狂気








 今、死ねるのならと思った。
 この瞬間に。
 今、この瞬間に死ねるなら──地獄すら浄土だろう。








 いつも壮気溢れる伊達成実の顔からは血の気が完全に失せていた。多分己の顔も同じく蒼白だろう。それもそうだ。我々は彼の一部であるだけ。頭が飛べばすべてが終わる──走りながら片倉小十郎はそんな簡単な事を反復した。
「すまねぇこじゅ兄。俺が」
「成実は関係ない。これは──政宗様の失態だ」
 戦の囂々たる中で、時折その刀を舞わせながら、小十郎は言い切る。
 家臣が主を人前で否定するなどあってはならない事なのだが、傅役として長年、伊達家の主となろう若き主君・伊達政宗の側に使えていた小十郎は、同じ年月、主の理解者として側にいる成実を前に、主を立てるつもりはなかった。
 今回、完全に“統べる者”として選択を間違ったのだ。若い主は。そして、己は。
「けど!」
「今はその問答をしている時じゃぁねぇ。一刻も早く──」
 人の影が行く手を遮るたび、曇天に銀の刃が舞い、赤い雨が降る。その繰り返しの作業に、小十郎の顔は変貌していく。
 人。怒号。鉄。土埃。形相。血。肉塊。臓物。“何か”だったモノ──
 見慣れた景色と行為が、どんどんと自分を冷静にさせてゆく。冷静に、なればなるほど狂気が顔を出すのを男は実感する。
 焦りを、怒りを、力へと変える狂気が。
“まだ出るな、まだ出るな”と自分に暗示をかける。むせ返る血の、鉄の匂いに慣れた己すら酔うというのに、まだ戦に慣れてない政宗が酔って陶酔する事など解りきっていたハズだった。にもかかわらず、目を離してしまったのだ。
──‥‥‥‥。
 天性の戦闘センス。それを持つからこそ彼に危険はなかった。が、そんなものを持っていれば進みたくなる、試したくなるのも心情。
 そう。王威を持つとは言え、彼はまだ全てにおいて経験の浅い少年なのだ。
 主であるが少年でもあるのだ。なのに‥‥
「!! あれ梵だっ!」
 喜びに少し裏返った成実の声が、小十郎の意識を引き上げる。
 成実が駆け走る視界の先に、政宗の姿を確認した。まさかの事態を思い過ぎらせるなど、恐ろしくしてはいなかったが、こうして無事な姿を見て、やっと己の身体に血が巡る感覚を覚え、緊張の度が越えていたのだと痛感する。
 遠くからだが黙視する限り、返り血は派手に浴びているが、大きな怪我はしていない様に見える。それよりも護衛が少ない事に小十郎は眉を顰めた。政宗の護衛の任に付く者から、彼について行くのは大変だと聞き及んだ事はあったが、血に酔った政宗に振り払われたといったところか。
 小十郎は大きな隊を動かせる技量を持つため、安全な、後方に配置される事の多い政宗の護衛に留まらせる事は惜しいと、大殿は別隊で配してくれたが、次があるなら彼の護衛隊として願い出ようと固く誓う。
──次が、あったらな。
 周囲の警戒を己の直下小隊に任せ、小十郎も政宗の元へと駆け寄った。
 成実は今までの心配が一気に溢れでたらしく、政宗に言葉を浴びせながら肩を揺するが、その政宗は一見してここに意識がない。小十郎が合流して、やっと息を吸う行為を思い出したかのように引きつった呼吸をし始めた。
 一刻も早く、ここから逃さなければ。
「梵! 呆けてる場合じゃねぇ。下がれ! ここは俺と小十郎が」
“チッ”と思わず小十郎は舌打ちする。政宗に並び成実も、凡人よりも抜きに出て強いとはいえ、戦慣れしていない者を面倒見るなどそんな余裕はない。今ならまだ抜け出す事も出来るが、残念ながらここは敵の腹の中だ。
「なにバカなこと言って‥‥成実っ! お前も下がるんだっ」
「なぁ!? 無理だろ、この人数を蹴散らすのは」
“解っているなら”と小十郎は一層表情を険しくさせる。
 確かに今は掃除も行き届き静かになってきているが、気を抜くなといわんばかりに、騒動をかぎつけた歩兵が槍を持ち、名をあげようと挑んでくる。
 成実とて“伊達”。そして政宗より若いのだ。危険にさらす事など出来ない。
「無理も何もねぇ。やるだけだ。それよりも来た道に政宗様を逃がす役がいない方が問題だろう?」
 政宗の腕を掴みながら、成実はぐっと何かを堪える。向こう見ずな発言をよくするものの、成実は決して何も見ていない訳ではない事ぐらい、小十郎は知っていた。理解した上で感情を優先させてしまう“若いから”だけではない成実の人間的な性格だった。
「無理云々が問題じゃぁねぇ。己に与えられた役目を、果たすか果たさないかの問題だ。」
「そりゃ‥‥そうだけどよ‥‥」
「無理矢理ついてきたんだから、それくらいやってくれ」
 きついと思うが、当たり前の現実を口にする。そしてここは戦場。“人間的”など一番不要の場である。
 今は雑魚がただ刀の露になるためにノコノコとやって来ているが、そのうちに塊となって押し寄せてくるだろう。それを細かく刻んで血路を拓かなければ、彼らの生還はない。
──鬼の、出番か。
 ここに辿り着くまでにつけられた傷が、政宗の無事を確認して安堵した途端、痛み始めている。見なくても判る少し深い傷が、小十郎に決心をつけさせた。
 大きな隻眼を見開かせたまま若い主は、腹を括った小十郎を呆然と見続ける。その表情は、男が誰であるか認識できているのか不安になるほど強張っていた。それもそうだ。天部の才と威があるとはいえ、彼はまだ公と私が交錯する子供と言っていい。失敗をして当然であり、失敗をしたのなら、それを糧に王となってもらわなければ困る。
 仕える主だからと刷り込まれた意識ではなく、彼は覇王の器を持っている──それを仕えた当初‥‥彼の幼い頃から感じ入り、誰よりも実感したのは己なのだから。
「いいから早くしねぇか!!」
「わ、わかった。梵! いくぞ!!」
 成実に二の腕を掴まれ引きずられるように歩き出す主君を確認すると、小十郎は長く息を吐いて呼吸を整え、冷静な、狂気の己を引きずり出す。
 彼が無事だと解れば、後は彼が彼の立つべき場に戻らせるだけ。そう。彼は王なのだ。この地を統べる王。そして覇王を目指すべき者。
「‥‥?」
 ふと憑き物が落ちたように小十郎は我へと返る。
 己は、何を、何を当たり前な事を繰り返し考えているのかと。
 繰り返し、そんな言うまでもない事を繰り返し‥‥
「‥‥‥」
 夢から覚めたように放心する。
 自覚した。
 あまりに‥‥あまりにも長い間、立場が違うというのに寝食を共にしすぎ、有り余る情が生まれてしまった。ついさっきまでの、冷静さを無くした己に笑いが込み上げてくる。
 主以上の何かを彼に想っている。その激しさは俗な想いのように。その絶対心は崇高なものを崇めるかのように。そして、ともすれば──
 顔を上げる。
 引きずられるように去る政宗と目があった。
 あぁ。
 あぁ。
 それだけで自然に唇の端が上がってしまう。狂気にも近い、愛おしさで。
──‥‥チクショウ。
 主以上のものを見いだし、育んでしまった。今の今まで気付かないほどに。
 手の届く所にいないで欲しい。触れられる所にも。どうか、どうか。自分は意志の弱い人間だから。手の届かないものだと思い知らせて欲しい。そうであるべきだし、そうなのだから。と、ずっと、叫んでいたのだ。叫んでいながら、気付かぬフリをして。だから勝手に意識が暗示をかけ始めていた。
 狂気に、暗示を。
 深呼吸のような溜息を吐く。
 そんな狂気は、戦に使用すればいい。
 若き王の盾となり剣となる。そのための己だ。それで十分──
「梵!!」
 成実の声が耳に届いたと同時に、少しずつだが確実に己から遠くなっていたはずの政宗が駆け戻ってきた。
 一瞬、何が起こったのか理解できず、小十郎は言葉に詰まる。
 主は、彼は振り払って戻ってきたのだ。
 用のない、自分の元に。
「政宗様っ」
「──!」
 小十郎はなんとか言葉を発せたものの、政宗は何かを言おうと何度も口を開けて動かすが、何も出てこない。逆に男はその姿を見る事によって言葉を思い出してゆく。
「何しに戻ってきたんですか。──仕方ない。とりあえず、その兜をとってこの小十郎にお渡しください」
 兜は名を語る。彼を逃がすには、今は語る名などない方がよい。ここで語れば多分‥‥
──この兜、利用するか。
 彼の活路を開くための計画を練る小十郎の前で、兜の紐を解く政宗の指先がカタカタと震えた。それを慰めたい衝動に駆られるが、それは出来ない。緊張や恐怖は、良い反面教師となる。そして慰めが必要な弱い人間でもない。王であるなら尚のこと。
「小十‥‥」
「その御兜、お借りいたします」
 名を全て言わせる前に、兜を受け取り、言葉を断ち切らせる。
 彼は主だ。そして王となるべき人物。
“伊達政宗”という個人の前に公人であり統べる者。
 そう、己が理解できている間に。
 狂気が、出てこぬ間に。
「早く!!」
 向かえに戻ってきた成実を急かす。
「梵! 早く!」
 近づく成実の存在を無視し、必死に、まだ何かを言おうともがき動こうとしない政宗を小十郎は睨む。
 ここは危険だ。そして、どんな言葉であれ感情を吐露されれば、極限の中、自分の暗示が解けそうで。
 この状態でも生きようと己は思っている。生きて返ってまた、彼に仕えようと思っている。だからこそ、主である彼はもちろん無事に生還してもらわなければならないのと同じく、己は家臣として死を覚悟し、そして家臣として生きて帰らなければならない。そのためには──
「あんたがここにいても邪魔になるだけってのがまだわかんないんですか!!」
 びくりと政宗の肩が震るえ、その見開かれた一つの瞳は、非力さに絶望した様に動かない。
「あ‥‥」
 留まる声。
 ここにきて、その留まった声が聞きたいと思ってしまった己に笑みが出てしまう。なんと勝手なものか。
 成実は、今度こそ逃がさないようにと改めて二の腕を掴み、引きずって行こうとするが、政宗は、小十郎から視線を逸らさぬまま、絡んでくる腕を振り払い、抗い続ける。
──知ってはいたが、強情なもんだ。
 そしてその強情さは、どこか本能的に小十郎の決意を察したからだと解る。昔から、主は人の感情に敏感だ。そして恐ろしいほど情け深い。だからその隻眼が、口にしていないはずの彼の言葉を、感情を訴え続ける。小十郎の、有り余る情に呼応するように。
 それが、間違っているモノだとしても嬉しくて、嬉しすぎて。耐えきれず男の手は伸びてしまう。そして伸びた手は、彼の頬に触れた。
 手袋越しにもにも解るまだ幼いための肌の柔らかさが、ゆっくりと擦り寄るように政宗の方から押し付けられ、触れる掌に、重みを感じる。
 ドキリと感情が脈打つ。無意識に出てしまった行為──なのだろう。いや、それ以上になってはならない。そのまま、気付く事のないまま彼の中で消えてしまわなければならないもの。そうでなければ己は──何も出来なくなる。
 ‥‥彼に惹かれている。彼を望む己がいる。そしていま、王ならざる行為をした彼に、酷く喜ぶ自分を見てしまった。
 あぁ。
 あぁ畜生と小十郎は自分の意識を罵倒する。
 死にたいとも、死のうと思ったこともない。だが、今死ねるのなら、どれほど幸せかと思う。
 このまま彼を抱きしめて果てられたなら、どれほど幸せなのだろう。このまま、彼を、このまま──
「こじゅ‥‥」
 意識が暴走している。
 気が付くと、彼の耳元に唇を添えていた己の浅ましさに、自虐的な笑みが浮かぶ。
 何をしようとした? 向けられた感情に対し、真面目に応えようとする彼のその情の深さを利用して、何を言おうとしている?
 己に冷笑して、小十郎は紡ぐ言葉を選ぶ。

「あんたは、俺を選択しちゃならねぇ」

 離れがたいと訴える狂気を抑え、唇を離す。離して彼と向き合えば、添える前と少し違う瞳が小十郎を捉え、その言葉の意味を確認してくる。
“それでいいのか”と。“それが望みか”と。“それが正しい選択なのか”と。
“そうです”と、心の中で同意し願う。が、そんな意識とは裏腹に、手はなかなか離れてくれない。
 意思ではどうする事も出来ない手をはなすため、足から離れてゆく事にした。
 俺が貴方しか選択しないように。
 俺には、貴方しかいないように。
 貴方は俺を選択してはいけない。
 そして決して、俺を選択しない。

 それで、全てが成り立つ。

「──小十郎!!」
 名を呼ぶ声が、己を成した。
 微笑みを答えとし、小十郎は己が何者か思い出す。
 己は彼の右目。彼の一部。彼に仇成す者は全てを闇へと返す閃光。
 唯一の主のために‥‥いや、彼は主などではなく、己の全て。それにかけるのだ。とても自然で、当然な事。

 甘美な想いを身に纏い、小十郎は、死地なる戦場で微笑む。
 何に笑むのか──ただそれは、鬼の笑みではなく、仏の笑みに近いものだった。