いジャケットから覗くシャツに鼻先を寄せているなどおかしな構図この上ない。
 しかし小十郎はされるがまま、ただキョトリと政宗を見つめていた。
「あっ、その髪、う、鬱陶しいだろう」
 慌てて手を引っ込めて飛び退き、誤魔化すように早歩きで先を進む。
 いくら仕事とはいえ、年下のガキに頭を撫でられれば気を悪くするに違いない……というか、容易に頭に触れさせるな。大体政宗“様”ってなんだ、政宗様って!? 親父との契約オプションにそんなのがついてたのか? そんな、傅くような真似をするからついついこっちも態度が横柄になるんじゃねぇか。俺だけが悪いんじゃなくて、アイツも悪い──などとブツブツ胸の中で文句を消化する。
 小十郎とは決して気心知れた仲というわけではない。付き合いも……一緒に行動するのも五日と経っていない。なのに男はすとんと自分の行動やプライベートに違和感なく入り込んでいた。まるで昔から隣にいるように。
 今まで警護に付いたどんな人間と比べても、実力も接し方も明らかに違っていた。
「……」
「──政宗様」
 ふわりと、又あの甘い香りがしたかと思えば、不意に後ろから耳元で囁かれ、ザワリと駆け上がったものに身震いし、慌てて振り返えった。
「なっ! お前、あれほど小声で呼ぶな言ったろ!?」
 耳を守るように手で覆って文句を言うが、いたって冷静に「足を止めないで下さい」という言葉が返ってきた。
 辺りに神経を張った、仕事の目で小十郎は政宗を見る。
 説明がなくとも、大体その瞳を見るだけでどういう状態か理解出来た。
「……巻くことは出来なかったか。ま、こんな車も人も往来があるところで何が出来るってこともないだろうが」
「車や人がいたところで関係ありません。それに車が入り込めるならそれはそれで相手にも手段が──」
 途中で言葉が切れたかと思えば、男は前方を厳しい目つきで睨む。
 こちらへやって来る男が二人。それを確認してちらり振り返ると、さっき伸した男達が様子を窺いながらやって来る。どちらも距離はあるが、間合いを計るようにゆっくりと詰めている。ただ明らかに、前方からやって来る男達は伸したチンピラもどきとは違っていた。
「新手……か。まぁ、今度から小十郎のいう通りにするさ」
「今からにして下さい」
「へいへい。──で? 後ろを片付けて走るか?」
「いえ、多分そんな暇はありませんね」
「Ah?」
 そう言うと橋桁に寄って、ちらりと何故か川の様子を確認してから、小十郎は話を続けた。
「政宗様、ジャケットを今すぐ脱いで下さい。眼帯も外して。後、携帯と貴重品も。」
「ha?」
「早く。言う通りにするのでしょう?」
 少しカチリとくるが、この男が考えも無しに何かを強いるとは思えず、上着と携帯と財布を手渡した矢先のこと、異質な音を立て迫るエンジン音に二人、道へと目をやれば、ワゴン車が急ブレーキをかけ歩道に横付けされた。
「なっ!?」
 驚く政宗とは対照的に、小十郎は予想していたようにチッと冷静に舌打ちし、次の瞬間政宗を軽々と持ち上げた。……いわゆるお姫様抱っこで。
「おい!? ちょ!!」
「政宗様、腹ァ壊しますんで、水は飲まないように気をつけて下さい」
「へ?」
 疑問符を打ったのが先か、それとも自分の身体が宙に舞ったのが先か。ふわりとした浮遊感の後、身体は当たり前の事だが重力に従って──落ちる。
 放り出されたのだ。綺麗だとは言えない川へ。
「──!!!!!!」
 あまりの展開に叫び声も上げられず、どぶんっと尻からまだ泳ぐには早い川の中へ落ち、そのまま少しの間、気泡とは逆に身体がズブズブと沈んでいった。案外深いものだ等と脳の端で冷静に思いながら。
 そして、こんなとんでもない現状に晒されたというのに、落下する直前に見た映像を思い浮かべる。
 後ろからはもう戦力の内には入らないだろうチンピラ。前方からは新手。そしてワゴン車からは……
 ──……
 あの男なら大丈夫。小十郎なら大丈夫だと、どこからともなく沸き上がる信頼感に押され、政宗は水面へと浮上し始めた。










   GO TO THE FUTURE














 ホテルのバスルームというのは、味気はないが機能的で好きだ。と、政宗は歳に似合わぬ冷めた感想を抱きながら、ふかふかとしたバスタオルで身体に付いた水滴を拭う。
 必要最低限の物しかない清潔な脱衣室。これが自分の家となれば、物を最小限にとどめているつもりでもやはりいらぬ物が増えてゆく。人間、本来これだけで良いのだ。これくらいで事足りるのだ。なのに生きて余計なものを増やしてゆく。
 物も、情報も、感情も。
「……」
 洗面台の大きな鏡に映るまだ濡れ鼠な自分の姿を眺め、溜息を吐く。シンプルに生きたかったはずなのに、どうしてこんな事になってしまったのか。確かにいいところのお坊ちゃんなのは認めるが、自分は紛れもなく一般人。それなのに未成年で要人として警護される身。それが必要となる物凄く複雑な渦中。
 ただ自分は何をする訳でもなく集めていたのだ。足りない感情の代わりに世の中に溢れている情報を。
 集めて、集めて、集めて、胸に空いている隙間を埋めようとして。埋まるはずもないのに埋めようとして。その結果得たのはハッカーとしての技術と、うっかり儲けてしまった金。そして集めすぎた情報の中に潜む疫病神的な情報数多。
「チッ……」
 ぽいっと濡れたバスタオルを床に捨て置き、狭くないが広くもない脱衣場を見渡す。着ていた服は小十郎に渡したジャケット以外当たり前の事ながらずぶ濡れ。
 小十郎は勿論無事に一仕事終え、取り敢えずと男の拠点にしている近くのビジネスホテルに連れてこられ、ついて早々、浴室に押し込められ、服は脱ぐなり奪い去られた。
 ──大体、俺を守るってあんな手荒な守り方あるか?
 確かにあのままワゴンに押し込められれば危なかった。明らかにただの脅しではない。それに新手も加わりどんな武器を持っているかも解らない相手に、喧嘩がそこそこ出来る程度の自分を守りながらというのは、あの男にとって足手まといかも知れない。
 しかし、だからって要人の俺を橋の上から放り投げるってどうだ!? 大事に扱うべき対象だろ!? 仕事のいわば商品だ。ならせめて俺を抱えて一緒に飛び込むってのが普通じゃねぇか? 何が「若いので大丈夫かと思いまして」だ。テメェのやることは要人警護じゃないのか? 要人警護。要人! 警護! ……などとここにはいない男への苛立ちを、鏡に向かって無言の熱弁で果たすという自分の姿が情けなくなってやめた。
「……」
 格好良く言えばシークレットサービスがつくのは初めてではない。何度か付いて何度も切った。理由は色々とあるが、まず今回ほど酷くない状態で親が一方的に付けてきたこと。自分の親がおかしいと思うのは、子供が危険なことに巻き込まれているかも知れないと気付いて警護などを付けてくるわりに、子供が何をしているのか首を突っ込んでこないところだ。母親の方は多少モノを言ってくるが、父親は「政宗の好きなようにすればいい」の一言。
 そんな、信頼されているのか放任主義なのかよく分からない親が懲りずに用意した片倉小十郎という男は、今まで親が心配して付けた者とは一線を画す男で、なんだかいつもこちらの調子を狂わせてくる。
 厳しい顔。左頬の傷。アイロンのきいた皺のないシャツ。そこから香る甘い香りはお香かと思うが定かではない。「安物ですよ」と答えてはいたが、仕立てのよいノーブランドのスーツ。丁寧に穿かれている革の靴。
 立っているだけで一種独特の世界を作り出すその姿を初めて見た時は言葉を無くした。
 なんというのだろう。ボディガードというものでもなく、その筋の人というのも似ているが違って、ホスト……というのもピンと来ないのだが、異質すぎて、派手ではないが目立った。それを少し意地悪に言うと、サングラスをかけて問題を回避しようと小十郎は試みたが、慌ててやめさせた。その方が目立つ。
 ──サングラスしたらマトリックスに出てきそうだったな。
 あの、自分が感じていた漠然としたイメージが分かった瞬間の爽快感は何とも言えなかった……などと振り返る。
 そんな外見や仕事内容とは裏腹に、小十郎が時折みせる柔らかい笑顔と天然的なボケに、知らず知らす慰められている時がある。元々あの男が持っている冷静さや、包容力と言おうか懐の大きさは、自分が子供であることを思い知らされヘコむ時があるが、政宗に取っては今まで関わったことのないタイプの人間で興味をそそられてばかりだ。容姿は悪くない。寧ろ男気が溢れていてその、男の目からしても──いい。
 無意識に己の左頬をさすり、男の事を想っている自分に少し戸惑って“そんな事より着替え”……と、思い出したように本題に戻って辺りを見渡すがソレといったものはない。
「おーい、小十郎」
 扉を開け、浴室からにょきりと顔を突き出して部屋の中を見渡すが、どこへ行ったのか見あたらない。ますます『警護!』と、文句が言いたくなってきた。
“あんにゃろぅ、替えぐらい残して出ていけ。”と胸の中で毒づいて腕を組む。
 バスローブは見あたらない。部屋に備え付けられたチェストの引き出しでも探れば、浴衣のような物が見つかるだろうがアレはごわごわして気持ちの良いものじゃない。別に男同士なのだからこの姿のままここか部屋で待っていてもいいが、着るものがあるなら着てもいいよな? と勝手に理屈を付けてニタリと笑った。
 先ほど見渡した時に見つけたのだ。どうやら着替えとしてカゴの中に用意していたらしい。勿論政宗のためではなく、あのちょっと的外れのシークレットサービスが自分用に。
 何故かいけない物を見つけたように楽しくなって鼻歌が出る。
 カゴからシャツを取り出すと、思いがけずあの男特有の香りがふわりと広がった。
 ──この香り、なんだろう?
 真っ白いシャツに鼻を擦り付け、くんっと嗅ぐ。
 洗濯したシャツのはずなのに染みついて残っている複雑な香り。香水のような清涼感はないが、この香りを嗅ぐとなんだか落ち着いて……
「!」
 鏡に映っている、裸で男物のシャツを嗅いでいる自分の異様な姿を誤魔化すように、嗅いでいたシャツをぞんざいに広げながら袖を通す。と、確かにでかい男だと思っていたが、更に実感した。
「ぶかぶかじゃ……ねぇか」
 手が、袖から指先が見える程度。肩の位置はずれている上に、元々、裾は長めのシャツかも知れないが、膝まで隠れそうな勢いだ。
「…………」
 腹立たしい。非常に腹立たしい。
 警護されている最中も男として、こちらが勝手に思ってる事だがプライドを踏みにじられるような思いをする事があった。その中で体格というのは決定的な何かで。
 政宗は貧相な身体ではないが相手が悪い。他にも無意識の上での仕方のない“男としての差”を見せつけられる事が多く、その度政宗の中には憧れと腹立たしさが生まれるのだ。
 素直に憧れられるほど子供でもなく、ただ苛立ちをぶつける対象になるような、そんな無能ではない男。いや、出来るヤツだからこそ腹立たしく。
 イライラしながらボタンを留め、カゴの中を探ると、出てきたのは下着とズボン。
「ブリーフかぁ」
 つまみ上げて眺める。
 他人の下着は躊躇いがある。しかもトランクスなら兎も角……と穿くことを却下して指を離すと当たり前だがぽてりとカゴの中に下着が落っこちた。下着を着けないとなればズボンも穿けない。
「……ま、いっか」
 深くは考えずにシャツだけを着た姿で風呂から出、部屋を見渡す。この部屋に着くなり風呂場に押し込められたのでしっかりと見ていなかったが、狭くもなく広くもない一部屋。ビジネス滞在用のためか、窓際が長い事務机となっていてノートパソコンが置かれてある。しかしそれ以外目に付くところに無用な物は何も置かれていない。
 それこそ自分が憧れる“必要最低限の部屋”。
「……」
 そりゃ短い滞在先のホテルに生活感があってもな──と納得しながら机の方へと向かうと、微かだが男が放つあの独特の香りがした。
「?」
 座り心地のいいスウィブルチェアに腰掛けて、机を見渡す。灰皿はない。が、メタルスチールのシガレットケースを見つけてしまった。何の躊躇いもなく手を伸ばしてケースを開ける。と、あの甘い香りが政宗を包んだ。
 ──これ。
 煙草らしからぬ、しかし煙草から発せられる香り。甘いような、それでいて少しクセになるあの香りだ。鼻を寄せると、呼び起こされた男の匂いにゾクリと身が震える。このシャツにも付いているものと同じ……。
 香水ではない何かだと思っていたが、この香りだったのかと納得した。
 ──しかし煙草ってのは……意外だな。
 煙草の香りだったことも、男が服に染み付けるほど煙草を吸うという事も。
 不思議と自分はあの男を信頼している。だが本当の所は何も知らない。煙草を吸っていたことすらも。
 クンッと動物のようにもう一度ケースの中を嗅いでから一本を抜き取り、徐に口の端に加える。──が、
「!? 甘ッッ!!」
 思いもよらぬ現象に慌てて口端に差した煙草を抜き取って眺める。舌先を少し出し、ペロリと煙草を差した箇所を舐めるとハッキリと口の中に甘さが広がった。
「な……ん?」
 何度舐めても甘みだ。
 煙草に甘みがある。しかも香りも普通の煙草の香りではなく
 ──まさか。
 ドクドクと脈が速くなる。過ぎったイヤな仮説を頭で否定しようと身体は正直なものだ。
 これがもし何らかのクスリで灯台下暗し、小十郎は厄介なバイヤー達の息がかかった奴だったとしたら?
 ぶんぶんと、思わず子供のように大きく頭を振る。有り得ない。あの男に限って有り得ない。あの男は、そんな男ではない。
 バクバクと反抗するように速くなる脈に対して言い聞かせる自分に、彼はクスリと笑った。
 ──ありえねぇ……。
 自分が、付き合いの浅い男に信頼を寄せている事実が可笑しかった。いつもの自分ならもっと冷静なはずだ。心も許さないし執着もしない。身を守ってもらう立場であってももう何人、警護の人間を辞めさせてきたか解らない。なのに……
 そんな事を考え始めたその時、ピッというカードキーの差し込まれた音と共に、ガチャリとドアロックの外れた音が耳に届き、ビクリと肩を震わせ振り返った。
 扉を開け入ってきた男は黒いスーツのまま、両手に似合わないコンビニ袋と紙袋を下げて部屋に入ってくると、椅子から背もたれ越しに凝視する政宗に対し一度大きく瞬きをした後、厳つい左頬の傷とは対照的な柔らかい笑みを浮かべた。
「あぁ、失礼しました政宗様。シャワーから上がられる前に買い物を済ませるつもりでいたのですが……」
 と、言ってる途中で何かに気付いたようにハッとして、彼の元へと慌てて駆け寄ってくる。男が見た視線の先は、手に持っていた煙草。
 ──しまった!
 今更隠してもどうとなる訳ではないのだが、慌てて煙草をケースにしまう間、袋をおざなりにベッドの上へ投げ置いて、男は襲いかかる勢いでシガレットケースを持っていた政宗の手首を掴み上げた。
「ぃてっ、放せ!」
「政宗様っ、それは」
 初めて見る血相の変わった男の顔を見て、絶望感が溢れた。
 ──そ、ンな、
“まさか”に身を貫かれるような痛みが襲う。この男は違うと思っていたからだ。この男は絶対自分を裏切ることはないと確証のない信頼を自分はいつの間にか──

「煙草は二十歳になってからです!!」

「──……は?」
「“は?”ではありません! 油断も隙もないっ」
 シガレットケースを奪い取り胸ポケットに収めると「まったく」とブツブツ言い始める。
 張り詰めた緊張感が自分の思い描いた展開にならず“あれ?”と政宗は小首を傾げた。
「おい小十郎、その煙草──」
「なりません。酒も煙草も二十歳からだと」
「いや、二十歳からは解るがそのタ」
「それにその格好! どうしてシャツだけ……それに髪は生乾きで……。そのままではシャワーを浴びたところで風邪を引きますっ」
 そう言うや否やバスルームに向かったかと思えば、ハンドタオルとドライヤーを手に戻ってくる。
「んなこと言っても、風呂に服があったからこれを着ろっていってるのかと……」
「アレは小十郎の替えです。──でしたら下着もズボンも揃っているでしょう。何故チョイスが、」
“シャツ一枚なのか”とコンセントにドライヤーのコードを差し込み終えた男は、頭上から困ったように、少し恥ずかしげに彼を見る。
 そんな顔で見られると自分まで恥ずかしくなって、政宗は椅子の上で行儀よく座り直してちらりと男を見上げた。
 ぴっちりと着こなしたスーツ。その手にはタオルとドライヤー。そして何とも言い表せない、政宗を見る恥ずかしげな顔。
 酷く──滑稽だ。
「あ、お前なぁ! 他人の下着を躊躇いなく穿ける方がおかしいだろうがっ」
「小十郎の下着は綺麗に洗濯されております。」
「洗濯云々の問題じゃなくてっ──あぁもぅ、いいだろう!? 男同士なんだからシャツ一だろうが裸だろうが」
 ぷいっとむくれて前を向いた彼の頭へ、見計らったようにゴォッとドライヤーの熱風がかけられ、遠慮なくわしわしと髪にハンドタオルを掛けられ乾かされ始める。
 とても不思議な感じがした。自分が他人に背中を見せ、無遠慮に頭を乾かしてもらう日が来るなど考えてもみなかった。
 どうして自分はこんなに……この男に対して警戒心が無くなるのだろう。
「安物ですが着替えを買って参りましたので、髪が乾き終わりましたらお着替え下さい」
「ああ。──……あのよ、」
「何ですか、政宗様」
「お前、その煙草」
「いけません。煙草は二十歳になってから」
「違う。お前が煙草吸うって知らなくて……それにその煙草、変だぞ」
「! まさか吸われたのですか?」
「吸っては……ねぇけど」
 話ながらも、髪は順調に乾かされていく。そして乾かされながら政宗は戸惑った。
 もしあの煙草が“煙草”でなかった時、この体勢は危険だ。そうでなくとも問い詰めるのであれば、己に優位な土俵でやるべきだというのに、自分はまるで男の口から早く否定の言葉が聞きたいために、次から次と言葉を発しているようで。
 ──冷静じゃねぇ。
 頭では解っている。解っているが……
「……変な……匂いがした」
「えぇ。あれは特殊な香りのする煙草でしてね。ですから、貴方の前で吸う事は控えていま」
「甘かったぞっ!」
 しまったと思う。追い詰めてどうするのだと。これであれが煙草でなかった場合の──そう考えた緊張の中、政宗は冷笑してしまった。今自分が考えた恐怖は、煙草でなかった場合の身の危険ではなく、暴かなくてよいものを暴き、今の警護される関係がなくなるかもしれないおそれだった事に。
 ──畜生。
 無言になる政宗の髪を変わらぬ調子で男は乾かし続けながら、タオルを机の上へと置き、今度は指を髪に紛れ入れて乾かし始めた。
「口にしましたね?」
「……」
「いけない人だ……。甘いのは、成分的に煙草の葉だけではないからですよ。丁子というものが交じっているんです」
「……………………丁子?」
「香辛料や生薬に使われる花の蕾です。詳しくは私も知りませんが。そのために変わった匂いや甘みが出るのです」
 バクバクと脈打つ心音が聞こえないかと真剣に思う。しかしハッキリとしたと同時に肩の力が抜ける。なんという独り相撲か。
「普通の……煙草か」
「はい?」
「なんでもない。こっちの話だ。それと……そりゃ煙草の匂いプンプンさせるのは気にくわねぇが、かといってお前の嗜好にまで口出しするつもりはねぇから、好きな時に吸えよ。それにその香りは……嫌いじゃない」
「──ありがとうございます」
 守られる度に身を包む香りは、いつの間にか自分に安心感を与えるものとなっていて。それは自分の中でも大きな驚きだった。
 理屈より何より、本能がこの男を信頼している。だがそれはやはり素直には受け入れがたい。
 ずっと、何かしら理由を付けて生きてきた身としては、この男の存在を受け入れている要因が、理屈が欲しかった。そして、男が自分を守る理由も。
「小十郎っ」
「どうしました?」
「その、お前、警護の中でも一際っつーか花形っつーかその、シークレットサービスじゃねぇか。素人目でも解るくらい上等の」
「はい、まぁ……そうですね」
「そうですねって……そんな奴がよ、こんなガキの……頭拭いてていいのかよ」
 もごもごと萎む言葉。
 出来た態度。出来た考え。外見すら出来ていて、憧れのような嫉妬のような、劣等感のような、そのどれとも違うモノまで絡んで自分の中に生まれている感情。
 今までいらないと切り離していた感情が、この男と居ると利子付きで返ってきた感覚になる。
 そんな政宗の心を知ってか知らずか、ドライヤーの音に交じって「ぷっ」と吹き出した笑い声が耳に届いた。
「なっ!?」
「貴方は面白い人だ政宗様。大人数の大人相手に渡り歩いていける啖呵やカードを切るかと思えば、ご自分を子供だと認識されたり、」
「うるせっ。大体、大体その“政宗様”ってなんだよ」
「はい?」
「“政宗様”。他にも言葉遣いとか、甲斐甲斐しくそんな……子供に媚売るみたいにお前、親父に言われてるのかもしれねぇけど、もっとプライドとかねぇのかよ」
 言っていて“違う”と思う。本当は、そんな事を言いたい訳ではなかった。訳では無いのに、出て来る言葉は後ろ向きなことばかりで。
「そりゃ、仕事で仕方ねぇのは解るけど……」
 下唇を噛む。そういう事が言いたい訳ではなく、もっと別の事が言いたいというのに、口から出て来るのは違う事ばかりで。
 パチンとドライヤーのスイッチが切られると同時に、当たっていた温風が途切れる。頭を撫でるように軽く髪を整えられたかと思うと、座っていた椅子をぐるりと百八十度回転させられ、向かい合った。
「!」
 椅子の手すりに男は片手を掛け、見上げる政宗と視線が同じ高さになるように膝を折り視線を合わせると、ニコリと微笑んだ。
「政宗様、私の事は犬とお考え下さい。」
「犬ぅ!?」
「えぇ、犬。」
「何考えてんだお前」
「犬は、人に仕える事に何か疑問を持ちますか? 守る事に疑問を持ちますか? ……役に立つ事に喜びを感じる生き物なのです。政宗様には解りかねるかもしれませんが、そういう生き物なのです」
「……」
 自分が今、どういった表情をしているのか政宗には解らなかった。ただ、真っ直ぐ逸らされることなく向けられる双眸に、強い光を見てしまったことは確かで。
「貴方の役に立っていると言うだけで、この小十郎は嬉しいのですよ」
 そう括り、微笑んで立ち上がろうと椅子の手すりから離れようとした手を、政宗は咄嗟に掴んだ。
「嘘だ」
「?」
「お前は犬なんて生易しいもんじゃねぇ。もっと強い何か、意志がある」
「政宗様……」
「騙せると思うな。お前はその意志で、犬にでもなれるんだ」
「……買いかぶりです」
「買いかぶりじゃねぇ。だから──俺は腹が立つんだ」
 握っていた手を払い退け、政宗は椅子をくるりと回転させ背を向ける。
 自分が持っていた苛立ちはそう、小十郎が自分に傅くような姿が過分だと感じていたからだ。この身を守ろうと尽くしてくれることは事実だろうが、己が守られる対象という現実に疑問を持つほど、この男は強い意志と秀でた何かを持っている。だから、
「政宗様」
「……」
「貴方を守る事が出来てこの小十郎は嬉しいのですよ」
「嘘ばっか」
“ふう”と背後で溜息が聞こえたかと思えば、又もぐるりと椅子を半回転させられ、小十郎と向き合う。今度は上から見下ろされ、しかも椅子が動かないように両手すりに手を掛け体重をかけられてしまった。
「この小十郎が嘘を言っているかどうか、ちゃんと目を見て判断して下さい」
「わ、解った、解ったからあんまり顔近づけンな」
 身体が近付けば、あの心地よい香りが身を包むように香る。そしてこの体勢におけるシャツ一枚の心細さというのは、同性でも如何ともしがたいもので。
「では、信じて頂けますか?」
「それとこれとは──って、だから顔近いっっ」
「信じて頂けますか?」
「わかった、信じる、信じるからっ」
 離れてゆく男を確認して、慌てて胸元と裾が広がらないように思わず手で押さえる。同性に何を意識しているのかと思うが、もう脈の早さは振り切れ寸前で、呼吸も少しおかしい。
「“守る”という事は、信じていただけなければ守りきれないものなのですよ」
 ベットに投げ捨てられていた紙袋を取り、小十郎は政宗の膝の上にそっと置いた。よくよく見ると衣料量販店の紙袋だ。
「見立ては私なのでお気に召さないかも知れませんが」
“どうぞ”と微笑む。その表情は柔らかく、どこか寂しげで鋭く。
「……」
「政宗様?」
「犬だと言ったよな?」
「……言いましたね」
「主人を選ぶ犬だ」
「!?」
 微かな動揺の映った双眸に、政宗はニタリと口端を上げた。
「お前は、少し仕えて……判断してってんだな。自分が仕えるに値する人間か否か。で、答えとして今まだ誰と決まって守っていない……。なるほど、酷い犬だ。いや、その身をもって尽くすんだから、主人選びは大事だよな」
 勢いよく立ち上がる。そうと解れば話は早い。大体今回、付け狙われて守られるだけの身というのは性に合わなかったし、何の美味しい話もなかったのが面白くなかったが、これは──丁度いい。
「小十郎、」
「はい」
「俺を守れ、俺に尽くせ。この一件が終わった時、俺がお前の本当の主人になってやる」
 自信満々に言い放つ、明らかな宣戦布告。
 驚いた表情のままジッとこちらを見ていた男だったが、クスリと笑みを漏らす。それはどこか今までで一番男の本質を語るような、余裕と憂いを含んだ笑みで。
「それは頼もしい」
「冗談だと思うなよ。絶対跪かせてやる」
「……何かと間違ってやしませんか?」
「いや、間違ってねぇ。それに“犬”なら一人は寂しいだろ?」
「……」
 何も言わず、立ったままジッとこちらを見る男の元へと近付いて、トンと軽く胸を叩く。
「俺はお前の期待を裏切らねぇ。お前の事も裏切らねぇ。いいご主人様だって見せつけてやるさ。離れたくないようにしてやる」
 苛立ちも何も、この男が自分のもので無い所から生まれていたのだ。だったら自分のものにすればいい。互いが納得した関係を築けるように。
 答えず男は笑う。政宗も笑った。
「OK。そうと決まれば明日は打って出てやるぞ。丁度コソコソしてるのは飽き飽きしてた」
「また──無茶をされては守れるものも守りきれません」
「ha! そこを守るのがお前の仕事だろ? 小十郎」
 自信を持ってそう言いきれば、目を一瞬丸くさせるが“やれやれ”といった風に鋭い瞳を細められた。
 絶対に守られるだろう確信を持ちながら、守られる意味や確証が無かった事が腹立たしかったんだと納得して笑う。だったら、思う存分実力を見せてやろうじゃないか。その上で納得して守らせてやる。多少の無茶をしたところでこの男となら切り抜けられる気がした。
 いつものペースで、いや、いつも以上に暴れる事が出来そうで気分が自然と踊る。
「ところで政宗様、ご機嫌なところ失礼しますが」
「Ah?」
「この小十郎、しっかりとお守りさせて頂きますので──着替えてくれやしませんかね?」
 次の一手を考え始めたところでの手荒い突っ込みに一気に現実へと引き戻されて、政宗は思わず持っていた紙袋を小十郎の体へと振り抜いた。
「言われなくても解ってる!」
 クスクスと漏れる笑い声に見送られ、政宗はバタバタと紙袋を抱えてバスルームへと退散した。
 ──今に見てろっ
 これ以上、余計な事も余計な物も増やしたくはないが、この微かに香る甘い香りの守りは身につけておきたいと思う。
 シャツの両襟を掴みそのまま鼻先まで持っていくと、政宗はゆっくりと息を吸い込んだ。










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 またもゲスト原稿依頼にほいほい飛びついてしまったんだぜ(笑)。
 さて今回は現パロの上に「小十郎がシークレットサービスだったら…」という
 特殊設定のダブル。書く前にシークレットサービスを調べるのですが、
 調べれば調べるほどこの職業特殊でして(日本では色々と無理な特殊職業)、
 友人と色々勝手設定山のように作り、そこから書き始めたのを覚えています(笑)
 しかもその無駄に壮大な設定を生かし切れていない上に、ゲストのくせして
 ページがえらいことになり、短くするのに苦労した覚えが(苦笑)
 現パロも本当に誘われなければ、こんな機会でも無ければなかなか書けないモノなので、
 ありがたい経験をさせて頂きました。
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