花茨







 手を伸ばし、掴む事は簡単なのだ。
 ただ、自らのその手が酷く穢れている事を改めて知った時、人は掴み続ける事ができるだろうか?





「“坊主憎けりゃ袈裟まで憎し”じゃ、その辺の奴らと変わんねぇだろ?」
 若い城主はそう言いながら、書状の最後に花押を書いた。
 粗暴な振る舞い、荒い物言い。だがそれに反してというべきか、何事も器用にこなし、要所は確実に押さえる。男の主君である伊達政宗はそんな人物だ。
「だけどよぅ、前田家っていやぁ、あの魔王の息がかかってんだぜ? あの大猿ともなんかあるみてぇだし」
 部下であり、幼馴染の指南の言葉に溜息をついて、筆を置くと、鬱陶しげに前髪をかき上げながら、「だーかーらー」と彼は続ける。
「戦は戦。恩は恩。依頼は依頼。それぐらい出来ねーと、それこそ舐められる」
 機能している左目で、彼は部屋の隅に座したままの重臣の男に、声をかけず、視線だけで呼びつける。
「なにか?」
 呼ばれた男は彼とは違い、物静かな様相だが、その生き様は鋭い眼光と頬にある大きな刀傷によって、激しいものだという事が伺える。
「おめぇこの書状と、用意してある荷をもって、この前話した通り、越中‥‥加賀に行って来い」
「はっ」
「なっっ!」
 忠告した部下は口をぱくぱくとさせ、彼と男を交互に見る。
「ちょ! まてよ。小十郎も早まるなって」
「とはいえ成実殿」
「成実。天下を狙うならどうせ魔王とも大猿ともやりあうんだ。少しでも周囲は知っておいた方がいい。小十郎をやるのはそういった意味だ」
「だけどよぅ」
「こちらの心配としては、政宗様が静かに留守番を出来るかどうかですが」
 男の言葉に髪の色と同じ真っ黒の眼帯をバツ悪そうに、カリカリと彼は掻く。
 何かを計画していたようだ。発つ前に先手を打っておかなければと、男はため息を吐いた。
「成実殿はその間の政宗様を監視してください。どうせよからぬ事を企んでおいでだ」
「げ! 政宗の世話なんてぜってー無理! 俺が行くっ。小十郎がお守りしろよ」
「久しぶりに羽を伸ばせるのです。遠慮します」
「おまえら‥‥」
 歯を見せ威嚇しながら、「用事は済んだ。さっさと出てけ」と、片手で“シッシッ”と二人を払う。
 これからの事を思い、肩を落として出てゆく部下。その後ろについていた男は、去り際に口を開く。
「お土産は何がよろしいですか?」
「土産? ん〜‥‥」
 非常に長い間を取った後、彼はとても静かに「お前が無事に戻ればそれでいい」と呟いた。
 男を使いに出す事は、この若い主君にとって身を切ることとも同意であり、大きな賭けでもある。それでも白羽の矢を立てた意図。それぐらい、彼の右目を勤めている男にはよくわかっている。
「承知。──政宗様、いい子でいてくださいよ?」
「ha! この政宗に“いい子”は向いてないんじゃなかったのか?」
 仕方のない人だ──そういった風に男は笑む。
 多分彼は、悪態を吐きながらも素直に留守番をしていることだろう。
 土産は高くつきそうだ。そう思いながら男は部屋を出て行った。






 奥州の風は少し冷たくなっていたが、ここ、加賀の風は余計な熱を取ってくれ、心地よい。
 堀を越え大手門をくぐると、二の門へたどり着くまでの間、片倉小十郎は荷車の馬たちと歩みと併せ、騎乗する馬の歩みをゆっくりとし、怪しまれる事なく辺りを観察していた。
 元々あった尾張城を改築中か‥‥なるほど、“幸せ夫婦”といって二の次にする相手ではない。第一、ここの城主前田利家は、織田信長とも豊臣秀吉とも親交がある。好戦的でないのが救いであるが、外せない武将である事も確かだ。しかも腕が立つ。
 前田慶次も先だってここにいるわけではないが、むしろ諸国を旅する風来坊という位置の方が恐ろしい。戦国時代は何よりも情報戦と腹の探りあいだ。
 主君である政宗の意図を、城を眺め見ることにより小十郎は実感していた。
 ただ、今回政宗が道理を通す相手は“利家”ではなく“まつ”。
 と、いう事は‥‥
「まあまあまあまあ、小十郎様。こんな遠くまでようこそ」
 二の門前で待っていたのは、政宗に物品の依頼をしていたまつであった。
 庶民的な格好で愛想よくにこにこと笑うその姿は、“城主の妻”というよりは町娘のそれだ。薙刀を持つと、恐ろしい戦力に変わってしまうが。
 馬から降り、一礼をして小十郎は笑む。
「まつ殿こそ。二の門までご側路を」
「城は我が家。客人を、しかも小十郎様自らおいでというのに、大手門までお迎えに上がらなかっただけでも失礼ですわ」
 ころころと笑い、まつは二の丸へと小十郎を案内しながら、世間話を始めた。
「以前、慶次がご迷惑をかけた上にこのような頼みごと、少々気は引けたのですが、政宗様は西国でも珍しい国と国交を持っていると聞きまして、どうしても‥‥」
「祝いの品となれば、最善の物をと考えるのが人間の常。その辺りは政宗様もよく理解しております。」
「ほんとう‥‥本当に、よい殿方でございますね。小十郎様の教育の賜物といったところでございましょうか?」
「私の教育が行き届いているならば、まずあの天邪鬼を直すのですが」
「まぁ」
 まつは又ころころと笑う。
「素直な、よいお子ではございませんか。一の重臣である小十郎様をこのような使いに同席させてくださるなど、真心があり、そして──抜け目ない」
 唇は笑みを作ったまま。
“ほぅ”と小十郎は心の中で呟く。
「抜け目ない?」
 わざと聞き返してみる。すると「ほほ」と今までとは明らかに違う笑みをまつは浮かべた。
「殿方なれば…武士ならば、天下を狙うが真の心。さりとて私は天下などいりませぬ。小十郎様、存分に城内を見てくださいませ。この城は、天下を取るための城ではございませぬ。帰るべき‥‥守るべき城にてございます」
 小十郎の問いに誤魔化すでもなく、まつは即答する。
 政宗が、まつを無下に扱わない理由、そしてわざわざ自分を出した理由を小十郎は改めて実感する。なんと我が主君は慎重でいて見切りが早いか。
「それでは、お言葉に甘えさせていただこう。」
「ごゆるりと」
 風が、城内の木々を揺らす。
“前田家は潰れぬな。この女がいる限り”──小十郎はそう確信した。




「お市の方?」
 差し出された茶を手に取りながら、小十郎はまつを見上げた。
「えぇ。今本丸に、婚儀の着物の寸法を少し‥‥。ですから、小十郎様を二の丸でお泊めする羽目に‥‥」
“申し訳ございませぬ”と続くが、泊る予定が無かったというのが本音でもあるし、二の丸の奥まで招き入れるだけで十分な気がせんでもない。
 本丸にお市の方‥‥。魔王の妹であり、絶世の美女とも名高い。浅井家に嫁ぐとは聞いていたが、政宗様に頼んだ祝儀の品はそれか。
「信長様の下にいらしたのですから、大層目も肥えてますでしょ? やはり女子は、綺麗なもの、目新しいものに弱いのが常。政宗様でしたら目も利きますでしょうし」
「綺麗好き・目新し物好きなら、女子にも勝りましょう。我が主君は」
「まぁ」
 またまつは、ころころと笑う。
「やはり政宗様にお頼みして正解でございましたわ。それにしても‥‥書状の受け取りと確認の花押は犬千代さまでなければいけませんのに、まだ戦われているようで」
「戦われている?」
 眉を顰める小十郎に、「裏山へ」とまつは付け足す。
「裏山?」
「食材との戦にてございます」
「食材‥‥ですか?」
「えぇ。本日は牡丹鍋を予定していますの。紅葉鍋でも良いのですが、このまつ、腕によりをかけますのでご安心くださいませ」
「まつ様!」
 話を切る声。
 ぱたぱたと、廊下を女房達が慌てて走る音が響いた。
「何事ですか」
「お市の方様がまつ様をお探しに部屋を出られたまま、帰ってこられず‥‥」
“まぁ”と声を上げた後、まつは少し申し訳なさそうに小十郎をチラリと見る。
 そんな表情をされては、次に出てくる言葉は、
「どうど、お気になさらず。」
 と、言うしかない。
「お野菜の事といい、慶次の事といい、お品の事といい、甘えさせてもらうばかりで申し訳ございませぬ」
 まつは深々と頭を下げると、女房とうなずきあい、部屋を出ようとするが、思い出したように「小十郎様、城の中はご自由に散策してください」と、いい残して、まつは部屋を飛び出した。
“ご自由に…ありえない”と思いながら見送った小十郎だが、この部屋の周囲であるならと立ち上がり、言葉に甘えさせてもらうことにした。
 通された部屋は二の丸の客間であろう。極力合理的な造りをしているこの邸の中で、優美な庭を置き、見せることに徹底されている。上辺ではなく、小十郎が歓迎されている事は確かだ。
 庭の奥へと歩みを進める。どこか枯山水を思わせる作りが、京の文化に強く影響されている事を匂わせる。
 卒のない城。外のものを吸収する力。力を補い合う夫婦‥‥。このタイプが一番、敵にはしたくない。そんな見解を導き出したと同時に、刺さるように冷たい何かを背中に感じ、小十郎は帯刀していた柄に手をかけて振り返る。
「誰だ!?」
“ひっ”と小さく、弱々しい悲鳴。それは、縁側の廊下に立つ女性のものだった。
 白い肌。対照的な黒く、長い髪。上品な顔立ちの中で異質さを放つ艶やかな唇。
 お市の方──一瞬にしてそう判断がつく。
「‥‥ごめんなさい‥‥ごめんなさい‥‥」
 怯える市の姿に小十郎はハッと我に返ると、柄から手を放し、その場に片膝をつけた。
「申し訳ございませぬ。失礼を─」
「ううん‥‥市がわるいの。まつが、あれ程部屋でといっていたのに‥‥」
 か細い声でそう唱えると、市は小十郎を見下ろした。
「貴方‥‥ここの人じゃ…ないのね?」
 眼光の鋭い小十郎は、確かにこの城では浮いている。
 一層頭を深く下げ、小十郎は名乗りを上げた。
「奥州‥‥片倉小十郎景綱と申します」
“伊達”は名乗らなかった。どこかしら彼女の持つ違和感が拭い去れず、小十郎は“一介の者”を演じる事にした。
「奥州‥‥そんなに遠くから‥‥」
「はっ。」
「どうして?」
「まつ殿に奥州の品々を届けに…」
「“殿”?」
 しまったと小十郎は口を噤む。女とはいえ一介の者であるなら、前田利家の妻を“殿”とは呼べない。いや、呼びにくい。
 口を閉ざした小十郎に、市は静かに「面をあげて」という。
 見上げるそこには美しい顔。
 美しく、無気力な顔。だがそこに小十郎は恐ろしく、それでいて懐かしいものを見た。
 戦国の世の女──特に高貴な家柄に生まれた女ほど品物になる。そして兄があの織田信長ともなれば、彼女がどれほど自分を押し殺す立場にいるのかが手に取るようにわかる。
 全てを儚んだようなその顔。だがその奥底に‥‥いや、その唇から放たれる言葉に、正確に状況を把握し、それでいて何かを狙うような、野心にも似たぐつぐつとする仄暗さを感じる。
──まるで梵天時代の政宗様じゃねぇか。
 自分を殺す事に長けていた幼き主君は、必死にもがいていた。“時”を見ていた。諦めようとしなかった。押し殺した中に宿る生気にあてられた。だからこそ彼に仕える事を決心した。そして、その事を彷彿とさせる彼女は‥‥
──魔王の妹か‥‥浅井家はどう転ぶ?
 お互い、じっと見つめる。
 静かに、市は瞼を伏せる。
「‥‥らい」
「?」
「──きらい」
 彼女は、そう嘯く。
 嘯いて、その赤い唇を伸ばし、笑みを作る。
 笑みを作り、ゆっくりと伏せていた瞳開く。
「あなたの目は‥‥きらい。静かに──市の心を見透かそうとする‥‥」
 微笑みながら怯えの色をかけるその言葉に応えない。事実である。それでいて彼女も又小十郎を的確に捉えようとするその恐ろしさ。
「貴方に好かれた人はかわいそう‥‥。逃げ場がないわ。どこにも。」
 併せて男も笑みを作る。
──上等だ。
「恐れながらこの小十郎、逃げるような相手に惚れも仕えもしませぬ。」
 その応えに彼女は満足気に笑みを作る。
「かわいそう‥‥貴方には相手という逃げ場があるのに、相手には逃げ場を用意しないのね‥‥」
「!?」
 禅問答の様なそれ。しかし彼女の言葉は確実に、底の見えない深い場所へと引きずり込む。
 胸がムカつきはじめた。
「あきらめれば‥‥楽になるのに、あきらめることも許さない目‥‥」
“ふふふ”と笑い声が続く。
 得体の知れないもの埋め込む意識と言葉。
 久しく相対する枯渇と切望の魂は、小十郎が選択した魂と似て異なるものだった。
 自分が惹かれたのは業の闇に囚われながらなお、上を目指そうと足掻く魂。これは、これは諸共に堕ちることを望む魂。
──堕ちるのは確かに楽だな‥‥
 小十郎が静かに立ち上がると、市は一歩だけ後ずさる。だがそれは怯えのために後ずさった一歩には見えなかった。的確に領域を侵されないための、間合いを踏まえた一歩──そう読める。
「この度の婚儀‥‥心からお祝い申し上げます」
 その言葉に、市から発せられていた歪さが薄まる。
「‥‥」
「あなたは‥‥いや、あんたは浅井家でもう一つの人生を見つけるべきだ」
 カッと見開かれる瞳。
 怒りのような憎しみのような、それでいて嘆願のような光が一瞬かいま見えたかと思ったが、又静かに伏せられる。
「いいの‥‥市はあきらめているから‥‥」
 静かに、彼女は嘯く。
 浅井家がこの女を娶った事、吉とでるか凶と出るか。ただ、この女の業の闇は深い。それは確実であった。
「まぁ! まぁまぁ、お市様も小十郎様もこのようなところに」
「まつ‥‥」
 澱んでいた空気が、風にさらわれる。
 二人を交互に見、まつは微笑む。漂っていた空気を読み取った上で、笑ったのだ。
「お二人とも、このような場所で立ち話も‥‥中に入られては?」
「‥‥戻ります‥‥」
 ふらふらと、生気のない瞳を改めて宿し、歩き出す市に、まつについていた女房方がその後を追う。
 その背中が見えなくなるまで見送った後、大きく溜息を吐いたのはまつの方だった。
「私には興味を向けてくださいませんのに‥‥小十郎様は良い殿方ですから」
 微笑む事の出来る強さと恐ろしさ。
「彼女が‥‥」
「えぇ。嫁がれるお市の方様‥‥」
 解っている事を、お互い反復する。なにかを確認するように。
「業が‥‥深いな」
 あえて口にしたその言葉に、まつは屈託なく笑う。
「小十郎様、人は生まれいずる限り、歳を重ねる限り業の深きものでございます。その深き業の外から差し出される手に、出会えるか否か、取るかとらないかの違いにてございます。お市様はやっとその手がある事に気付かれただけ。──私達となんら変わりませんわ」
“私も犬千代様と出会わなければ”などと言い、まつは頬を染める。
「さあさあ、小十郎様もお上がりください。犬千代様ももう帰ってこられることでしょう」
 促され、歩む小十郎にまつは呟く。
「掴んだのなら、離さないでくださいませ。」
 風が頬を撫でる。
「‥‥元より」
 笑む。

「どれほど、暗き闇が潜んでいても──御自らの中に」

 風に呟かれたその言葉に、男は応える事が出来なかった。