盗み火







 夜風は身体に悪いというが、昼に溜まった熱を取り去ってくれるのでありがたい。
 下弓の月が流れ雲により姿を隠す。サワサワと風に揺らされる木々の葉。
 酒と杯を用意し、一人で月見と洒落込んでいた彼は、不意にクスリと笑った。
「仕事熱心だなぁ。テメェは」
 庭木に向かい一言。それに合わせ、すらりと立つ影。
 影と二人にんまり。
「まぁ、給料分の仕事はしないと色々とね。‥‥しっかし、右目の旦那といい、此処は忍泣かせだねぇ」
「本気を出してないだけだろう? 本気を出されたら気付くわけがない。盗み見がテメェの仕事だからな」
 言葉の中に含まれていた針に、思わず苦笑いが浮かぶ。
「あれは不可抗力だって。‥‥ごめんね」
「han!」
 用意されていた小さな杯に酒を注ぎ、彼はそれを一気に飲み干す。
「別に。俺にとっちゃぁ見られてマズイことでも何でもねぇ。隠すことでもなんでもないからな」
「隠すことでもなんでもない‥‥ね」
 恐ろしい台詞を聞いたように思う。
 一部始終を見ていたわけではないが、あの足や手のうごめく様は、大概の情事を見た自分でも、目が離れず、同時に目を背けた。
 食われているのか、食っているのか判らないあの様──情事というにも少し遠い気がするあれを“隠すことでもなんでもない”。
「本気だねぇ‥‥」
「本気? 必死なだけだ」
 さらりと言い切るその姿に、漢を感じる。
「惚れそうな物言いだね」
「別に? 片手間でよけりゃぁ相手してやってもかまわんが?」
「冗談! 俺じゃあ一口で竜の腹ん中が関の山だ」
「食えない奴なんぞ食うつもりはねぇな。炎に焼かれて跡形の一遍とて残す気もねぇくせに」
 唇の端を上げながら、言葉遊びの応酬。
 風が前髪を揺らし始める。
「右目の旦那がカワイソウに思えてきた」
「同情してもらいたいのはこっちだ」
 サワサワと木の葉が音をたて始める。
「ほどほどにしなさいよぉ? 身体に悪い」
「ほどほどが一番身体に悪い」
 互いに、笑む。
 薄雲が取り払われ、細く伸びる光を放つ月が姿を現す。
 影は──もうない。
 気にすることなく、彼は月見を続ける。月を眺めてはゆっくりと物思いにふけ、杯にゆっくり酒を注ぎ、又一気に飲み干しての繰り返し。
 すると、酒など尽きてしまうのは当然で。
 ペロリと舌なめずり。自らの唇が、少し甘く感じた。
「少し体が冷えたかな?」
 体が冷えれば又温めればいい。至極簡単なこと。
 長い吐息の後、彼は笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がった。