決意







 涙というモノは、ただ自然と流れるものだと痛感した。
 そこには意識や理性というものはない。ともすると感情すら伴わないかもしれない。
 流れるのだ。本能から。魂から。

 そこに、理屈などなく。






「梵!! いいから下がれっ!!」
 それは、最悪ともいえる状況だった。
 改名して日は浅く、戦の経験もまだ浅く、浅はかさと慢心の中で起こるべくして起こったソレ。
 むせかえる血の匂いが興奮を増し、更に悪かったのはこの陣を勤める将・伊達政宗は歳と経験に見合わず強かった。
 完全に自分を見失い、敵を、歯向かう者を殺すという作業に没頭し、捕らわれた恍惚感から現実に戻った時には自分の部隊は孤立していた。その状態を理解すればするほど、状況は不利になってゆき。
 そんな中、少数で切り込み、助けに来たのは政宗の従弟である成実と傅役の片倉小十郎だった。大部隊で救助をしてしまえば、敵に異変を悟られてしまうからだ。
「あ‥‥」
 緊張と、体力が切れ始めたために息が上がり始めた政宗を、小十郎はきつく睨み付け、何かを言いかけたがグッと堪えた。
 今はそれどころではない。一分一秒でも早く彼を逃さなくてはならないのだから。
「梵! 呆けてる場合じゃねぇ。下がれ! ここは俺と小十郎が」
「なにバカなこと言って‥‥成実っ!お前も下がるんだっ」
 いつもの丁寧な口調ではない傅役をみる。それは余裕がない事を意味していた。
「なぁ!? 無理だろ、この人数を蹴散らすのは」
「無理も何もねぇ。やるだけだ。それよりも来た道に政宗様を逃がす役がいない方が問題だろう? 無理云々が問題じゃぁねぇ。己に与えられた役目を、果たすか果たさないかの問題だ。」
「そりゃ‥‥そうだけどよ‥‥」
「無理矢理ついてきたんだから、それくらいやってくれ」
 もっともな小言を言いながら小十郎には隙がなく、敵を薙ぎ切る手は休みがない。その姿を、政宗はただ無言で見ているしかなかった。
 混乱と緊張と後悔と。正気に戻った意識に向けて、一度に押し寄せてきたあまりの情報量に気分が悪くなってくる。
 呼吸が自然と速くなる。その変化に気付いた小十郎は大きく舌打ちをして、「いいから早くしねぇか!!」と成実にも部下達にも怒鳴りつけた。
「わ、わかった。梵! いくぞ!!」
 掴まれた二の腕に引きずられるようにして歩き出した政宗は、放心しかけた中で、今を見る。
 血。 死体。 土埃。 敵。 刃。 醜い形相。 倒れる人。 鍔迫り合い。 うめき声。 臓物。 怒号。
 叫び。 己の呼吸。 自分を呼ぶ声。 味方の顔。 血の匂い。 焼けた匂い。 肉の生臭い匂い。
 澱んだ空気の合間をぬってたどり着く風。
 ざわめく木。
 曇った空。
 よく知った男がこちらを確認し、口端だけを上げる笑み。
 そしてその羽織にべっとりとつく──。
「梵!!」
 掴まれていた手を振り払い、政宗は小十郎の元へと走る。その行動に驚いたのは成実達だけではなく、殿(しんがり)の役を買った小十郎もだった。
「政宗様っ」
「──!」
 何かを、何かを言いたいというのに、何も言葉になって出てこない。そんな政宗を驚いたまま眺めていた小十郎だったが、途端、厳しい顔付きへと変わる。
「何しに戻ってきたんですか。──仕方ない。とりあえず、その兜をとってこの小十郎にお渡しください」
 兜は名を語る。今は語る名がない方がよい。
 辺りはほぼ片付き、少しの余裕が出た中で指示する小十郎に言われるがまま兜をとり、様子を見ては警戒を怠らない男に何か声をかけようとするが、まるで言葉を忘れたかのようになにも出てこない。
 指先はカタカタと震える。
 見てしまった。
 羽織の透き間から、返り血ではないものを。
 返り血ではないものを。
「小十‥‥」
「その御兜、お借りいたします」
 やっとはずした兜を受け取り、小十郎は迎えに来た成実達に向かい、「早く!!」とせかす。
 言葉が出ない。
 何も伝えられない。
 男の名すら呼べない。
 何も──
「梵! 早く!」
「あんたがここにいても邪魔になるだけってのがまだわかんないんですか!!」
 一喝に、びくりと肩を震わせ、政宗はその瞳を見開く。
 なにも──
「あ‥‥」
 喉の奥で出た音は、やはり言葉にはならない。
 もう一度掴まれ、引きずられる二の腕。
 それでも、どうしてもと抗おうとする政宗の頬に、不意に男の手が伸びる。
 悲壮に向けられる、まだ幼さの残る大きな瞳に耐えられなかったのだろう。彼を落ち着かせるように触れられた後、耳元に唇が添えられた。
「こじゅ‥‥」

「あんたは、俺を選択しちゃならねぇ」

 静かな囁きが身体の奥まで響いたかと思えば、違う緊張が躰を硬直させる。
 それは彼だからこそ差し出された選択。大人になり、主となる者だからこそに突きつけられた選択。
 すぐにその唇は離れ、この戦場に不似合いな、困ったような穏やかな微笑が向けられたかと思うと、その手は、指は、彼を撫でるよう、名残惜しげに離れてゆく。
 今、見ていたものが、全ての感覚が夢物語のように遠く錯覚する中、その声と、触れられた感触と、笑みだけが残り。
「──小十郎!!」
 やっと出た言葉に合わせ戻ってくる、どず黒い現実の色彩と耳障りな音。
 小十郎はもう一度にこりと、いつもどおりの笑みを皆に向けたかと思うと、数人の部下を引き連れ、政宗達に背を向けて走り出だした。
 見慣れた背は赤い。
 ぽとりと、汗に混じって涙が政宗の頬を伝い落ちる。
 嗚咽も何も伴わず、ただ溢れて落ちた。
 その涙に、解る範囲の感情は含まれておらず。
 悔しいだとか、悲しいだとか、そんなもので流れたものではなく。
「──くぞ」
「?」
「下がるぞ! 成実!!」
「ぁ、あぁ、」
 態度の急変に、一瞬ぽかんとした成実だったが、気が変わらないうちにと、政宗を囲むような陣形をとって走り始める。


 遠くで、聞こえるはずのない名乗り口上が聞こえた。