未満の恋。
りりりりと一定のリズムを保ち、少し冷たく、それでいて心地よい空気の中で虫の声が響く。
寝間着に羽織り。手かざし行灯を持って廊下を歩いていた男は暗闇の中、目を瞑ってでもたどり着けるその部屋へと向かっていた。だが、夜の暗闇と同じく足取りは重い。廊下を歩きながら何度溜息を吐いただろうか。進めようとしてもなかなか進まない足に、観念したように立ち止まり、男は首の後ろ辺りを無意識に掻いた。
「……」
“今さら”だった。今さらだからこそ、そんなモノはなくてもよかったのだが、残念ながら男の主はそうでもなかったらしい。王威を持つとはいえ、世界はまだまだ知らない事に溢れ、好奇心が尽きない多感期な年頃の彼には格好の話題であり、興味の尽きない話に過ぎなかったのか。主とはいえ十歳も下の少年なのだ。仕方がないと言えば仕方がない。が、
──こんな大男を組み敷く計画は、あまり趣味が良いとはいえねぇがなぁ…。
この時代の衆道は嗜むモノ。また結束を強める手段・心のケアとしても用いられた。だが自分達の間に正直そんなものは必要無いと思えた。
深い愛情と恵まれた環境から一転して、愛情を奪われ窮地に追いやられ、その上人の暗い感情を見続けながら屈することのない主と、生まれながら必要とされる事を長い間知らずに生きてきた従は、多くの主従とは又違った繋がりを持っていたからだ。
普通の主従でさえあるかないかの行為を、彼らが行う必要はなく。なのに、それが今さら上意として主である少年の口から降って湧いた。
溜息が又漏れる。主が望まれれば仕方ない。己に選択肢などあるはずなく、基本、黒と言えば黒、白といえば白の世界。
大きく深呼吸をして、休めていた足を進める。
“そういうもの”なのだ。繋がりなど。目に見えることないものだからこそ求め、安易な形を取る。それは何の不思議でもなく、不健全なことでもなく普通なこと。
解っていたはずだ。なのに己は一体どんな綺麗な幻想を抱いていたのか。いや、今でも多分、十分すぎるほど綺麗な幻想を抱いている。
形ないまま、確固として繋がりたいという美しすぎる幻想。繋がりがあると言うだけでも夢物語と言えそうな現実だというのに、それ以上を求めていた。形を求めた主の方が何と現実的であるか。
それでも──この期に及んでまだ縋っている己に気が付く。
そんな幻想に縋るほど、己は夢見がちだったのだろうか? それとも、他に何かあるのか。己の中に。
「失礼致します。片倉小十郎、ただ今参りました」
行灯の灯を消し障子戸越しに告げると、中から若い主の「入れ」という言葉が聞こえ、諸膝を着いたまま障子戸を開ける。すると、夜風に乗ってぷんっと、酒の甘く独特の香りが鼻を擽り、男は眉を顰めた。
「…政宗様」
「あん?」
入ってすぐの上座では、少年とも青年ともつかない男の主が脇息に肘をつきながら片膝を立て、だらしのない格好で一人晩酌をすすめていた。その表情と体勢で結構な量の酒が回っている事を察した男は、呆れたように溜息を吐いた。
「あまり関心は出来ませんね。その量は」
部屋に入り障子戸を締め終わった男を、若い主は睨み見る。
「何が言いたい」
ご機嫌斜めがその隻眼に現れる。
まだ幼さの残る瞳。手足は大人になるためしっかりと伸びてはいるものの、柔らかさが残る肉付き。戦の経験は数度あるが、初陣からまだそう経っていない若い若い己の主。男とて、城主の重臣から小童扱いされる事があるというのに、さてそうなるとこの主はどうなるのか。
ただ、若くはあるが誰よりも聡く、若い故何事にも敏感だ。多くを語らずとも物事を理解するこの若い主が男は大好きだった。だからこそこの態度とこの行動の原因は分かり易くもあり、諫める対象だと気付く。そしてどこかまだ幻想に縋れることに、内心ホッと胸をなで下ろした。
「するのでしょう? あまり酒を飲むと慣れた女相手ではなく、この大男相手ですからね、勃ちませんよ?」
意地悪くそういってやると、口元まで運んだ盃を一瞬止め、ぐっと喉の奥で何かを飲み込んでから、苦い薬でも飲む表情で盃の中の酒を一気に呷った。
「俺は、若いから大丈夫だ」
「“若い”から言ってるんですよ。大して経験もないでしょうに」
容赦なく言ってやると案の定盃が、胡座を組んで向かい合った男の脚を掠めて飛んだ。
「何か不満か!?」
「いいえ」
上げた声の息が荒い。
部屋の中に充満していたのは、酒の匂いだけではない。緊張と苛立ち。横の部屋は確かに夜具が整えられ、睦事の準備万端と言ったところだが、肝心の空気は伽を申しつけるそういった雰囲気ではない。
おかしいと思っていたのだ。おこがましいが主という意識と同等に、肉親のように想い接してきた彼が、いきなり突拍子もない上意を口にだした事自体。
──誰に何を吹き込まれたか…。
プライド高く、また繊細であり何事も器用に完璧にこなしてしまう彼だからこそ、焚き付けるのは簡単だ。特に若いうちは。
──子供扱いされたか。
多分、今の彼に一番効果的だろう。そつなくこなす彼は文武に秀で、欠点を見つけるのは難しい。そんな彼の欠点を強いて上げるとなれば、欠けた瞳と血気盛んな性格。
“さて”と男は一息吐く。この伽が彼の本心からであるならまだしも、そうでないのなら付き合うべきではない。
そう結論付いて静かに主を見つめると、その落ち着きが気に入らないのか、伸びっぱなしのように乱れた前髪からギロリと隻眼の睨みがこちらへと向けられる。そして荒々しく足音を立てながら近付き、男の前で仁王立ちしたかと思えば、男の胡座の上へと乗り上げて座り、腰を挟み込むように脚を回し、首の後ろにも腕を回してきた。
確かに、確かに体勢だけ取れば色っぽい形と言えなくもないが、彼の、男を見る目は吹き出しそうなくらい勝負事のような真剣さで、緊張が溢れている。艶事云々にはほど遠い。
慌てることなく平然と、体勢を崩さず見つめていると、意を決したように口付けてきた。下唇に噛みつくような、小動物の甘噛みの様な口付けが一瞬施されたかと思ったが、途端離れ、彼は男に顔を見られぬよう俯いた。いや、項垂れたのか。
思わず、口の端を上げて笑ってしまう。
笑いながら、その項垂れた頭に告げる。
「──続け、ますか?」
「……」
これまた意地悪な質問をしたと思う。彼にはやはりと言うべきか、元からそういった思いはないのだ。意地悪な質問に反省しつつ、男は彼の背中に手を回し、子供をあやすようにぽんぽんと優しく背中を数回叩いた。
「何を思い立ったかは存じませんが、必要のない事をするのは大人の行為でも、まして子供の行為でもありません。ただ今を壊す・誤魔化すだけの行為です」
「だが、」
「だが?」
「……繋がりが、その……」
誇り高く聡明。考え方も老成している上に皮肉屋。しかし元からが純粋な上まだ子供なのだ。全く、何を吹き込んでくれたのかと、若き主を抱き直しながら男は思う。
「では政宗様、この小十郎と政宗様の間に繋がりはありませんか?」
顔を上げ、間近にある男の目をしっかりと捉えた後、彼は首を振る。振りながら、その表情は「でも」と語る。
信用がない訳ではない。信頼がない訳でもない。だが焚き付けられ、目に見える何かが、形に残る何かがと思ったのだろう。
そんなことを思ってもらえた。それは何と幸せな事か。
自然に浮かぶ笑みを隠すように、男は腕の中に収まっている主をしっかりと抱きしめる。彼の口からその愛情表現に対し、苦しげな声が一瞬漏れたが、お構いなしで抱きしめ続ける。
「小十郎は果報者です。誰よりも、なによりも」
「……本当か?」
「お疑いに?」
すると腕の中で、男の肩口に擦りつけるように小さな頭が揺れる。
形なきものに形をつけるのは難しい。それを成そうとした主がどうしようもなく愛おしく、終始頬が緩む。
少年…とはいえ青年に近い主を、まるで赤子をあやすかのように抱いたまま、男はゆらゆらと揺り篭のように身体をゆらす。
愛おしい、愛おしい、大事な、全て。
「…いつか、小十郎が立てましょう」
「?」
「しっかりと、政宗様が疑う余地のない小十郎の忠孝を」
「! 別に俺は小十郎を疑っている訳じゃ」
「解っています。ですがこんな、心にもない行為を思いつかれるのはこの小十郎もいささか…」
「こ、これは……あ、謝るっ!」
真っ赤な顔をしたままこちらを直視しない主に思わず吹き出してしまう。
「小十郎!」
「失礼しました。しかし……どういたしましょうか」
「……あ…」
抱き合ったまま二人は、隣の、用意の調った部屋を眺める。
今の二人体勢同様、その部屋は何とも滑稽なものに見えた。
「──せっかくですから、久しぶりに一緒に寝ますか?」
元来甘えたの主は襲名して以降、なるべくそういった、子供っぽい望みを見せないように、出さないようにと心がけている事を知っていた男はそう告げる。すると彼の顔は一気に明るく輝き、そして自身の破顔を察したのか、慌てて整えられた。
「ま、まぁそうだな。寝物語にこの前の父上の遣いの話でも聞いてやるか」
そう言い終わると照れ隠しのように腕の中からすり抜け、すくりと立ち上がってパタパタと夜具の中に潜り込む。
──傅役冥利に尽きるな。
これ以上ない信用と信頼が向けられている。それに呼応して自然と己の中に生まれる、溢れる愛しさ。
何が必要か。
これ以上に、これ以外になにが。
「さて、何から話しましょうか」
男はゆっくりと立ち上がり、倣って夜具へと身を潜めた。
了