『栞』
2008/12/29 無料配布本
本は、嫌いではない。どちらかと言えば好きな方だ。かといって全てが全て自分の好奇心をそそるものでもなかったし、本との最初の交わりは、読むと言うより言葉を頭に叩き込むという、課せられた義務だった。
兵法・儒学・経文……硬い書物が多かったが、それでも決して嫌いではなかった。幼い頃からたたき込まれるそれらは、最初、理解して“読む”からほど遠く、声に出して“覚える”もので、まず音から入るモノ。
経を唱えるに近いが、抑揚を付けて読むと歌に近かく、漢詩などは特に、元々歌として作られたものだからこその音の響きは子供心に感動した。
漢詩が一番好きだった。そんな中でこの男は一つの本を片手に、慣れぬ笑顔をニコリと浮かべて部屋へやって来たのだ。
「お伽噺?」
「はい、面白いお話しを見つけました故……」
「いらん。」
即答した。
もちろん、お伽噺や民話は覚えるものではなく、幼い自分が理解できる数少ない“お話”であったため、嫌いではないが、好きでもない気がした。その上、愛想のない傅役・片倉小十郎にまだ慣れていない頃だったので、ただただ対抗意識だけが募っていてそう答えた。
自分を腫れ物の如く扱う者が多い中、腫れ物どころか容赦なく扱う男に対し、複雑な気持ちが生まれていたのだ。腫れ物として恭しく扱う者達を毛嫌らう反面、その扱いに安穏と胡座をかいていた己がいて。だからこそ、裏も表もなく等身大で自分に挑んでくるような男に、未知の不安と同時に“この男には勝てない”と気付いていた。
だが小十郎は自分に傅く。それがとても居心地が悪かった。
「面白いですよ」
「面白くない」
ぷいっとそっぽを向く。それでも男は部屋から退こうとしない。
「梵天丸様」
「なんだ」
「読んでもいないものを、面白いか面白くないか解るのですか?」
「そんなものっ」
「解るのですか?」
退くことを知らない問いかけに、敗北感だけが幼い自分の中に広がった。
嫌だった。子供だからであるとか、城主の嫡男であるとか、全くそんな事は関係なく一対一でこの男は手を抜かず向かってくる。それが己の中に劣等感を生むのだが、不思議と卑屈にはならなかった。そして、生まれた対抗意識は、真っ直ぐ向き合う男の心に呼応するように後々目標へと変わるのだが、それを当時の小十郎が計算に入れていたかどうかは解らない。
口をへの字に曲げたまま言い合いを放棄した自分に、小十郎は小さく咳払いをした。
“関係ない”という態度を取りながら、内心はビクビクしていた。いったい何をするのかと。言い出すのかと。
「では梵天丸様、少々お聞き苦しいかとは存じますが」
「?」
その場にどっかりと居座ると、持っていた本を開き、小十郎は声に出して読み上げ始めた。
話は、平家物語を少し易しくしたような内容で、自分が好きそうな話を男がかなり吟味して持ってきたと解ったのは、読み上げていた声が咳払いのため途切れた時、その拍子にハタと己が聞き入ってしまっていたことに気付いたからだ。
小十郎は朗々と読み上げる。
聞き入りながら、不思議な気がした。
己も今この男が読んでいる本を読めと言われればなんとか読めるだろうが、多分全く違うものになるような気がした。もっといえば、知っている物語も、男が読めば違うモノになるような。
何が違うのだろうと思いながら、自分に読み聞かせようとするその心を心地よく感じ入る。
「──……」
「?」
話の途中で朗読が止まる。その頃にはもう自分は聞き入っており、勝手にふくれていたことも忘れ、朗読が止まったことに少し腹立たしささえ覚えて。
ちろりと小十郎を見ると「梵天丸様」と声をかけられた。
「な、なんだ」
「この若武者の甲冑は、どのようなものでございましょうなぁ」
「え?」
「この勇猛果敢な強者、小十郎はとても好きですが、生憎どのような鎧を着ているのか書かれておらず、残念です」
「残念……?」
「えぇ。もしこの小十郎が今度戦場へ喚ばれたならば、この様な者のように戦いとうございます。ですからこう、少し真似てみたく……」
「形から入るか!」
「えぇ、そうです」
呆れたように声を上げた自分に、男ははにかむように笑う。
その言葉が本当だったのか嘘だったのか、今となっては解らない。だがその言葉は、己の想像力を動かすには十分な言葉だった。
読んでもらっていた若武者を想像する。堂々と戦場に立ち、怯むことなく笑みを浮かべる彼の見つめる先……。
そんな彼が着る鎧……
「綾縅……」
ぽつりと呟く。小十郎は更に微笑む。
「いいですね。黒糸でございましょうか?」
「藍……浅葱綾縅がいい」
「浅葱──でございますか?」
小十郎は少し驚いた顔をした。それもそうだ。浅葱色といえば、色は確かにいいだろうが、罪人色であったり、田舎侍の代名詞に用いられたような色。それを幼い自分が想像すると思わなかったのだ。
「浅葱がいい。花浅葱でもいい」
その頃の自分に、罪人色であるとか田舎侍の代名詞だという知識は、言われてみると程度にしか知らなかったように思う。だが、そんなことは関係なかった。
「何故、浅葱が?」
「戦場には、色がないのだろ?」
「色、でございますか」
「戦場には色がないと聞いた。全ての色がなくなる場だと聞いた。色があってもそれは朱だと。勝った者にも負けた者にも。だから、その武者は浅葱の綾縅だ。戦場を駆ける、色を失わない者。だから」
部屋をぐるりと見回す。浅葱色を捜すが近くには見あたらない。だが活けてあった楓が美しい若葉色で、中でも一枚、生き生きとした色の葉を選んで取り、小十郎に差し出した。
「梵天丸様?」
「これと、空の色を混ぜろ。雄々しい緑にも、高き空にも負けん色になる」
男は笑った。それはそれは嬉しげに。幸せそうに。
多分、その笑顔で自分は様々な警戒を解いてしまったのだ。
「では戦の時に着て行けますよう梵天丸様の想像された、浅葱の陣羽織を作り参戦いたしましょう」
この小さな己が幸せに出来る者。すべき者。
この男は、幸せになるために自分に傅くのだと思った。
人は、幸せになるために自分を育て、ついてくるのだとそう理解した。
それから、自分は小十郎が読み聞かせてくれる本を待つようになり、せがむようになり。離れなくなり。
小十郎が読むと、考えていた通り、知っている物語も新鮮になった。読みながら「この時の菓子はどういったものでしょうかね?」であるとか「何を見ていたのでしょうか」であるとか、物語の中で己が想像したことを小十郎は語らせた。自分も、意見を言う、そして意見を聞いてもらえるということに喜びを感じた。
小十郎も意見を聞くだけでなく、小さな子供の想像に色々と意見してきた。
天気のよい日は縁側に出て本を読んでもらう。その頃には小十郎の膝の上に陣取って、物語に出てくる空は今より高いだろうとか、そんな事を話しながら本を読むようになった。
書物は何よりも好きなものと変化して、閉じられる事はなかった。
本は、書いた者と己との対話。そして協力して自分の中に新しい世界を作り上げる産物──
そう思うようになったのは、一人で本を読むようになってから。
小十郎と一緒に作り上げていた世界は本の枠から飛び出して今、現実の世界での作業と変化し、朗読の必要なくお互い会話する。己の図体もでかくなり、もちろん膝の上に座るということもない。
己の個と小十郎という個を繋げた本は、いつしか二つの個の世界を独立・確立させるものと変わっていった。
「……政宗様」
「ん」
「……いい加減退きませんか?」
「ん〜……」
読む本から目を逸らさず、小十郎はそう言う。
「政宗様」
そう声をかけながらも小十郎の腹を抱え、しがみついたまま離れそうにない俺に対し、小言であるとか呆れるであるとかそういったモノはまるでなく、奴は気にも留めず次へと頁を捲る。
「…………」
昔は、本が自分達を繋いだ。だが大きくなれば、本は個人を磨く物でもあることを理解して。もちろんそれは当たり前なのだが、こうやって、本に夢中になり読みふける小十郎が実に腹立たしい。
まるで本に小十郎を取られた気分になって。
「政宗様」
当てつけに腹へとぐりぐり額を擦り付けていると、長い溜息の後、少し本を上段に挙げ小十郎がこちらを覗き見た気配がした。
「いかがされました?」
押し黙る。
まさか本にやきもちを焼いているとは言えない。
自分達を繋いだ本が、自分達の間を割いている気がするなどと誰が言えるものか。
大きく小十郎は息を吐いた。
「お茶でも入れて来ましょうか」
別にこのままでもいいがとも言えず、ふと顔を上げる。と、読みかけの頁に小十郎は栞を挟んでいた。
少し歪な和紙の栞。
その栞の柄に見覚えがあった。
「それ!」
「はい?」
慌てて身を反転させ、小十郎の腕の中から身を乗り出すように、本を閉じようとしたその手首を掴む。
驚く小十郎以上に自分が驚いていた。
栞の柄として紛れているそれは、その辺りにあるよくある楓ではないとすぐ解った。
浅黄色になってしまっているが、間違いない。
「……あぁ、これですか?」
本に挟まれようとした栞を凝視する自分が、何に驚いたのか気付いたらしい。
「政宗様から初めて頂いたモノですから……。当時、すぐに義姉上と相談致しまして。紙を漉き直し、中に収めました」
本に挟んだ栞が見えやすいようにと、小十郎は腕を引く。とたん、腕の中に収まるような格好で見ていた己は、当たり前だが抱きしめられるような形となり、コツリと肩が男の胸に当たった。
「……本当ならば、もう少し大事に取っておくべきかも知れませんがね」
肩越しに、小十郎も手元の本を覗く。
肩だけでなく今度は背が男の胸に当たり、程なく密着した。
「あの頃と、楓の色は変わってしまいましたが」
耳元で囁かれ、ビクリと肩が震える。
ずるい。ズルイ。狡い。
腕の中に収まり、手中に収まり、何も出来ない。
「私の心は変わりませんよ。」
目を閉じる。
ぱたりと本が閉じられるいい音がした。
了